詩は人の人生を左右する

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(写真は2013年7月4日、南イタリア・サレント地方にて撮影)

 

 7月4日に、レンタルしたDVDで映画『イル・ポスティーノ』"Il Postino" ("The Postman")を観た。1994年作。公開当時は折からのミニシアターブームに乗って、かなり人気があった作品だった記憶がある。私も当時からすごく気になっていたものの、あの頃は駆け出しの編集者で昼も夜もない生活を送っていたこともあって、結局見逃していた映画だった。この度ようやく観ることができた。人生は、けっこうやり直しがきくものらしい。

 映画の公開から25年以上経ってから観たわけだが、2020年の現在でも大いに感じることのある、ある意味見応えのある作品だった。ということで、この作品について、少々長めの文章を書いておきたい。

イル・ポスティーノ [DVD]

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  • 発売日: 2009/12/16
  • メディア: DVD
 

 イタリアを舞台にしてイタリア語が主に話された映画なので、てっきり映画王国イタリア単独の映画なのだと思い込んでいたが、実際にはイタリア・フランスの合作映画。しかも監督のマイケル・ラドフォードMichael Radfordが生粋の英国人だとは知らなかった〜。英語圏の映画監督が全編イタリア語(とスペイン語)の映画を作ったという話は、寡聞にして他には聞いたことなかったので、かなり珍しいなとは思った。でも少し考えると、やっぱりヨーロッパはみんな繋がっているわけだし(英国だけはわずかな海峡を隔てているにしても)、この辺の境界意識の柔軟さこそがヨーロッパ的なもののひとつでもあるなあと感慨しきり、である。

 さらに、実在の革命詩人パブロ・ネルーダPablo Nerudaを演じたフィリップ・ノワレPhilippe Noiretもフランスのベテラン俳優だけれども、この映画では流暢なイタリア語とスペイン語を披露している。ノワレの代表作のひとつといえば全編イタリア語の『ニュー・シネマ・パラダイス』"Nuovo Cinema Paradiso"だしねえ。1990年代という時代の、間違いなく今よりいろいろなものごとが大らかであった人々のコスモポリタンな共通意識、とでも呼べそうなものも、このような「多国籍」な作品が成立した背景にあるとは思う。

 物語はチリの革命詩人ネルーダが1950年にイタリアに亡命した事実に題材を取り、その亡命中に滞在先の小島での、彼と郵便配達夫マリオとの交流を描いたもの。実際にネルーダが暮らしたのはナポリ近くの、観光地として有名なカプリ島Isola di Capriだったらしいが、物語の中では無名の架空の島になっている。実際のロケ地は同じようにナポリから近く、同じように風光明媚なプロチダ島Isola di Procidaだったとか。この島と近海の美しい風景が全編にわたって画面に映し出され、加えていかにもイタリアらしい鄙びた漁村の雰囲気も実に素晴らしい。これを見るだけでも、この映画を観る価値は十分。またイタリアを旅したくなる。といっても、私は何度もイタリアを旅行した割には実はナポリとその周辺は行ったことがないのだが(笑)。

 

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(写真は2013年6月25日に、イタリア・シチリア島エリチェにて撮影)

 

 しかし、この映画で最も重要なテーマは「詩は人の人生を左右する」ということだろう。

 この「詩」は、「アート」にも、「音楽」にも置き換えていいと思う。

 さらに幅広い言葉でいうと、「文化は人の人生を左右する」ということだ。

 もっと言葉を進めると、「人文知がいかに人間と人間社会に不可欠なものか」を高らかに謳いあげた作品なのだ。

 私がこの作品を、今なお多くの人が観るべきとても重要な映画だと思った理由のひとつが、ここにある。特に「人文科学は役に立たない」と思い込んでいる愚かしい人々には、この作品を観て、大いにその浅はかな考えを変えてほしいと心底思う。

 この、詩人ネルーダと配達夫マルコの交流の物語の軸として、「詩」が使われている。偉大な詩人との友情を通じてマリオは、詩というものが素晴らしく魅力あるものを湛えており、いかに人生を豊かにし、人生を左右して生き方・考え方を変えてゆけるかを、身をもって知ることになる。そして彼は、詩に生きるようになる。それはまさに、詩を通じて世界の見方が変わるということである。この映画で示される興味深い対比は、そうした詩に生きる人々と、詩と縁もなく日々を暮らす素朴な人々とのそれである。一般の人々は詩というものを、あるいは文化文芸全般を、全く生活に必要なものだと思っていない。映画は、そのどちらが正しいとか間違っているとかは表面的には一切断ぜずに、様々なエピソードの積み重ねでその両者の対比を浮かび上がらせる。両者が世界を見る目の違い、パラダイムの相違をくっきりと示すのだ。

 中でも、マリオの詩的な言葉にすっかり「熱く」なったベアトリーチェに母親が「何をされた」と執拗に訊く場面は象徴的である。母親は、詩なんていう単なる言葉の羅列(「たわごと」ともいうか?)が、キスや性的な行為と同じように人に恋愛的な影響を及ぼす力があるなんて、思いついたことすらない。それどころか、マリオの作った詩を、人をたぶらかす悪い魔術と決めつけてしまう。生活に何の役に立たない「ことば」にそんな力があると認めるくらいなら、魔術にしてしまった方がまだ彼女には「分かる」のだ。彼女には「詩に生きる人々」のパラダイムを、理解することができないのだ。

