過去の人々にも「違う靴」を。

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 佐藤信編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで』(ちくま新書)を読了。現在第4弾まで出ている、ちくま新書の大人気「古代史講義」シリーズの記念すべき第1集を、ようやく読むことができた。

 

 日本古代史研究の最前線に立つ気鋭の15人が語る、最新の研究成果。これを読むと、数十年前に学校で学んできた教科書の記述が、今やいかに時代遅れになのかを痛感する。あの頃当然のこととされていた「事実」に、現在どれだけ疑問符が突きつけられているか。中には、明らかに誤りと認定されたものも。ましてやそれらの純粋な「歴史的事実」に正邪や善悪の判断が入り込む余地など、本来はあるはずがない。

 もちろん数十年前、つまり私たちが義務教育を受けていた頃の学校の教科書よりは、今まさに学校に行っている子どもたちの、現在の教科書の方がそれらの研究成果を踏まえた新しい記述になっているはずだとは思うのだが、最近の教科書の内容を知らない身としてはなんとも言えず。どうなのでしょうか?

 日本の古代史研究は、特にこの数十年の間の「進化」がめざましい。最新の科学的調査法を積極的に導入して飛躍的に調査の精度や情報のクオリティを上げた発掘調査結果や、木簡などの出土文字資料などの多角的史料、さらに他分野の横断的な研究の調査成果を踏まえた、近年の日本古代史研究。それら「物的証拠」に支えられた成果なのだから、当然のことながら従来の文献史料研究だけで定説とされた学説よりも、格段に精度の高いものばかり。それに従い、歴史を叙述する作業も、思い込みや断定や特定のイデオロギーに依らず、より事実に即して客観的におこなうことが可能になる。この本を読むと、次々と古代史がより実情に近いものに書き換えられていることを、ひしひしと感じるのだ。

 この最新の研究成果を、できるだけ早く学校の教科書に反映させていく必要があるのは、もちろん、当然のことだ。だが、より重要なのは、私たちのように学校をとうの昔に卒業して、もう歴史について学ぶ必要は全くないと思い込んでいる大人たち(もちろんそれは間違い)こそ、この本を読んで自己の歴史認識をアップデートしてゆかねばならないということだ。私たち大人は学校を卒業して世の中に出て、学校で学んだことが全てではないこと、学校で学んだことが絶対ではないことを、既に身を以て知っている。特に高等教育の本質は、「学び方」のスキルを身につけることに尽きる。だから、学校を卒業しても、学びは続く。人にとっての「学び」は一生終わらないものだ。

 さらに、学校の教科書は分かりやすく身につけさせる便宜として、事象の流れをとかく大づかみにしようと単純化・図式化してしまう傾向がある。特に、ものごとを二項対立に持ってゆきがちで、そこに善悪の押し付けが入り込む余地を生む。実際の歴史上の出来事は、そんな単純なものでは到底なく、実に複雑で錯綜しており、かつ多様性をはらんだものであることが圧倒的に多い。我々の現在の暮らしや社会が、まさにそうであるのと同じように。

 いうまでもなく、古代と現在は同じ人間の営みの延長線上に繋がっていて、全く分断していない。飛鳥時代奈良時代に日本で生きた人々が考えたり思ったりしたことは、現代に同じこの日本で暮らす私たちの考えや思いと、さほど大きくは異なってはいないのだ。そして実に複雑で多様なものをその内に抱えているのだ。

 だからこそ、私たちの生活や社会に起こる全ての問題を、学校で学ぶ際に便宜として使用した単純化や二項対立に落とし込んで思考停止するのは、全く「大人のすること」じゃない。過去も現在も同じ。この本を、学校を卒業した大人が読む意義のひとつは、そこにある。特に二項対立は、根拠のない思い込みや特定のイデオロギーに依った正邪・善悪のレッテルを貼られてしまい、そのレッテルが独り歩きしてしまう危険性が非常に高い。西洋史だって、未だに旧態依然とした「中世は暗黒時代で、ルネサンス人間性謳歌する明るい時代」という図式化された、間違った思い込みによる弊害が、実に根深くまかり通っていると聞く。正すべきものは正さなければならない。

