ゴシック写本の小宇宙

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  上野・国立西洋美術館の常設展示エリア内にある、版画素描展示室において開催中の小企画展『内藤コレクション展「ゴシック写本の小宇宙――文字に棲まう絵、言葉を超えてゆく絵」』を観てきた。

 数十年にわたって、中世ヨーロッパの彩飾写本(装飾写本)、その中でも主としてゴシック期の一枚ものの写本零葉をこつこつと蒐集してきた医師の内藤裕史氏が、2016年にその約150点のコレクションを一括して国立西洋美術館に寄贈。この小企画展はその、一般の観客に対しては初お目見えとなる展示だそうだ。

 最近とみに寡聞にして新しい情報に疎くなってしまっている私が、この小企画展のことを知ったのは、かの有名な展覧会ブログ「青い日記帳」を運営するTak(たけ)さんのツイートから。

 内藤氏がこの膨大なコレクションを惜しげもなく寄贈したのは、日本のミュージアムには、西欧中世のコレクションが欠けているとの思いからだそうだ。なんと素晴らしい志だろうか。大学時代に西洋美術史、特に中世ヨーロッパの美術史を専攻していた私にとって、あの頃(30年ほど前)の最大の課題はなんといっても、日本では中世ヨーロッパの美術品の現物をまとめて観ることができない、ということだった。そのことが結局、私を英国に一年間留学させて、その間精力的に西ヨーロッパを巡って美術品に触れて歩く日々を送ることに至る大きな動機のひとつになったわけだが。

 とにかくあの頃は、この国立西洋美術館でさえ常時展示している中世のコレクションはほんの数点のみで、それ以外の美術館は推して知るべしというレヴェル。おまけに中世ヨーロッパの美術なんて当時は本当に人気がなかったから、企画展なんかもロクに開かれないし。その頃に開かれた、比較的大規模な中世ヨーロッパ美術の企画展としては、1994年(もう私は大学を卒業した後だった)に国立西洋美術館で開かれた「聖なるかたち 後期ゴシックの木彫と板絵」展くらいしか私には記憶がない。

 ようやく21世紀になって以降に、中世ヨーロッパの美術も少しずつポピュラリティを獲得してきて、企画の切り口によってはずいぶんと大規模な展覧会を日本でも開催できるようにはなったように思う。その最たる例が、2013年に国立新美術館などで開かれた「貴婦人と一角獣展」だ。だが、美術館が所蔵するコレクションのほうでは、中世ヨーロッパの美術品は、国立西洋美術館が少しずつ所蔵作品数を増やしてきているくらいで、30年前からあまり状況は好転していない気がする。

 そんなわけで、今でも日本にいながらにして、中世ヨーロッパの美術品をこれだけまとめて観られるなんて、実に貴重な機会である。しかもこれが美術館の所蔵作品として、常設展で観られるなんて! いてもたってもいられず、常設展を無料で観ることができる第4土曜日にさっそく観に行ってきた。

 国立西洋美術館のロビーに入ると、企画展の「ハプスブルグ展」を観にきた人々でごった返すショップを横目に見ながら常設展会場に入り、本館の展示エリアを抜けて新館に入る。その新館の最も奥の方に、版画素描展示室がある。ちなみにこの小企画展は、写真撮影が可能です(もちろんフラッシュは使用禁止)。

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 展示室のぐるりの壁面に、一点一点額装されて展示された彩飾写本の零葉。30点ほどだろうか。14〜15世紀頃の、いわゆるゴシック期にフランスやイングランドで制作されたものが多いようだ。そして、かなり小ぶりな大きさのものが多い。中世の彩飾写本というと当時はたいへんな貴重品だから、半ば宝物として大切に保管されるものというイメージが強く、かなり大きなサイズのものが主流かと思っていたが、そうでもないようだ。ゴシック期になると都市における職人たちによる分業が確立して、手工業でもそれまでに比べるとかなり大量の生産が可能になっていたから、写本も以前の時代よりは貴重度が下がって、ものすごく裕福な人でなくても多少は手にすることができるくらいには数が増えていたのかもしれない。さらには、気軽に(?)持ち出したり持ち歩いたりできるくらいにも。

 写本で使われているゴシック文字が大好きなので、文字を見るだけでも楽しい。そして、いろいろな形で描き込まれている様々な絵や意匠がさらに楽しい。

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 お馴染み文の最初の大文字(イニシャル)の中に描かれた挿絵の他にも、こういう欄外の動物たちやら不思議な生き物やら、文様化された植物やらが、とにかく見ていて楽しい。

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 段組の隙間にまではみ出したイニシャルにも、可愛い兎や栗鼠が潜んで愛嬌を振りまいている。

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 そして、行末の空きスペースにもこんなのが。模様はともかく、お魚さんまで押し込んでしまっている。

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 とにかく空いたスペースは何がなんでも飾ってやるぞ!と言わんばかりに埋め尽くしています(笑)。テキストとの関連がある絵柄も多いそうだが、これなんかは相当「遊んで」いるなあ(笑)。スペースに合わせて形も自由自在に変形。一部分だけ引き伸ばしたり、縮めたり。まさに、カオス。まさに、小宇宙。

 ゴシック写本における欄外や周縁に描かれた「遊び」や不思議な世界については、マイケル・カミールMichael Camilleの『周縁のイメージ』(ありな書房)をぜひ。一級の研究書です。

周縁のイメージ―中世美術の境界領域

周縁のイメージ―中世美術の境界領域

 

 一枚一枚をじっくり観て堪能してまわったので、この小企画展を観るだけで一時間以上かかってしまった。いやあ楽しかった〜。また近いうちに来て、じっくりと味わうとしよう。米粒職人もかくやという細密な作品が多いので、単眼鏡は必携です。

 寄贈なさった内藤氏はこの写本コレクションにまつわるエピソードを一冊の本にまとめている。以下のアマゾンのリンクだとえらく値段が張るが、国立西洋美術館のショップなら通常価格の2,500円+消費税で購入可能です。

ザ・コレクター :中世彩飾写本蒐集物語り

ザ・コレクター :中世彩飾写本蒐集物語り

 

 まだ図録を編集することができるほどには、このコレクションのリサーチは進んでいない様子。きっと近い将来に図録が出るだろう。期待したい。

 それにしても、国立西洋美術館の常設展示もずいぶんと充実したなと思う。作品のレヴェルのばらつきはあるかもしれないが、ひと通り観ると、きちんとヨーロッパの中世から20世紀までの絵画史を俯瞰できるようになっている。ここの所蔵品の大元になった松方コレクションの性格上、19世紀美術のイメージが強いが、それ以前の時代の作品もかなり充実しているし、観ていて面白いものが多くて嬉しい。

 常設展での私のお気に入りは、言わずもがなの中世から初期ルネサンスと、17世紀オランダの静物画(含む「ヴァニタス」)、そして人物の後ろでも奥行きがあって眺めがいのある風景が描かれている絵と風景画全般。あと、もちろんハンマースホイは必ず観ています(現在は、おそらく都美術館の来年頭の企画展のために不在ですが)。

(2019年11月13日投稿。ようやくアップできた〜)