聖地にて。あるいは予型学としてのスター・ウォーズ

スター・ウォーズ/フォースの覚醒 オリジナル・サウンドトラック(初回スリーブ仕様)
 最初に観て(2015年12月19日の日記参照)から8日後、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』"Star Wars: The Force Awakens" の早くも2度目の鑑賞。2度目は1度目と同じく妻と、さらに今回は両親も連れて4人で、有楽町のTOHOシネマズ日劇で観た。(以後、最初の鑑賞日の日記と同じくネタバレありです)
 「スター・ウォーズ」にとっては“聖地”と呼ばれる「日劇」である。最初に観たTOHOシネマズ渋谷も私にとっては縁の深い映画館だが、この日劇も勿論、思い入れはひとしおだ。何しろこれまでエピソード1〜3は全てこの日劇で、両親と4人で観てきた映画館だ。それでなくても現在こそ“TOHOシネマズ”とシネコンぽい名前がついているが、実際の劇場自体は以前の千人規模の大映画館「日劇」そのままだ。さらに遡れば、現在のマリオンの建物が建つ前は、建物そのものが丸ごと「日劇」であって、日本で最高の映画館のひとつだったのは間違いない。その時その時の最高の話題作・大作は何をおいてもまず最高の映画館「日劇」で観るのが相応しい−−というのは、シネコンが一般的になる以前は当たり前の感情だったように思う。私もその例外ではなく、「スター・ウォーズ」シリーズは勿論、『タイタニック』級の超大作はわざわざ有楽町に出かけて行って「日劇」で観てきたものだ。本当に懐かしい。
 2度目の鑑賞なのでストーリーの流れが頭に入っており、前回気づかなかったものやより深く理解が及んだところなど、より掘り下げて映画に入り込んで観ることができた。前回は大ショックだったハン・ソロが死ぬシーンも、このシーンがあるのはもうわかっているのだから覚悟して見届けられた。とても悲しいしとても切ないのは変わらないが。このハンが死ぬ場面と、スターキラーから放たれた光線が星々を破壊する場面の音楽には、どちらも同じストリングによるとても穏やかな旋律が使われていた。40年近く前のエピソード4『新たなる希望』での、惑星オルデランの破壊のシーンやオビ=ワンの死の場面には、かなりカタストロフィックorエモーショナルな音楽がつけられていたことを考えると、同じジョン・ウィリアムズの音楽でもずいぶんと違う(まあ監督の考え方の違いもあるだろうが)。時代の違い、であろうか。
 40年という年月は実に長い。エピソード4〜6が公開された70〜80年代の単純な勧善懲悪がもう現代に通じなくなっているのは、エピソード1〜3の混沌を通り抜けてしまった我々にも同じだ。『フォースの覚醒』は物語の筋立てを始め様々な要素で『新たなる希望』をくどいくらいになぞりながらも、その実は「全く同じ」ではいられず、あの時の若者は既に老いて次の世代の、実に現代的な新たな人々が取って代わってゆく。前と悪は常に揺らぐ。敵の中心人物(と表面的には捉えられる)カイロ・レンは「光の誘惑」に抗するが、それがエピソード3『シスの復讐』でアナキンが「闇の誘惑」にさらされていったのとは対照的で興味深い。カイロ・レンは観る回数を増やすたびに印象が変わる人物像だ。レイとフィンの人物造形にも実に現代的な側面を感じながら、前の世代との橋渡しとしての役割もきちんと押さえているようで安心だ。
 私自身は、『フォースの覚醒』が実に多くの点で『新たなる希望』をなぞっていることを全く悪いと思わない。むしろ良いことだと思っている。これはオールド・ファンのノスタルジックな意見ではなく(少しはそれもあるにはあるが)、むしろ同じシリーズの新作としての「スター・ウォーズアイデンティティとでも呼ぶべきものを高める効果を出すために必要な作業だと思うのだ。
 聖書学の中には、タイポロジー(予型論的解釈)という聖書解釈の学問があり、それは要するに、旧約聖書のすべてのエピソードはイエス・キリストの行動つまり新約聖書のエピソードを予め告げるもの=「予型」として解釈しようとすることなのだ。それと同じ考え方を「スター・ウォーズ」に当てはめると、各三部作のサイクルは次の世代のサイクルに対する「予型」として、同じ、あるいは類似したエピソードを繰り返してゆくのが正しくなる。むしろ類似したエピソードを各世代の物語の中で繰り返してゆくことによって、物語の骨組みを太くしてゆくとこができると言ってもいい。ジョージ・ルーカスが傾倒して「スター・ウォーズ」の物語の原型にもなっているジョゼフ・キャンベルの物語論・神話論の強い影響も当然あろう。神話は繰り返すことが基本といってもいいほどだし。あるいは、それらの論を持ち出すまでもなく、「歴史は繰り返す」という金言を思い出すだけでもいい。前回も言及した「歴史がここにある」と私が感じたことの一因は、こういうところにもあるのだろう。
 それにしてもファースト・オーダーがどうも「帝国軍ファンクラブ」に見えてしまうのと、レイがずいぶんあっさりと短期間でいきなりフォースが使えるようになるのがさすがに苦笑か。レイはスカイウォーカーの家系に連なっているのかな。そのルークが登場するラストの場面は、ロケ地が西アイルランド沖合のスケリッグ・マイケル島(スケリグ・ヴィヒール)だとあからさまに分かってしまう。こんな絶海の孤島、しかも世界遺産でロケするとはすごいが、現実の場所とバレバレなロケーションを敢えて使ってしまうのも「スター・ウォーズ」ならではか。確かに、「スター・ウォーズ」に登場する惑星は、この地球上のさまざまな土地のメタファーではあるのだ。
 昨年アイルランドを旅行したときはさすがにスケリッグ島には行ってない(行くのがとても大変なのです)が、モハーの断崖やアラン諸島で目にした荒涼とした風景は、ちょっとあれと類似するものがあったなあ。またアイルランドに行きたい気持ちが掻き立てられてしまうのであった(笑)。
(2017年12月14日投稿。2015年12月19日の日記同様、エピソード8『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』公開を前にして、2年前に『フォースの覚醒』を4回観た中で感じ考察して書き留めておいたことをどうしてもブログにも記録しておきたくて、今更ながら書きました)