 私たちが生きている「今」を、この現代の社会を見渡せば、古代や中世にも、現代の私たちと同じように人間たちが喜び、笑い、泣き、悲しみ、怒り、苦しみながら人生を生き、社会の中で居場所を求めてきたことに気づく。そして、それらの時代が、現代と同じく簡単に図式化できないことにも気持ちが及ぶはずなのだ。私たちは過去の人々に対しても、「違う靴」を履いてみる必要があるのだ。

 時の彼方に埋もれた遥かな古代の歴史や人々に想いを馳せ、ロマンを感じること。それは、史料が少ないゆえに我々の想像力を掻き立てる余地が多く残されていることなのだと思う。小説やドラマ、ファンタジーとしての物語、自由な想像力のもとに文芸的な作品にそれらを昇華させること。どれも面白く興味深い(私も大好きだ)が、楽しみつつも、あくまで「これもひとつの視点、あるかもね」と絶対的な史実として信じ込まない客観性や批判精神を持ち続けることも大切だ。そこが、研究成果を踏まえて歴史学者が歴史を「叙述」することとの決定的な相違か。

 だが、アプローチや方法こそ違え、どちらも、いにしえに生きた人々を「今」に甦らせるおこないであることは間違いない。

 

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 最後に、とても重要に思われた文章をひとつ挙げておく。

文化というのはその時代を代表する文学や芸術作品を意味するのではない。その時代の生活の様相そのものである。
(本書第12講 河内春人「国風文化と唐物の世界」p.225より)

  これは非常に大切な指摘だと思う。権力者や体制の注文・収集による「最高級」の美術品でなくても、様々な視点からじっくりと目を凝らせば、日常生活や庶民の暮らしの中にも、その時代の文化の本質は表れている。いやむしろ、そこにこそ、その時代の文化の真髄が見出せるのかもしれない。

(写真は全て2017年5月2日に、京都にて撮影)

(2021年7月17日投稿)

くたくたに茹でたブロッコリー

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 この日の我が家の夕食は、ライトなイタリアンディナー。ワインを一本開けて、じっくり楽しんだ。

 その締めのパスタ料理として妻が作ったのは、ブロッコリーのアーリオ・オーリオスパゲティ(上の写真)。

 あらかじめくたくたになるまで茹でて、とても崩れやすく半ばグリーンペーストのような状態になったブロッコリーが、スパゲティによく絡む。このほろほろした食感の独特さが料理の決め手だ。香りと味付けのために投入されたアンチョビも、実によく効いている。

 このパスタ料理の元レシピは、我が家の大定番・若山曜子著『30分で3品! 毎日のふたりごはん』に掲載の「ブロッコリーペンネ」のレシピ。これをスパゲティに変えて今日は登場。

 

 私の妻は都合に合わせて元レシピからどんどん変えるので、このレシピもその例に漏れず。先月これを初めて作った時も、タリアテッレを使用していた。今回はスパゲティ。どちらも絶妙な食感でとても美味しい。きっと元レシピのペンネも旨いだろう。

(2021年7月18日投稿)

現代的な大家族の肖像

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 今年の5月28日に、小路幸也著『アンド・アイ・ラブ・ハー』を読了。読了してからずいぶん間が空いてしまったので、読了記録とは別の投稿として、少々思うところを書くことにしよう。

 

 小路幸也氏のライフワークである、大家族連作小説「東京バンドワゴン」シリーズの第14作。といっても本篇が3冊続いたあとで番外篇を一冊挟むのが通例になっているので、本篇だけならこれが11冊目になる。私はたまたま第1巻を読んだのが文庫本だったので、同じ体裁で揃えないと気が済まない性分の私としては、このシリーズは文庫化されるまで待ってから読むことになってしまった。従って、今作は文庫化されたばかりなので文庫ベースではシリーズの「最新作」だが、初出単行本の方は常に2冊ほど先行しており、今年の最新刊は既に第16作だ。

lp.shueisha.co.jp

 

