ラグビーにまつわるいろいろのこと

 テレビ放映で、ラグビーW杯の日本-アイルランド戦を観戦した。まずは優勝候補と言われる強豪アイルランドに勝利した日本代表チームに祝杯を。

 日本で開催しているW杯だからテレビで観る、というのも我ながらミーハーだなと思うが、それだけではない。英国発祥のスポーツだけに、英国の代表チームが一つではなく、イングランドスコットランドウェールズと英国内の各地域が揃い踏みでそれぞれ出場しているあたり、そしてもちろんアイルランドも当然のように出場していることが、英国びいきの私は何やら嬉しく感じてついテレビ観戦してしまうのである。先日観たスコットランドアイルランド戦も、内容的にはアイルランドの完勝だったが、この両チームが対戦しているのを見るだけでブリテン島やアイルランド島の風を感じるような錯覚を覚えることしきり。かなり荒っぽいプレーも出てきてしまうラグビーの試合を、極力「紳士的」にフェアプレーで試合が行われるように様々な厳しいルール上の制約をつけているのも、いかにも「紳士の国」英国の上流階級で育まれたスポーツだなと、親近感を感じてしまう。それも、私がかつて留学のために一年間英国で暮らした時の空気感が甦ってくるような、そんな心地がするからだと思う。

 ニュージーランドやオーストラリアを筆頭に、英国とゆかりの深い国のチームが強豪だというのも、いかにも英国発祥のスポーツだと思う。その中で日本も、開国早々伝来して以来ラグビーが非常に盛んだというのも、明治期の日本が新しい国づくりにおいて英国との繋がりがとても深かったことと無縁であるまい。総人口比や他の競技人口との比較においても、日本のラグビー競技人口や人気の高さは世界でも有数なのではないだろうか。

 私自身、小さい頃のお正月の思い出のひとつとして、正月二日には必ず大学ラグビーの準決勝をテレビで観ていた記憶があり、そのせいで「ラグビーといえば大学ラグビー」という刷り込みがかなり強かった。私の亡き父は、その日は箱根駅でを観て大学ラグビーを観るのを毎年楽しみにしていた。どちらもその頃は早稲田大学が出場の常連だったから、早稲田のOBであった父は、もちろん早稲田を応援するのが楽しかったようだ。フォワードの力技で押してゆく明治大学に対して、バックスの華麗なパスで繋いで攻める早稲田、というイメージがなんとなくあったので、私自身もその頃からパス回しで繋ぐプレーが好きだった。そのほうが観ていて面白いこともあるし。今日の日本チームの試合も巧妙なパス回しで攻める場面が実に多く、私としては観ていて非常に面白い試合だった。

 もうひとつ、ラグビーの場合は国や地域に代表チームのメンバーになるのに国籍が絶対条件ではない、というのが私としては非常に面白いし重要だと思う。このことが、国や国民というものについて考えるいい材料にもなった。

 ラグビーの場合は「協会主義」なので、どの国のラグビー協会に所属しているかが重要なのだそうだ。それゆえ、その国に帰化しなくても条件さえ満たせばその国の代表になることができるとのこと。

 実際に、日本代表チームには外国籍の選手がとても多く、日本に帰化した選手も多い。多分逆のケースもあるだろう。これは日本代表で突出して多いわけでなく、他の国の代表チームでも似たような多さである。このことに対してはいろいろな意見が交わされているようだが、私は何より「他国籍を持つ人が日本を代表してプレーできる」ことの自由さを重視したい。持って生まれた国籍を誇りに思うことも否定しないが、国籍とは違う国の一員として生きることを選べる自由があるということを、このラグビーW杯は身を以て示しているのではないかと、私は思うのだ。その試合を観て、各国の代表チームを応援することそれ自体が、その自由を支持することの表明でさえあるかも。私たちは、そうした「持って生まれたもの」に過度に束縛されることなく、もっと自由であっていいと思うのだ。今回のラグビーW杯の日本での開催は、その自由の大切さを日本人に分かりやすく示したいい例になったように思う。

