静謐なるものの名前よ、そなたの名は。

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 曇り空のイマイチな天気だったが、上野の東京都美術館に行き、企画展「ハマスホイとデンマーク絵画」の二度目の鑑賞。前回の鑑賞(2020年1月30日の日記参照)の際に会場構成と注目すべき作品は既に把握済みで、かつ購入した図録も完読したので展覧会への理解もずいぶんと深まった。ということで今回は、前回観て気に入った作品をひたすら集中的に鑑賞して、じっくりと味わうことに専念。二回観たことで気が済んだ、かな。

 この展覧会が開かれたおかげで、日本でもようやくこの画家の作品集が初めて一般書籍として、しかも二冊も発売されたことも実に喜ばしい。もちろん両方ともゲットしたので、展覧会が終わった後でもこれまでの図録ともども、ハマスホイ作品を好きな時にじっくりと堪能することができる。ありがたいことだ。

ヴィルヘルム・ハマスホイ 静寂の詩人 (ToBi selection)

ヴィルヘルム・ハマスホイ 静寂の詩人 (ToBi selection)

 

 

 ところで、今回の「ハマスホイとデンマーク絵画」展については、やはりこのことを書かねばなるまい。

 Vilhelm Hammershøi (Vilhelm Hammershoi)という作家名の、日本語での表記のことである。(この投稿では、作家名表記は「ハマスホイ」で統一します。理由は後述)

 2008年の国立西洋美術館での展覧会のタイトルは「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」だった。企画展終了後も、昨年末まで11年余りの間、国立西洋美術館が一点だけ所蔵して常設展示していたハマスホイ作品《ピアノを弾くイーダのいる室内》のキャプションにおいても、作家名はずっと「ハンマースホイ」の表記のままだった。

 これに対して、今回の東京都美術館での展覧会では、作家名の表記は、それまで一般的に使われてきた「ハンマースホイ」ではなく、「ハマスホイ」に変わっている。その理由は「ハマスホイ」の方が原語であるデンマーク語の発音により近い、より正確な表記になっているから、だそうだ。以下の、ハマスホイについての私的ファンサイトにもそのことが記されている。

  なるほど。12年前の展覧会に際しては、企画者たちの間でどのような表記決定の経緯があったかは私には分からないので、そこをよく知らない人が軽々しく当時の決定を否定的に扱うのはいかがかと思う。だが、それはともかく、現地の読み方に最も近い表記がより正確なので「正しい」とする今回の決定は、それはそれで確かにもっともである。語学的な検証もきちんとされているようだし。ウィキペディアの記事で聴ける音声ファイルを聴いても、私の耳には「ハマスホイ」と聞こえる。正確さはひとつの指標となろう。

 だが、語学的な正確さだけで、11年以上の間流布して一般に浸透しつつあった作家名表記を変えることが、果たして、本当の意味で「正しい」ことなのだろうか。

 敢えて、それを問うておきたい。

 というのも、私が今更言うまでもなく誰もが承知していると思うのだが、「正しさ」というのは決して絶対のものではなく、見方によって簡単に変わってしまうからである。思考停止してただ正しさのみを「断じる」のでなく、常にその「正しさ」に疑いを挟み、考え、検証し続けることが大切なのだと思うのだ。答えを求めているのではない。「問い」を発することそのものが重要だということだ。

 デンマーク語を含むスカンディナヴィア諸国の言語は、発音が非常に難しいとされている。母音の種類が非常に多い上に、その区別がとても微妙なのだ。中でもデンマーク語は、発音の難しさでは最たるものらしい。かつて英国に留学していた際に、デンマーク人の友達が、母語の発音の難しさを説明するのによく引き合いに出す例だと言って、三つの違う発音の単語を口にしてくれた。私にはその三つの単語の区別が全くつかなかった。アルファベット表記の発音法則だって、英語とは相当に異なっているのは間違いない。

 そんな言語であるから、表記的には母音の種類が五つしかない日本語では、デンマークの固有名詞の完全な再現は元から不可能だ。いきおい、より現地の発音に近い表記を模索することになる。

 ここで問題になるのが、日本語と現地語の間に「介在」する、他のアルファベット言語のことだ。要するに、日本人が義務教育で必ず教わる英語(人によってはフランス語やドイツ語も含まれるだろう)、そして日本人が外来語を表記する時に最大のお手本である「ローマ字表記」の存在である。日本人は外来語を自国語に取り込む際に、明治期以降20世紀後半に至る近代化の中で、どこの国のものであれ羅列されたアルファベットを、まず英語表記かローマ字表記に当てはめて発音する「クセ」がついていた、と思う。外来語を、特に固有名詞を現地語の表記に近づけようという動きが一般的になってきたのは、ようやくこの30年くらいのことではないか? 私は言語学に関しては全くの素人なので、あくまで感覚で書いているのだが、それほど外れていないような気がする。