 これだけ長く続いて、テレビドラマ化までされた(私は微妙な違和感を感じて観なかったが)大人気シリーズなので、もう説明不要でしょう。東京の下町にある古書店東京バンドワゴン」を舞台にした、今時とても珍しい「大家族モノ」の人情ドラマである。その4世代にわたる堀田家の血縁者だけでもかなりの人数だが、これまでの数々のエピソードで様々な人がこの一家に絡んで常連の登場人物として定着してきた結果、巻頭の人物相関図に書かれた人数だけでも50人近くに膨れ上がっている。さすがにここまで登場人物が増えてくると、軽い気分で読む方としては把握しきれず、「ここに登場するこの人、どういう経緯で物語の常連になったんだっけ?」な人物がけっこう多い(笑)。ただ、そんな人が出てきても、いちいち読む手を止めてシリーズ過去作を辿り直す……なんてことはせず(それも乙だとは思うが)、「まあ過去のどれかのエピソードで何かあって、その縁でお仲間になった人だなきっと」と流して(笑)、さっさと先に読み進むことにしているが。

 登場人数増大の件は作者ももちろん承知しているようで(書く方としてもコントロールできる人数には限りがあるのは理解できる)、ここにきてずいぶん「調整」している感じだ。円満な別居や旅立ち、そして悲しい別れも。人生の道をどう決断してゆくかは人それぞれ。出会いもあれば、別れもあるのが人の生きる道だなあと、しみじみ実感する。

 「大家族」というもの自体が、ある意味伝統的な家族観を内包しているような気もするので、あまりに大家族主義が強調されると少々辟易してしまうこともあるし、子どもが苦手な私としては、子どもを宝物扱いしすぎているように感じる描写が多いのも時には引っかかる。まあこれだけシリーズが長くなると、かなり惰性で読んでいる、という側面もなくはない。

 ただ、今作の解説にも指摘されているように、この「大家族」、それなりに現代らしい個人を尊重する距離感はとりつつ、かつ多様性も(ある程度)認めつつ、相当のおおらかさとともにかなり「現代的」な様相を見せているのも事実だ。もちろん、血縁がない人も「家族」の一員として取り込むのも。むしろ、縁があってともに暮らす、あるいは同じ時間と空間を長く共有する(いわゆる「ご近所さん」「お隣さん」も含めて)人は、血縁がなくても皆「家族」の一員なのだ。決して偏狭な「血縁絶対主義」に凝り固まることはない(2021年6月7日の日記参照)。このことはいくら強調しても足りない。この意味でシリーズ中最も傑出した作品は、最初の番外篇として出た『マイ・ブルー・ヘブン』だと強く思う。あの、終戦直後を舞台にした「ファースト・バンドワゴン」とも呼ぶべき物語の中で、血縁がなくてもひとつ屋根の下でともに暮らした人たちが、「家族」を形作ることの大切さを語っていたことは実に大きい。

 

 この点で、第1作に古書店の常連のひとりとして登場した藤島直也という人物は、このシリーズではたいへん重要な存在だ。彼は堀田家とは全く血縁関係がないが、様々なエピソードの果てに、今や家族の一員として堀田家の面々とともに暮らすまでに大きな存在となる。そんな彼は、自らの経験から伝統的な家族観や血縁観を明確に否定しており、今作では自分の血筋を残すつもりがないと明言して、子どもを宿す能力のない女性を、その力がないことをひとつの理由としてパートナーに選びさえする。藤田宜永著『愛さずにはいられない』の主人公に通底する血縁観を持つ彼を、堀田家の人々は温かく受け入れ、なくてはならぬ家族の一員として遇するのだ。ここにも、このシリーズの持つ度量の広い現代性を感じるのだ。