 

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 写真は、本日の夕食より。茄子入り麻婆豆腐。

 

(2019年9月29日投稿)

五月の風の中で

夕方が近づいて、窓から透明な陽射しが差し込む。

涼やかなそよ風が吹き込んでくる。

 

リヴィングのソファで寛ぎつつ

本のページをめくりながら

その風を頬で感じる。

頬に笑みが浮かぶ。

 

実に心地よい初夏の夕方。

忘れ得ぬ小さな幸せの時間

 

結局のところ

人生のほんとうの幸せは

お金とか名誉とか地位とかそういうものではなく

こういう何気ないとき、ところに

ひっそりと佇んでいる

ような気がする。

 

月並みだけれども。

そんなことを想った、今日の夕刻。

 

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(この写真は2019年5月22日に撮影)

(2019年5月24日投稿)

 

 

誕生日に想う

 何度もこの日に書いてきてはいるが、しつこく今年も書く。

 本日、5月17日は、私の誕生日である。

 ちなみに、これも何度も書いていることだが、ノルウェーは5月17日が最も重要な国民の祝日憲法記念日」。国の誕生日と呼んでもいい日だ。今日のノルウェーの人々のインスタグラム投稿を見ていると、ほとんどの人が"Happy Birthday, Norway!"的なことを書いている。

 ノルウェーの人たちは、国を挙げて私の誕生日を祝ってくれているのだ(違)。

 それにしても、50歳を過ぎたいい大人が、いまだに自分の誕生日を騒いでいるのもアレだなと思って、ふと考えてみる。

 おそらく、誕生日というものが持つ「自分だけの特別感」が好きなのだろうと思う。

 誕生日というのは、それが元日とか大晦日とか特別な祝日に当たっていなければ、まあ自分とその周辺以外の人々には何ら特別でない「普通の日」、その前日とも翌日とも変わらぬ連綿と続く平凡な日のひとつである。当人たる自分でさえ、誕生日というレッテルがなければ、今日はごく普通の天気の良い爽やかな初夏の一日だな、と思う程度で終わるだろうし。

 私の場合、どうもこの自分にとっての「特別な日」と一般の人々にとっての「平凡な日」とのギャップを埋めたくなってしまうようだ。だからつい騒いだりノルウェーのことを持ち出したりするのだろう。「自分だけの特別感」を他の人と共有したくなる気持ちというか。これって別に私だけの特別な感情ではなくて、意外とみんなに共通している心理だと思うのだが、いかがであろうか。

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 それにしても、今日は実に爽やかによく晴れた一日だった。夕方などは湿気が抜けてほどよく涼しい風が吹いて、まるでヨーロッパに来ているかのような気分に浸ってしまう。なんだか気分が浮き立って夕方に近所の公園まで散歩に出かけてしまった。どうもここ数年、自分の誕生日に雨が降ったという記憶がない(都合よく忘れているだけかもしれないが)。

(2019年5月17日投稿)

 

ドライフラワーとフレジエ

 毎年同じことを書いているようで恐縮だが、5月12日は私の妻の誕生日である。

 私の誕生日が5月17日なので、それまで5日間だけ夫婦同い年になる。

 今年の妻の誕生日は第2日曜日なので「母の日」と重なった。これまた日付からして何年かに一度は必ず巡ってくるので、すっかり慣れっこだ。花屋で妻の誕生日のために花を買うと、必ずと言っていいほど「母の日カードつけますか?」と訊かれてしまい、「いいえ、誕生日カードでお願いします」と訂正するのも毎度のことだ。