 デンマーク語の固有名詞も、現地表記云々よりも、ローマ字表記か英語表記に従った発音がまず大きく流布したのではないだろうか。ここで強調しておきたいのは、日本人一般にとってその方が浸透しやすかった、という側面もあったのではないか、ということ。デンマーク語を全く知らなくても、義務教育を経た大多数の日本人はアルファベットを見れば、ローマ字的あるいは英語的な発音をすることは可能だ。表記がそれに一致していれば、耳と目の両方でその固有名詞を把握しやすく、日本でその名前が浸透する一助になる。

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 さて、Hammershøiである。私が1987年にハマスホイ作品を初めて観た、今は亡きセゾン美術館での「北欧の美術」展では、作家名は「ハンマーショイ」と表記されていた。何しろ日本では知名度はゼロに等しい画家の名前である。その作品に深く感銘を受けた私の頭には、当然のことながら「ハンマーショイ」の名前がしっかりインプットされ、以後30年間「ハンマーショイ」のままで上書きされることなく記憶され続けていた。

 それが「ハンマースホイ」に上書きされたのが2008年。前述の国立西洋美術館での展覧会に際してである。もう大人になった私には、もちろん先に書いたような言語表記の難しさ・不確かさが分かっていたので、「今回はその表記にしたのね。きっとハンマースホイの方がハンマーショイより現地発音に近いんだろうな」とあっさり自分の中で納得(?)して、頭の中の表記を上書きしてしまった。

 ところが、この展覧会が予想外の(?)大好評を博し、ハマスホイの知名度が日本で大いに上がった。当時の西洋絵画では日本人の美術愛好家にとって最大の「キラーコンテンツ」だった画家になぞらえて、「北欧のフェルメール」とさえ呼ばれるほどの大人気ぶりにのし上がった(笑)のである。日本の西洋美術を愛する人々の間で、これほどまでに浸透するとは。やはりハマスホイが「都市の画家」として、19世紀末当時としては非常にモダンな感覚で「日常」を見つめていたことが、ようやく21世紀に入って国籍を問わず「都市」において共感を得てきたことなのかな、とも思う。

 いずれにせよ、日本の人々はその時に「ハンマースホイ」の名前で、この画家を頭の中にインプットしたのである。加えて、2008年はすでにインターネット全盛の時代だ。あちらこちらのサイトやブログでこの作家のことが「ハンマースホイ」の表記で記され、その表記で広まった。私自身もこのブログで何度も「ハンマースホイ」の名前を連呼(笑)したし、先に挙げた私的ファンサイトでの表記もウィキペディア日本語版での見出し表記も(この記事の投稿時点では)「ハンマースホイ」だ。語学的な専門分野でどう議論されていたかについてはいざ知らず、広く一般の美術ファンの間においては間違いなく、2008年以降の11年以上の間、この画家は「ハンマースホイ」の名前で知名度を広げ、語り継がれ継承されていったのである。ある意味、日本人の中で知名度を高めるための「実績」をこの11年余で積んできた、と言ってもいい。

 それが今回の展覧会は、「ハマスホイ」という表記である。より正確なのだろうことは既述の通りだ。だがそれでも、いちおう熱心なファンを自認している私が最初に「ハマスホイ」の表記を見た時には、不覚にも「えっと……誰?」と思ってしまった(笑)ことは記さねばならない。音引きがないせいだろうか。文字数が二つも少ないせいだろうか。ずいぶんとかけ離れている感じがして、とっさに「ハンマースホイ」と同一視することができなかったのである。

 これは私だけだろうか。そうではないように思う。実際に、今回の展覧会を鑑賞した会場内で、「前はハンマースホイだったのに、今回はハマスホイなんですね」「どういう理由で変わったのかな」というような内容の会話がしばしば耳に入ってきたので、決して少なくない人が同じ思いを抱いたのではないかと思われる。

 まあ「絵を見りゃ同じ人ってわかるじゃん」と言われればその通りなのだが、この「名前を一見したところ即座に同一人物と判別できない」というのは、この情報量過多で物事の認知処理速度の極端な速さ・認知度合いの浅さが要求される現代社会では、実際に絵を見る前に名前を見ただけで認知を完了することも少なくないだろう。それは、実はけっこう大きいことではないだろうか。あえて極端な言い方をしてしまうと、前述した11年以上もの間「ハンマースホイ」の名前で地道に積み上げてきたこの画家の「実績」が、この名前の表記の変更によって一瞬(に近い時間)で消え去ってしまい、また同じ「実績」を積み上げる作業を一からやり直さねばならないのではないか。そこまで考慮した上での名前の表記変更だったのか。言語的な「正しさ」が、その一つの「正しさ」によって、より多くの人にこの画家の独特な絵画世界を味わってほしいという目的を、ある程度(大きく?)損ねてでも押し通すべきほどの「正しさ」なのかどうか。