 これほどに居心地が良くて温かい、現代の視点から見ても理想的な「大家族」は、かつての日本に多く存在した旧来のそれも含めて、もう今の日本では望むべくもないのかもしれない。その意味では、この物語は「ありそうにない」ものごとを、実に日常的で「いかにもありそうな」エピソードで面白く描き出しているファンタジーだ、ともいえる。そこがこのシリーズの本質であり、人気の由縁なのだろうか。

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 ところで、著者によると「東京バンドワゴン」の世界では、新型コロナ禍はまだ起きていないらしい。疫病禍に見舞われた堀田家の姿が描かれるのかどうか、描かれるのであればどのような描かれ方をするのか。気になるところだ。

(写真は全て2021年6月5日に、神楽坂界隈にて撮影)

(2021年7月4日投稿)

レシピを自分のものにする、ということ

 ピーマンの肉詰め焼き(下の写真)。

 私の妻がこの日の夕食の主菜に作った料理だ。

 家庭料理としてかなりポピュラーなイメージのある料理だが、作るのにかなり手間がかかるせいか、意外と食卓に上がる頻度が少ないような気がする。

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 この料理を作る際に元ネタとして妻が参照したレシピは、若山曜子著『30分で3品! 毎日のふたりごはん』所収のレシピだ。

 このレシピの特筆すべき点は、ピーマンの肉詰めをオーブンで焼くところ。こうすれば肉がピーマンから剥がれる心配がなく、焼いている間に他の副菜などを作れて手間を減らせるからだという。

  妻はオーブンをとても頻繁に使う人なのでオーブンの利点を熟知しており、さっそくこれもオーブンで焼いてみたところ、確かに挽肉がしっかりとピーマンにくっついて一体化しており、食べている間も肉とピーマンが分離しにくかった。以前に料理教室で教えるレシピを作成するために、いろいろなピーマンの肉詰めのレシピを検索して試作したことがあった私の妻だが、この作り方はいたく気に入ったらしい。

 このレシピでは本日が二度目だったが、オーブンで焼いたためにひき肉の旨味がしっかりと閉じ込められて逃さず、また挽肉に豆腐を加えるので、ふんわりした食感が実に良い。さらに、隠し味的に使われている梅干しと柚子胡椒の風味もさりげなく効いている。全体として、かなり和風の味付けなのが特徴的だ。

 私の妻は元レシピをガンガン変えて手を入れていくことが多く、食材を身近で手に入りやすいものに変えたり、作り方や味付けを私たちの好みに合うよう変更するのは日常茶飯事。そういうプロセスを経て、レシピを自分のものとして身につけてゆくという。

 その点では珍しく、妻はこの料理をほぼ元レシピ通りに作っているが、今回は一点だけ変更した。元レシピではナンプラーが小さじ1程度使われているのだが、前回その通りに作ったらナンプラーの香りが料理全体を支配してしまい、せっかく入れた他の風味を圧倒してしまった。そこで今回は、ナンプラーの代わりに少量の醤油を使ったところ、隠し味的な梅干しや柚子胡椒の風味もよく立ち上がってきたので、私たちにはこちらが正解のようだ。加えて、味わいにさっぱり感が増したことも好印象だった。とても幸福な、食のひとときだ。

 

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 この日の副菜に登場したのはヤムウンセン(タイ風春雨サラダ、上の写真)。

 この料理で妻が参照したレシピは、ワタナベマキ著『アジアのごはん』に所収のもの。エスニック料理をもう少し作ってみたいと、先日手に入れたばかりの本だ。

  こちらも、元レシピはむき海老を使用しているのだが、妻はたまたま近所のスーパーで豚こま肉が安かったのでそれに変え、さらに手に入りにくい青パパイヤもきゅうりで代用して作った。実に美味しく出来上がったので、全く問題なし(笑)。

 多少(かなり?)元レシピから外れても、それぞれの好みや事情に合わせて美味しくレシピの料理を作ることができて、幸せな食のひとときが送れるのであれば、それこそがレシピを作った人の本望であるように思う。

 私の妻は、これからもこうやって「自分のレシピ」を増やしてゆくだろう。

(2021年7月8日投稿)