 今年のお祝い花は、二人揃って近所の花屋さんに行ってドライフラワーを購入。

 ドライフラワーを買うつもりではなかったのだが、ちょっと目についた花束がかわいかったのでこれに決めてしまった。紫とピンクと白の微妙なグラデーションぶりが、なんとも可愛らしい。

https://www.instagram.com/p/BxW3EfXgFNi/

 3月にもドライフラワーの花束を買ったので、最近ドライフラワーづいているなあと実感。でも長持ちするし、どことなく枯れた風情が(ドライフラワーだから当たり前か)最近とみに心に染み入るようになり、とても安らぐ。身内を亡くしたことで強く意識するようになった現世の無常感を、ほんの少しだけ和らげてくれるように感じるからだろうか。

 花を買ったついでに「プラチノ」というケーキ屋さんに寄って、妻の誕生日のささやかなお祝いにケーキを購入。

https://www.instagram.com/p/BxdvomijtLm/

 買ったケーキのうちひとつが、この写真の「フレジエ」。この店の定番ショートケーキだ。苺好きとしてはやっぱりこれは外せない。夕食後にいただきました。

猫のような毛並みがもふもふ

https://www.instagram.com/p/BxL2bqMglQk/

 映画『名探偵ピカチュウ』"Pokémon Detective Pikachu"を109シネマズ二子玉川にて鑑賞。字幕版。

 正直言って、これまで私はポケモンのゲームをプレイしたことがないし、漫画を読んだこともテレビアニメを観たこともほとんどない。ポケモングッズも集めたことないしねえ。ポケモンに対しては、世間一般程度の知識しか持っていなかった。ポケモンの「顔」ともいうべきピカチュウにしても、まあちょっとカワイイかなくらいの認識だった。

 だが、ポケモンの、ハリウッドでの初の実写映画である本作の予告編を見て、「この」立体的で動き回るピカチュウの凄まじいカワイさにヤラレてしまい、一も二もなく映画を観に行った次第である。なんというか、ある意味ハリウッドの「すごさ」を如実に感じた作品でもあった。

 とにかく立体的なピカチュウの毛並みがふさふさして、本物の猫みたい(ピカ「チュウ」というだけあってモデルは鼠なのだろうが、サイズといい毛並みの感じといい猫っぽさが溢れている)。見るだけでふさふさの毛並みの手触りが伝わってくるような錯覚に襲われる。最近、私の家の近所で妙に人懐っこい猫をよく見かけるので、その猫をなでなでしてあげるのだが、その毛並みの手触りを如実に思い出してしまう。うーん、このピカチュウ、すごくなでなでモフモフしてあげたい! 更にこのピカチュウ、しわくちゃ顔やしょげ顔をはじめ非常に豊かな表情を見せる。これがまたすごくカワイイ。そしてちょこまか走り回りながら、ライアン・レイノルズのおじさん声で毒舌かましつつ喋りまくるのがまた妙にアンバランスだが慣れると意外に似合ってカワイイ。ちゃんと口を動かして喋っているのがいちいちカワイイ。とにかくカワイイ。

 ピカチュウがカワイイ。

 ピカチュウがカワイイ。

 ピカチュウがカワイイ。

 ピカチュウが(以下同)。

 「名探偵ピカチュウ」はすでに独立したゲームとして存在するそうだが、この映画の勝利ポイントはピカチュウに「おじさん声」で喋らせて、カワイイ外見とのギャップを際立たせたことか。この手の設定はもちろん『テッド』"Ted"(2019年1月26日の日記参照)が最初で、あの映画はアレで大好評を博したわけだが、そこから得た着想のように思われる。こちらは子供も観ることを想定した映画なので、さすがにテッドほどオヤジで下品ではなかったけれど(笑)。ピカチュウがおじさん声で喋っている理由というか真相は、実は物語の根幹と密接に結びついているので、「単なる趣向」で終わらないところがミソか。

 その物語の方も意外に(?)手堅くオーソドックスにまとまっているし、何重にも父子関係を織り込み、友情やバディ精神を加えたヒューマンな主題を込めてなかなか面白かった。「探偵もの」らしくミスディレクションのどんでん返しも用意されている。と言ってもそこはポケモンなので、お子様も観て分かる程度のレヴェルに抑えられてはいるけれども(笑)。この映画でエラリー・クイーンばりの論理ガチガチのトリックなどは期待してはイケマセン(笑)。そこはオトナになって鷹揚に構えましょう(というのも、別のところでこの映画の「謎解きがチャチい」という、かなり無理筋で大人気ないレビューを見たもので)。とにかくこの映画のプロットも設定も謎解きも、全てはピカチュウのカワイらしさを愛でるための仕掛けなのですから!