 もちろん、「絵を見りゃ同じ人ってわかるじゃん」なのだから、実際にはこれまでの「実績」が完全にゼロになってしまうことは決してないだろう。私もすぐに「ハンマースホイ」と「ハマスホイ」が同一人物だと気づいて、自分の頭の中にインプットした。ここで肝要なのは、今回は「上書き保存」ではなく「別名で保存」であったこと。やはりこれまで長いこと「ハンマースホイ」の名前で積み上げられてきたものは大きすぎるので、両方残しておく必要があったのである。単純に、「ハンマースホイ」の方が語感の響きがよくて好きだ、というのもある。

 それはともかく、私が問うておきたかった本当の意味での「正しさ」とは、こういうことである。一つの側面から見た「正しさ」が、決して他の面から見たときの「正しさ」に繋がらないのではないか。様々な角度から見た「正しさ」を総合的に考慮して議論を重ね、その上で責任を持って一つの決定を下す。それがどこまで行われたのか、この件では疑問に思わざるを得ない。

 例えば、Vincent van Goghである。この後期印象派の「巨匠」のことを、以前の私も含めて多くの(ほとんどの?)一般の日本人は単に「ゴッホ」と呼ぶ。つい先日まで上野の森美術館で開催されていた彼の回顧展の名称も、堂々「ゴッホ展」だ。

 だが、ウィキペディアの記述にあるが如く、この「ゴッホ」という呼び方は、二つの面で「正しくない」。一つ目は、彼の名字はGoghの前のvanまで含めないといけないこと。vanはミドルネームではなく、ファミリー・ネームの一部なのだ。二つ目は、出身国であるオランダ語の発音により近い表記では「ファン・ホッホ」となること、である。「ゴッホ」という名前の表記は、実は名字を半分だけに端折った上に英語読み(かローマ字読み)と現地読みを混ぜた、奇怪なキメラのような「造語」なのである。

 それでも、そのつい先日の「ゴッホ展」の企画進行の中で、じゃあより現地読みに近い表記だから展覧会の名称を「ファン・ホッホ展」にしましょうということには(もしかしたら提案はあったのかもしれないが)なっていない。当然である。日本人の間では(美術愛好家だけでなく、すべての日本人と言っていいと思う)「ゴッホ」という名前の表記が圧倒的に浸透しきっていて、今更変えるわけにはいかないからである。言語的な「正しさ」が、この展覧会を広く認知させることへの巨大な「障害」になってしまうのである。

 もちろん、ハマスホイの知名度が、前述のファン・ゴッホのようないわゆる「巨匠」たちに比べるとまだまだ低いのは確かなので、「今のうちに」正しく直しておこうという配慮が働いたという想像は十分にできる。何より、今回の展覧会の開催に合わせて発売された前述の作品集『ヴィルヘルム・ハマスホイ 沈黙の絵画』では、展覧会の表記に配慮したのか作家名は「ハマスホイ」で統一されている。この本を監修した佐藤直樹・現東京芸術大学准教授は、「ハンマースホイ」の名前で開催された2008年の展覧会のメイン・キュレーターだった方で、ハマスホイを日本に本格的に紹介した主たる功労者である。そんな方が、もしかしたら異論もあるかもしれないだろうに大人の対応を見せて「ハマスホイ」表記に素直に従っていらっしゃるのは注目に値する。私もそれに倣って、ここでは「ハマスホイ」表記にした次第である。これから「ハマスホイ」の名のもとに、もう一度新たに「実績」を積み上げていってほしいな、との思いで。もう変えるなよ(笑)。

 瑣末な、どうでもいいと片付けられそうなことを長々と書いてしまったが、ものごとは突き詰めてゆくと様々な様相を見せてくる。ましてや現代の、情報の海に溺れないようにもがくのが精一杯で、「突き詰める」などということを遠くに押しやってしまいがちな世の中では、物事の大小に拘わらず、時に立ち止まって考えてみること、思考を突き詰めてみることも大切なのではないか。そして「神は細部に宿る」。これは自戒でもある。

 さらに、エーコの『薔薇の名前』を引き合いに出すまでもなく、この世界において「名前」はとても重要なものなのである。「名は体を表す」。たとえいい加減につけられた名前であっても、「名前」として認知された瞬間から、それは非常に重いものとなる。

 そしてなお、名前の表記の変化を超えて、ハマスホイが残した室内画や風景画は何一つ変わらず確かに存在し、その独特で静謐な絵画世界は、かつてと同じく今でも変わることなく、私たちを魅了し続けてくれる。

artexhibition.jp

(2020年3月2日投稿。ダラダラしてこの文章を書き終えないうちに、新型コロナウイルス禍のせいで展覧会が2週間ほど一時休止になってしまい、なんだか意味のない記事になってしまいました。それでも、目の痛みと肩ゴリをおして書いた文章なので、貧乏性の私としては勿体無く感じてしまい、当ブログにアップしました)