【読了記録】物語ることの豊穣

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 朝井まかて著『雲上雲下』を、この日読了。この著者の小説は初読だった。

 朝井まかて氏は時代劇専門の小説家というイメージがあって、正直今まであまり興味が湧かなかったのだが、この作品は民話(昔話)と物語ることにまつわるファンタジー小説だと聞き、ファンタジーなら思い切り私の守備範囲ど真ん中ということもあって、にわかに強烈に読みたくなった次第。

  物語の聞き手として登場する子狐どんの可愛らしさにニコニコしながら、朝井まかて流にアップデートされた昔話をいくつも渡り歩き、豊穣な語りものの世界を楽しむうちに、いつの間にやら「物語ること」の意味と意義を問う壮大で神話的なメタフィクションの世界に嵌まり込んでいてびっくり。まさに物語展開の妙技。

 物語ることが人間にとって大切なものかを問いかける、とても重要な作品に出会った。特に、物語の真髄は細部とプロセスに宿ることを強調していることはすごく大切。この本を読んで思うことは多々あるので、また別の機会に書くとしよう。

(写真は2021年6月17日に、CANON EOS Kiss Mにて撮影)

(2021年7月8日投稿)

血縁絶対主義者よ、地獄に墜ちよ

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 昨年急逝した直木賞作家・藤田宜永氏の小説『愛さずにはいられない』を読了。著者の唯一の自伝的小説といわれる、原稿用紙千三百枚の大長編だ。その長さにもかかわらず、文章自体はとても読みやすく、生き生きとした会話や臨場感溢れる場面展開の妙に引き込まれつつ読み進み、予想より早く読了した。著者の卓越した小説技法のおかげだろう。あるいは、私小説を嫌っていた著者が、読者に受け止めてもらえるだけの技法を高めるまで、自らをさらけ出す機会をひたすら待っていた、と言うべきなのかもしれない。

 

 正直言うと藤田氏の作品は私が最も好んで読みそうにないタイプの小説なので、私をよく知る人であれば、私が氏の作品を読んだと知ると少々驚くかもしれない。それでも、二度目の文庫化として世に出たばかりのこの本に私が手を伸ばしたのは、もちろん、朝日新聞土曜版別刷りのあの連載コラムを読んでいたからである。

 小池真理子氏の「月夜の森の梟」だ。

 自身も直木賞受賞作家で、藤田氏の妻だった彼女が、37年間を共に暮らした伴侶にして「戦友」を亡くした喪失の日々を綴った連載エッセイである。2020年6月から連載が始まり、つい先ごろ50回で完結した。子どもを作らないことを結婚の大前提にして、婚姻届を出す必要がないと事実婚を貫いた(最終的には面倒な手続きを避けるために籍だけは入れたそうだが)二人の生き様が人ごととは思えず、また3年前に父を亡くした喪失感が癒えぬまま昨年立て続けに身近な人を亡くしたことで喪失感の「重ね塗り」を苦しんでいる私にとって、小池氏のこのエッセイは毎週読むたびに心の深いところにしっとりと沁み入って、とても深く印象づけられたのだった。このエッセイはきっと単行本が出るだろうから(画家の横山智子氏による挿絵がまた素晴らしい)、出たら絶対手に入れると今から決めている。(と書いていたら、まさにこの記事をアップする直前の6月26日に掲載された「連載を終えて」にて、単行本が今年の11月に出ることが告知されていた。なんというタイミング。絶対買います)

 このエッセイの第39回(2021年3月27日に掲載)の中で、藤田氏の『愛さずにはいられない』が書かれるに至った経緯と、この度再文庫化された旨を読み、いてもたってもいられずさっそく書店で手に入れた次第。藤田宜永氏も小池真理子氏も、どちらの小説も全く読んだことがなく、(少し前の時点では)今後も読むつもりがなかったはずの私がこの小説を読むことになったのは、こういうわけである。きっかけはなんでもいいのだ。「出会い」そのものが大切なわけで。

www.asahi.com

(上記リンク先は、朝日新聞デジタル有料会員のみが全文を読めるようです。ご注意ください)