 それにしても、ポケモンという、極めて日本的な二次元的(漫画・アニメ・ゲーム)文化のキャラが、西洋的なハリウッドの三次元実写映画(ハリウッドはアニメさえも三次元の表現物にしてしまった)のフォーマットで表現されているというこの状況、正直言って観ていてどうも背中が微妙に痒いような気分が抜けなかったのも事実。両者の持つ世界の違いが、先入観として自分の中に厳然と存在する故だと思う。線画で囲って造形するのが標準とされた日本漫画・アニメの造形表現を、輪郭線がなく形体と面のテクスチュアで表現する西洋の方法で再表現することへの微妙な違和感(悪い意味ではなく、単に「違う」という感覚)というか。日本の浮世絵という、西洋的な表現の「常識」から逸脱した新たな視点を19世紀に印象派の画家たちが「発見」したのと似たようなカルチャーギャップと言うべきか。戦後日本の、欧米の文化を無意識に「上」に位置づけてしまう価値観の残滓も残っているのかもしれない。最近だと、『レディ・プレイヤー1』"Ready Player One"を観た時に、これと近い不思議な感覚を覚えた。

 人間とポケモンが共存するライム・シティは、異質なものが共存するある種の理想郷として登場するが、その、内に問題を抱えた理想郷ぶりが『レディ・プレイヤー1』や『ズートピア』"Zootopia"を彷彿とさせる。また、ライム・シティでは人間が必ずポケモンを連れているのだが、「ライラの冒険」シリーズでの人間とダイモン(こっちは動物の姿だが)の関係を連想した。こんな風に個々のアイディアは既出のものだが、それらをポケモンの枠内で成立させたことが、この映画の特色になったように思う。映画に出てくる様々なポケモンの特徴を、物語を転がしてゆく要素としてうまく活用していたのも、そういう意味ではとても良かった。

 ヘンリー・ジャックマンHenry Jackmanによる音楽も思いがけず良かった。特徴的なメロディーが出てくるわけではないが、エレクトロニカ系のようなアンビエントで静謐な、私好みのスコアが随所に出てきて耳を惹いた。主題歌とかはどうでもよくて劇伴スコアが大好きな私にとっては、このサントラは要チェックです(後日購入しました)。

「名探偵ピカチュウ」オリジナル・サウンドトラック

「名探偵ピカチュウ」オリジナル・サウンドトラック

 

 長々と書いたが、何と言ってもピカチュウのもふもふしたカワイらしさが全て! ピカチュウ見たさに、2週間後にもう一度劇場で観てしまった(笑)。もちろん映像ソフトも買います。

(2019年10月25日投稿。これも途中まで書いたまま、長いこと放置してしまいました)

ここでの「Rise」の意味は?

 タイトルが公開されたことに、今日ようやく気がついた。

 もう前作以来すっかりグダグダで、アンテナを全然張っていなかったから(笑)。

eiga.com

wired.jp

jp.ign.com

 

 ティーザー予告編も公開されていました。これは日本語版。


「スター・ウォーズ/ザ・ライズ・オブ・スカイウォーカー(原題)」特報

 

 オリジナル英語版のティーザー予告編はこちら。


Star Wars: Episode IX - Official Trailer

 

 この英題の「Rise」は、邦題だとどういう言葉に訳されるのか。タイトルを聞いてパッと思い浮かんだのは「興隆」「隆盛」だったのだけれど。皇帝に代わってスカイウォーカー家が銀河を支配する、とか。