 実は、詩を「魔術」と決めつけたことは、この母親は全く意図していないが、ある意味で真実を突いている。なぜなら、優れた詩ほど人に大きく影響を与えうるからだ。ネルーダは、母国チリでは、詩を武器にして人々を弾圧する体制と闘う革命詩人だ。詩は、「ことば」は人々の力になり、武器にすらなることを身をもって示す存在なのだ。

 そしてこの映画は、詩が持つ「ことば」の魅力を大きく引き出すエピソードを用意している。物語の中盤、海辺でネルーダがマリオに、海の波を題材にした即興の詩を語って聞かせる場面は圧巻だ。言葉のリズムと脚韻の響きが耳を心地よく打つ。改めて、詩とは元来耳で聞くものであったことをまざまざと実感する。

 この場面で気づいたことだが、劇中で語られて耳から入る詩の言葉はもちろんオリジナルのイタリア語なのだが、その詩の意味が日本語の字幕で表示され、それを同時に目で追える。これは字幕版で映画を観る良さのひとつだと思った。こういう「詩の聴き方」もいいものだ。外国語で書かれた詩を翻訳で読むのは、原語の持っていたはずの視覚的・聴覚的効果を完全に再現することが難しく、かといって原語で読むのはその言語に精通していないと、なかなか「味わう」境地まで達することができない。そこへいくと、字幕版の外国映画なら、目と耳を同時に使って、感覚的に外国語の詩の「いいとこ取り」ができるなあと、改めて気づいたのだった。

 そんなわけで、この映画は観終わった後に、猛烈に詩が読みたくなる気分になる作品だ。まさに劇中のマリオのように、生活の余白の中で、でも熱意を持って詩に向き合いたくなる。この作品と雰囲気は全然違うが、同じように詩が物語の大きな役割を果たしている映画として、ジム・ジャームッシュ監督の2016年の作品『パターソン』"Paterson"を思い出した。

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 もうひとつ、この作品を観る上で併せて考えるべきは、この映画の舞台である1950年代のイタリアでの、共産主義運動の大きな高まりが背景にあることだ。イタリアのみならずフランスやスペインなどでも広がった70年代の政治運動のうねり、いわゆる「ユーロコミュニズム」に繋がる動きである。

 先に名前を挙げた『ニュー・シネマ・パラダイス』の名匠ジュゼッペ・トルナトーレ監督Giuseppe Tornatoreの自伝的要素の強い2009年の作品『シチリア!シチリア!』"Baarìa"でも、シチリア出身の主人公が共産党員として熱心に活動する様子が取り上げられていたが、この第二次大戦後〜1950年代のイタリアを描こうとすると共産主義運動は避けて通れない要素なのだと思う。イタリアは西欧諸国の中でも特に共産主義運動が興隆した国であるそうだが、その背景には、イタリアが抱える深刻な南北の経済格差、特に南部の人口の大多数を占める、極度の貧困と少数の支配者による抑圧にあえぐ農民や労働者たちの存在があるだろう。まさに彼らこそが、その貧困や抑圧から逃れ出んとよりよき社会を築く理想に燃えて、共産主義運動の主たる担い手になってゆくのだ。貧困や抑圧を解消するためには、彼らは組織犯罪か共産主義かのどちらかしか取るべき選択肢がなかったのだ。地方の村の、ごく普通に暮らしている平凡な隣人たちが、ごく当たり前のように共産党員だったのだ。

 彼らはまた、伝統的な生活を重んじる敬虔なカトリックの共同体に生きる人でもあった。それゆえ、古い因襲とカトリックの伝統と、新しい社会への理想に燃える共産主義とがひとつの社会に同居し、何かの機会に微妙な緊張を人々の間にもたらす。この映画では、そのあたりの状況もビビッドに描き出している。そもそもネルーダ自身が共産主義の理想に燃える革命詩人であり、マリオもまたその理想に共鳴して、共産党員としての活動に埋没してゆくのだから。映画の語り口は、彼らの理想に燃える姿に温かい眼差しを注ぎながらも、同時に物語の実に苦い終幕が示すように、一部過激化してゆく共産主義運動の限界も示している。映画のラストで浜辺に佇むネルーダの脳裏には、マリオとの友情への想いはもちろんだが、同時に、深く信奉してきた共産主義の挫折と限界に対する痛切な感情も抱いていたに違いない。

 どちらかというとコミカルで心温まるトーンで綴られてきたこの作品に、このような実に苦い結末が待ち受けていること。それこそが、いかにもヨーロッパで作られた映画らしいなと思う。いわゆるハリウッド作品とは違い、ひとつの作品をひとつの色で染めてしまわないのがヨーロッパ映画らしさだと、私は常々受け止めてきた。現実の世の中を見れば分かるように、むしろひとつの色で塗りつぶしてしまうのはとても危険で不自然なことなのだ。コメディであり、悲劇であり、ロマンスや人々の触れ合いあり、社会問題もきちんと捉えて、その全てを内包して「ひとつの時代」をそのまま創り出すこと。この映画はそんな「ヨーロッパ映画らしさ」に満ち溢れていて、私などは深い共感を覚えてしまうのだが。

 映画を観たあとで知ったのだが、マリオを演じたマッシモ・トロイージMassimo Troisiは、実は深刻な心臓病を患っているのを押してこの映画に出演し、撮影終了のわずか12時間後に亡くなったという。映画の中での飄々とした演技ぶりからは想像もつかないが、トロイージは文字通り人生の全てをこの映画に注ぎ込んだのだ。その情熱が、彼が演じたマリオの、不器用だけれど理想を信じて生き切った姿に重なって、実に鮮烈な印象を残す。

 

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(写真は、2013年6月30日に、南イタリア・プーリア州トラーニにて撮影)

 

 

(2020年7月23日投稿)