二月の鬱

 「二月という月は、私にとっていつからか凶の月となっていた。」

 御年96歳の作家・瀬戸内寂聴さんが朝日新聞で連載なさっているエッセイ「残された日々」の、2月14日の書き出しである。瀬戸内さんの身の回りの大切な人が亡くなったり人生の厳しい出来事が2月に集中して起こっている、という文章が続く。この日の題も「二月の鬱」。

 以前もこのブログで書いたが、2月が好きな方々には申し訳ないが、私は一年の中で2月が一番嫌いだ。というより、2月は一年の中で悪しき、忌むべき「気」が最も濃厚になる季節だと常々感じている。毎年2月になるとバイオリズムが乱れるというのか体調がどことなく優れず、気分も訳もなく落ち込み鬱々とした日が続く。日数が少ないのを幸いと(だから2月は28日しかないのか?)早く3月になるのを待ち焦がれる日々だった。それは春の到来を待ち望む心という、多くの人に共通する気持ちとも言い換えられるかもしれない。

 特に昨年2018年は、私の父親が2月13日に亡くなり(父は誕生日も2月だった。2月22日生まれ)、それから幾らも経たずに私の家族の身近な大切な人が急逝され(しかも痛ましいことに自死だった)と、立て続けに死の影が私の周りを色濃く覆いつくした。誠に忌まわしい「気」が極まった、深い悲しみと喪失感に満ちた2月であった。「死」が私の頬を撫でていくかの如きであった。

 が、瀬戸内さんのエッセイを読んで、2月に対してそう感じるのは、どうも私だけでないようだと思った。

 良くないことが起こる数や頻度が実際に2月に多くなる、というのではないのだろう。良くないことが起こった際に、あるいは起こらなくても予感や「気」だけで、それが2月であることでより「負」の度合いが深まるように受け止める(私や瀬戸内さんのような)人が多いように思われるのだ。

 もちろん、科学的な根拠があるわけではなく、かなり主観的な「感覚」のことを言っているので、それを実証できるわけではない。ただ、いわゆる「冬季うつ」などの影響はあるのかな、とは思えなくもない。冬の間に少しずつ積もった「負」の感情や感覚が2月にその頂点に達するというか。

 2月14日がヴァレンタインデーとして、恋する人・愛する人の日として定められているのも、もしかしたらこの「二月の鬱」に対抗するために決められたのかもしれない、などと想像してしまう。敢えて「愛」を賞揚しポジティブな感情を高めることによって、2月に増大した「負」の蓄積を抑えるために。

 ヴァレンタインデーの起源は、ローマ帝国の女神ユノーJunoの祝日が2月14日だったことにまで遡るらしい。ユノーは家庭と結婚の神でもあったので、この日は結婚を祝うルペルカリア祭が行われる日だったと、Wikipediaには書かれていた。なるほど。

 「二月の鬱」を打ち負かすのは、愛の力。目の前に広がる虚無の闇を覆い尽くすほどに愛の力の温かみを広げて、前を向いて歩んでゆくのだ。

(2019年2月17日投稿)