 前作『最後のジェダイ』"The Last Jedi"の評判が散々なことになった(世間的には「賛否両論」と言われているが、私の周囲ではほぼ「否」一色だった)ために、あまり世間でも前2作に比べて大騒ぎしていないような気がする。

 私個人にとっての『最後のジェダイ』は、個人的な事情で大変だった時期に一度観たきりだったので、自分の中でモヤモヤしたまま己れの評価をつけられないまま放置(?)状態だった。かといってもう一度観る余裕も気力もなかったしねえ。少なくとも「スター・ウォーズ」へのワクワク感がすっかりトーンダウンしてしまったのは間違いない。その状態のままで、そういえば今年の年末にはエピソード9公開かあ、くらいになっていました(笑)。『最後のジェダイ』については、なんとか完結編公開までに自分の中で決着をつけて、このブログに過去日記を書かないと(笑)。

 なんだかんだ言っても40年来の「スター・ウォーズ」ファンですから、"The Rise of Skywalker"、観に行くつもりですよ〜。とりあえず予告編を観ると、久しぶりにワクワク感が甦ってくるし。敢えて『最後のジェダイ』で大きく落として(エピ8はそのための捨て石だったりして)、反動も活用してものすごい盛り上がりを見せてくれるかもしれないし。少なくとも予告編から伝わってくる「なんかすごい、とんでもなく壮大な何か」は、私がすごく好きなテイストであるのは間違いないし。

realsound.jp

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 「物語の終わり」を見届ける義務が、私にはある。

(2019年4月18日投稿)

 

【追記】

 すっかり追記するのを忘れてしまっていたが、エピソード9の正式な邦題は「スカイウォーカーの夜明け」に決まったのでした。

 「夜明け」か〜。なるほど。この語ならば「興隆」の意味合いも含まれているし。と、最初に聞いた時には、なかなか上手い言葉を選んだものだと思った。どんな内容になるのか全く見当はつかないけれども。

(2019年9月29日追記)

セーヌの貴婦人よ

 朝起きて、パリのノートルダム大聖堂が火災で深刻な被害に遭ったという知らせに接し、暗澹たる悲しみに包まれた。なんという悲劇。13世紀に建造されて以来700年以上の間、数度の革命も二度の世界大戦も乗り越えてパリの市民と苦楽を共にしてきた、ゴシックの優美な貴婦人。本当に、言葉がない。

www.bloomberg.co.jp

 大学時代に中世ヨーロッパの美術史を専攻して以来、中世ヨーロッパの美術や建築をこよなく愛し続けてきた私には、あのセーヌ川に映る優美な大聖堂の佇まいはこの上ない喜びだった。700年の間パリの人々、いや世界の人々にとってのモニュメントであり続け、幾世代にわたる人々の祈りや想いを、喜びや哀しみを、数え切れない人生を見つめ続け、包んできた歴史の証人。その歳月がこの火災と共に大きく損なわれるという悲劇。どんなに言葉を尽くしても伝えられない気がしてもどかしい。13世紀にこの大聖堂を建造した人々の想いが、700年の歳月と人々の想いの積み重ねが、ほんの数時間の火災で失われてしまうことの恐ろしさ。我々が先人から託されたものは、それほどに重いのだ。

 東京でノートルダム大聖堂に匹敵する建物があるだろうか? 700年という圧倒的な歳月を想うと、ないような気がする。

 京都だったらどうだろうか。とここまで書いて、京都でもかつて、金閣寺が消失するという悲劇があったのを思い出した。

 なんということだろうか。京都の街はすでにこの哀しみを経験していたのだ。

 ただ、ノートルダム大聖堂のような、位置的にも精神的にも街の中心にあるほどの圧倒的な「中心性」までは、さすがの金閣寺でも持ち合わせていなかったようにも思う。

 私が最後にパリを訪れて、ノートルダム大聖堂を見たのは2006年の7月だった。妻と母と今は亡き父と4人で、あの堂々たるファサードを見上げたことを憶えている。

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(2006年7月9日撮影)

