皇帝という「役職」

 中谷功治著『ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち』(中公新書)を本日読了。大変興味深い一冊だった。

ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち (中公新書)

ビザンツ帝国-千年の興亡と皇帝たち (中公新書)

  • 作者:中谷 功治
  • 発売日: 2020/06/22
  • メディア: 新書
 

 

 大学時代に西洋美術史、特に中世ヨーロッパの歴史と美術を専攻して以来、卒業後も折に触れてこの分野の本を何冊も読んだり講座を聴いたり旅先に訪れたり、独自に学んできた。だが私の場合、どうも興味の中心が現在の西ヨーロッパ=カトリック圏の中世に集中しがちで、西欧とは別個に、特に初期中世には独自のキリスト教世界を形成してきたいわゆる東ローマ帝国ビザンツ帝国については、あまり深く知ることがないまま今に至ってしまった。

 機会があればぜひビザンツ帝国の歴史と美術にも触れておきたいと常々思ってはいたのだが、なかなかタイミングに恵まれなかった。そこへ、このビザンツ帝国の歴史を概説した手頃な新書の登場である。どうやら昨年から今年にかけてはビザンツ帝国研究の当たり年なのか、この分野での良書が次々と刊行されているらしい。日本では従来やや馴染みの薄かった分野であるだけに、たいへん喜ばしいことだ。

 さっそく購入して一読。私自身の乏しい知識では、6世紀にビザンツ帝国の版図を大きく拡げて「大帝」と呼ばれたユスティニアヌス1世の事績などは、イタリアのラヴェンナに彼に関連する重要な美術史上の作品が多数存在していることから、また世界史的にもとても重要な人物であることもあって、まあそれなりに知ることも多い。だがそれ以降のビザンツ帝国の変遷については、西欧からの視点ではあまり表舞台に出てこないので、ほとんど知識がない。この本は、ちょうど私にとって「空白」だったその時代、7世紀から12世紀の歴史を概説しているので、まさにうってつけ。この「帝国」がいかに勢力を縮小しつつもあれやこれやの術策で生き延びてきたのかを、とてもコンパクトに掴むことができる。たいへん良い概説書であった。しかも読んでとても面白い。歴史叙述の醍醐味を味わえる一冊でした。

 それにしてもこの600年間に登場する皇帝たちの、なんと数の多いことか! 「はじめに」で著者も断り書きをしているが、何しろ皇帝だけで90人ほど出てくる。さらには、11世まで存在するコンスタンティノスを筆頭に、同じ名前の人が多数登場するので、正直言って全員を把握するのは到底ムリ。それでも、重要な皇帝はだいたい一世紀にひとりずつなので、その人たちさえ押さえておけばOK。あとのザコ皇帝(失礼)は、大きな歴史の動向の中で流しても問題なし。さらに世紀ごとに主要なトピックを個別に設けて論じているのも、それぞれの世紀を各々重要なひとりの皇帝とコミにして把握できるので、流れを理解を深める一助になるのが嬉しい。

 

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(写真は2013年6月30日に、イタリア・プーリア州の州都バーリBariにあるサン・ニコラ聖堂Basilica di San Nicolaにて撮影。イコンが飾られた、東方教会の祭壇がありました)

 

 「帝国」や「皇帝」と聞いて私が思い浮かべるのが、当のビザンツの大元である古代ローマ帝国や、あるいはモンゴル帝国オスマン・トルコ帝国。さらには映画「スター・ウォーズ」シリーズの帝国軍や、田中芳樹氏の小説『銀河英雄伝説』の銀河帝国だったりする。だから「帝国」というと大体において広大な領土と圧倒的な軍事力を持つ、単なる国家を超えた超国家、言うなれば「世界の覇者」のイメージだし、「皇帝」はそこに君臨する強大な支配者(で多くが世襲)という感じだ。「帝国」と名乗るだけで、普通の王国より桁違いにスケールがでかい印象があるのだ。