 『愛さずにはいられない』には、著者自ら「人生の中で一番壊れていた時代」と書いているほどに自堕落で無軌道な高校時代の生活ぶりが、ある意味実に生き生きと描き出されていて、その臨場感と迫力は凄まじい。その根底に黒々と横たわる、実の我が子への支配欲にまみれた母親への憎悪や血筋と家族生活への嫌悪(それは裏返すと自己嫌悪でもあるのだが)に、読み進むうちにその奥深さと強烈さに圧倒されてしまうからだ。好むと好まざるとにかかわらず、ここに描き出されたひとりの若者の、傷だらけの彷徨の軌跡の鮮烈さには息を呑むしかない。

 もちろん、著者はこの物語の中でモラルを説いてはいないし、安易な自己弁護は一切おこなっていない。冷静なまでに当時の「自分」を客観的に見つめる叙述に徹している。そしてその上で、繊細すぎるほどの自分の感性が、家族、特に自分を支配しようとする母親を嫌悪することになり、それがその後の人生を大きく蛇行させていったことを切々と訴えているのだ。運命の女・由美子との痛々しいくらいの愛の行方もまた、その同一線上にある。

 これだけの熱量と鬼気迫る想いで自己の内面をさらけ出したこの凄まじい小説が、2003年に最初に発表された当初、批評家からも読者からも全く反応がなかったという、耳を疑う事実。作者は死の間際までそのことを強く残念に思い、嘆いていたという。それは、まさにこの主人公も作者自身も、この自らの内面に関わる話をするたびに直面してきた巨大な「世間の壁」のせいだ。

 この小説は結果的に、戸籍制度をはじめ日本の根底にいまだに巣食う「家」を絶対とする制度、それを固く維持するために血統・血縁を絶対神聖なものとして崇め奉ることへ、強烈な「NO」を突きつけているのだ。発表当時にこの小説を目の当たりにした人々は無意識にそのことに気づき、見ないふりをして目をそらした。そうしてこの小説自体を「なかったこと」にしようとしたのだ。だが、この小説を「なかったこと」にするということは、直木賞作家・藤田宜永氏を「なかったこと」にするのと同義である。そのことは、小池真理子氏による巻末の解説にも記されている。

 もしも世間が、「母親というものは息子を愛するものだ」という、いわば善意から生れた固定観念を押し付けてこなかったら、藤田は作家として、まったく異なった方向で、自在に力を発揮していたかもしれない。(中略)
 一般常識で理解されにくいことを、どうやればわかってもらえるのか、と彼はいつも私に訴えた。手を替え品を替えながら、小説の中で書いてきたつもりなのに、鎧を脱いで正直に書くと、必ず「でもね」と言われる。母親は息子を愛するものだ、と説教されるのはまだ我慢できるが、それがもとで、作品自体に反感を抱かれてしまうのはやりきれない……と。
(巻末解説「不器用な情熱の記録」より)

 

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 本当に、この国にはびこって人々を苦しめている血縁絶対主義に、これ以上目をつぶらないでほしい。実の親による児童虐待をはじめ血縁間の悲惨な事件や深刻な問題がこれだけ山のように起こり続けているのだから、それらの根源が「家」の存在を絶対とするために血統や血の繋がりを何が何でも神聖視する、この旧態依然とした社会のあり方や制度が人々を押し潰そうとしていることから発していることに、いいかげん気づくべきだ。親子だから、兄弟だから、血の繋がりがあるから、それだけで特別な愛情や絆がはじめから存在するのではない。血縁をひとつの契機として共に暮らし、長い時間を共有する中で愛情や特別な絆が育まれるのだ。それを初めから絶対的にある特別なものと勘違いして、世の中に大勢いる血の繋がりに愛情や絆の感情を持てない人々に対して、自分と違うからといって「きっと持っているはず」と決めつける方がむしろどうかしている。それこそ、血縁のせいで起きている山積みの問題を全てなかったことにして、自分と違う考え方や感じ方をシャットアウトして自己保身を図る、姑息な態度にしか見えない。