 金閣寺は再建された。ノートルダム大聖堂も、きっと甦る。あの優美な佇まいやこの世の美を超越してしまったかのような薔薇窓は、これまでと全く同じようには再現できないかもしれないが、それでも、信ある人々の手によって不死鳥のごとく甦ってくれるに違いない。

 高村光太郎の詩「雨にうたるるカテドラル」を、ここに引用する。

 パリのノートルダム大聖堂をうたった、有名な詩だ。

おう又吹きつのるあめかぜ。

外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、

あなたを見上げてゐるのはわたくしです。

毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。

あの日本人です。

けさ、

夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、

今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。

わたくしにはまだこの土地の方角がわかりません。

イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを

向いてゐるかさへ知りません。

ただわたくしは今日も此処に立つて、

ノオトルダム ド パリのカテドラル、

あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、

あなたにさはりたいばかりに、

あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

もう朝のカフエの時間だのに

さつきポン ヌウフから見れば、

セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べり繋がれたままです、

秋の色にかがやく河岸の並木のやさしいプラタンの葉は、

鷹に追はれた頬白の群のやう、

きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。

あなたのうしろのマロニエは、

ひろげた枝のあたまをもまれるたびに

むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。

逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた

矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。

広場はいちめん、模様のやうに

流れる銀の水と金焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。

そして毛あなにひびく土砂降の音です。

何かの吼える音きしむ音です。

人間が声をひそめると

巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。

外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら

わたくしはその中に立つてゐます。

嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。

ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。

 

おうノオトルダム、ノオトルダム、

岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、

気(かうき)の中の暗礁、

巴里の角柱、

目つぶしの雨のつぶてに密封され、

平手打の雨の息吹をまともにうけて、

おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、

あなたを見上げてゐるのはわたくしです。

あの日本人です。

わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。

あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、

はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。

何の故かまるで知らず心の高鳴りは

空中の叫喚にただをののくばかりに響きます。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

出来ることならあなたの存在を吹き消して

もとの虚空に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。

けぶつて燐光を発する乱立。

あなたのいただきを斑らにかすめて飛ぶ雲の鱗。

鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念(しゆうね)くからみつく旋風のあふり。

薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ。

しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、

飛びかはすエルフの群を引きうけて、

前足を上げ首をのばし、

歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。

不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互いにうなづき、

横手の巨大な支壁(アルプウタン)はいつもながらの二の腕を見せてゐます。

その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に

おう何といふあめかぜの集中。

ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。

あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。

はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました。

その中にあなたは立つ。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

その中で

八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、

昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。

真理と誠実との永遠への大足場。

あなたはただ黙つて立つ、

吹きあてる嵐の力をぢつと受けて立つ。

あなたは天然の力の強さを知つてゐる、

しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる。

おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、

それにさはるわたくしの手は

まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。

そのエスメラルダにつながる怪物
嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭に潜んでゐます。

あの醜いむくろに盛られた正義の魂、

堅靭な力、

傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者

ましてけちな人の口の端を黙つて背にうけ

おのれを微塵にして神につかへる、

おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。

せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、

あなたの荘厳なしかも掩(おお)ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育まれて、

あれからどれくらゐ生まれた事でせう。

 

おう雨にうたるるカテドラル。

息をついて吹きつのるあめかぜの急調に

俄然とおろした一瞬の指揮棒、

天空のすべての楽器は混乱して

今そのまはりに旋回する乱舞曲。

おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、

嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、

今此処で、

あなたの角石に両手をあてて熱い頬を

あなたのはだにぴつたりと寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、

酔へる者なるわたくしです。

あの日本人です。

 

 パリの貴婦人よ。

 セーヌ川に佇む、優美ないにしえの貴婦人よ。

 

(2019年4月15日投稿)