 ところがこの本を読んで、ビザンツにおける「帝国」と「皇帝」はそのイメージからずいぶんかけ離れているな、と強く思った。ビザンツ「帝国」には、そんな「桁違い」感が全然感じられない。その版図はこの600年間で東からも西からも北からもぐいぐい押され、縮小する一方だ。そして「皇帝」の地位も実は世襲が絶対でなく、権力の座を狙ってクーデターを起こす人もいれば軍や民衆から推戴されて仕方なく(?)皇帝の座に就く人もいる。そんな感じだから、この本で叙述されている皇帝の列伝も、まるでどこかの国の総理大臣の列伝のように見えてしまう始末(笑)。名前こそ「皇帝」だけれども、なんか「国を動かす公務員のトップ」くらいの印象か。ただの役職感満載(笑)。

 というより、皇帝という地位は、古代ローマ帝国元老院を主体とした共和体制の中から出てきたという成立事情からしても、元来「役職」としての側面が強いのだろう。だから当初から世襲を前提としていない。それに対して、通常(?)の王位は、国や土地を支配した者=覇者の子孫が支配者であり続けるのが当然という考えに基づき、世襲制度が地位継承の大前提になっている。これこそが、皇帝位と王位との最大の違いであるようにも思う。

 かつての大帝国の看板を背負ったままで、肝心の実態がとうの昔にその看板からかけ離れてしまっているのを、その栄光を取り戻そうと四苦八苦しながらも、いかに内外をだましだましうまく切り抜けながら生き延びたか、というのが7世紀以降のビザンツ帝国の主たる足跡だったのだろう。「結局衰退して滅びたから価値なし」ではなくて、その過程を、皇帝たちをはじめとする人々の苦闘の積み重ねの軌跡を、詳細に見てゆくことが大切なのだと思う。

 そして、そのかつての大帝国の「看板」の最たるものが、「都市の女王」こと首都コンスタンティノープルという街そのものだったのではないか。むしろこの街があったからこそ人々は「帝国」の矜持を持ち続けていられたのだろうし、この街の存在ゆえにこの国はこれほどまで長く生き延び続けられたのだと思う。「腐っても鯛」というか、いかに国内の実情がガタガタでもコンスタンティノープルある限りは……というモチベーションの源泉でもあっただろうし。「帝国」であるためには、相応しい伝統と風格と規模を備えた「都」=大都市が必要なのだ。ローマをゲルマン民族に奪われ、短命に終わった西ローマ帝国の末期が、それをよく示している。実にコンスタンティノープルという街こそが、ビザンツ帝国そのものだったといってもいい。特に、万を超える人口を持つ都市が数えるほどしかなかった初期中世において、8世紀には人口50万人を擁したコンスタンティノープルがいかに世界有数のメガロポリスだったか、想像に難くない。ほぼ普通の一国家程度の規模に落ちてしまったビザンツ帝国が「帝国」でいられたのは、この都市の存在の故なのだ。「都市の魔力」なのか。そのような「魔力」を持つ町が、日本にはあるだろうか。京都くらいか?

 

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(写真は2013年7月4日に、イタリア・プーリア州サレント半島の町スペッキアSpecchiaにある聖ユーフェミア教会Chiesa di Sant'Eufemiaにて撮影。9〜10世紀頃、この地域がビザンツ帝国支配下にあった時代に建立された古い教会)

 

 それにしても、これも著者が本書のコラムで言及しているのだが、「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「東ローマ帝国」とさまざまの名称で呼ばれているのが少々ややこしい(しかも彼ら自身の呼称ではないし)。著者によれば、明治以降の日本でのヨーロッパ史研究はドイツ語文献から発展した関係で、ドイツ語起源の「ビザンツ」が主流になったが、美術史研究の分野では英語文献が共通文献として主に扱われたため英語読みの「ビザンティン」が中心になったらしい。私自身も大学時代は美術史の人だったので、圧倒的に「ビザンティン」の呼称を使っていたし、今でもその方がしっくりくる。余談だが大学時代に英国へ留学した際に、初期中世史の授業で先生(もちろん英国人)がByzantineを「バイザンタイン」と発音したのがすごく印象に残り、「そうか英語圏ではバイザンタインと発音するのか〜!」と妙に興奮した(笑)のをよく覚えている。

 ビザンツ帝国が、現在言うところの「文明の十字路」に位置していたということは、実際とても重要なことのように思われる。現在では、その位置にある国=トルコが部分的にその役割を担っているのだろうか。機会があれば、このことについて深く考えてみたい。

(2020年8月17日投稿)