 さらに言えば、血の繋がらない人の強い愛情や絆は、これもまた山のように世の中に存在している。それへも、血の繋がりがないからというだけで血縁関係より劣っているとか決めつけるなんて、本当にありえない。そんなひとつの基準だけで簡単に価値の上下を決められないでしょう? 藤田宜永氏や小池真理子氏のような人々の体験と考え方を、ひとつの側面として尊重する社会であってほしい、と強く願う。

 勿論、念のために書いておくが、私は血縁によって培われた愛情や絆そのものを否定しているわけではない。人それぞれにさまざまに異なるはずのそうしたものを、多様に存在するものとして受け入れることが大切なのだと言いたいだけだ。

 最初の発表から18年経ち、今また再文庫化で世に問われた本作。新型コロナウイルス禍による影響もあり、人々のものの考え方にもずいぶんと変化を兆してきて、社会制度にも人間関係にも、より多様なあり方を認めあう空気がようやく広がってきたように思う。まさに今、今こそこの作品が読まれ、多くの反応を集めて然るべきだ。

 しかしその一方で、ほんの数日前だが、夫婦同姓の強制が合憲であるという判決が最高裁で出たという報道に接すると、こんな旧態依然とした司法判断が平気で出てしまう日本の根っこは何ひとつ変わっていない気もしてしまう。それでも、いや、だからむしろ、人々はこの本を手に取るべきなのだ。

 この国の「家」の制度にがんじがらめに縛られた「血縁絶対主義」がこの国の奥底にはびこっている限り、私は人のあり方の自由を守るために『愛さずにはいられない』の側にずっと立ち続ける。この小説に込められた一人の人間の生涯をかけた想いの深さを守るためなら、永遠にでも藤田宜永氏の、そして彼の作家としての深い想いを受け止めて再文庫化の実現に漕ぎつけた、小池真理子氏の側に立ち続ける。

 余談だが、この小説を読みながら、昨年読んだルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』を思い出して思考を巡らすことが度々あった。それは、実際に起こったこと・体験したことと、それらのことを書いた小説との関係についてである。フィクションとノンフィクションの線引きの問題と言ってもいいかもしれない。このことについては、別の機会に書いてみたいと思っている。

 

 それにしても、ようやく私も、読んだ本についてブログに書けるくらいには立ち直ってきたようだ。それを思うと、少々感慨深い。昨年後半に心身ともに受けた深いダメージの影響で、それまではあんなに空気を吸うように自然におこなってきた「本を読む」という行為が、恐ろしいことに一時まったくできなくなった。今年に入ってから、心身が少しずつゆっくりと調子を取り戻してゆき(もちろんまだ本調子とはとても言えないが)、ようやく本を手にとって開き、文字の羅列が頭に定着してくるようになったことで、どんなに安堵したか。

 まことに、本を読まなくなった人間は、死んだも同然だとつくづく改めて実感した。これからは、このブログに自らの思考の軌跡をもう少し記してゆくことができそうだ。

 

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 もう一度書く。日本に「家」中心の思想と血縁絶対主義がはびこる限り、私は『愛さずにはいられない』の側に立ち続ける。この小説に渾身の思いを込めた藤田宜永氏の側に、その思いを深く受け止めて共感し、再び世に出すために奔走した小池真理子氏の側に、ずっとずっと立ち続ける。

(写真は全て2021年6月7日に撮影)

(2021年6月27日投稿)

【読了記録】下町の古書店の物語

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 小路幸也著『アンド・アイ・ラブ・ハー』(集英社文庫)を読了。

 東京下町の古書店を舞台にした人気大家族小説「東京バンドワゴン」シリーズの第14作(本篇だけなら第11作)である。

 

 この小説を読んで少々感じたことを、7月4日の日記に書きました。

(写真は2021年5月25日に撮影)

(2021年7月4日投稿)