「過剰さ」に満ちた作品

 急にすごく観たくなったので、我が家のブルーレイで映画『スター・ウォーズ/エピソード1 ファントム・メナス』"Star Wars: Episode I The Phantom Menace"(1999年)を久しぶりに鑑賞した。

  ↑こちらは『ファントム・メナス』単体のブルーレイだが、私が持っている(&今回観た)のは下の、シリーズ6作品がパックされたブルーレイボックス。

 

 説明不要の、4番目に公開されたSWサーガ「開幕篇」だが、このあと続けてエピソード2と3を観る気はまったくなくて、このエピソード1「だけ」観たくなったのだ。映画公開から21年経った今、シリーズの流れから離れて観ると、このエピソード1は単独で完結している作品だなと強く感じる。

 もちろんそれに続く2と3に通じる要素は多数あるし、全ての始まりの物語であるのは間違いない。それでも、2と3で語られるこのプリクエル三部作のメインストリーム(共和国の崩壊とシスの勝利)からあまりにかけ離れた「序章」的な内容のことを考えると、これは本当は「エピソード0」として公開すべき作品だったと今では思う、いや、当時も多少思ったなあ。それほどに、2と3の内容(とその間)を3作でやればよかったのにという思いが強い。

 まあそうは言っても、世界の大きな期待を背負いまくった世紀のお祭り的超大作映画の最新作のこと、そうはいかないオトナの事情も山のようにあっただろう。

 さらに、先に制作されたオリジナル三部作(エピソード4〜6)と後から作られたこのプリクエル三部作(エピソード1〜3)との予型学的整合性を、ジョージ・ルーカス監督はかなり重視していたのではないか。この各三部作間の予型学的整合性については、この日記の以前の記事でかなり詳細に書いたことがある(2015年12月27日の日記参照)。そこでは、さらに後の、新三部作の一作目となるエピソード7『フォースの覚醒』での予型論について書いたのだが、当然この『ファントム・メナス』と映画公開第1作であるエピソード4『新たなる希望』との間にも、多くの予型論的類似点が指摘できる。『ファントム・メナス』は、物語の構造やキャラクターや種々の要素が『新たなる希望』に偶然似てしまったのではない。ルーカスは、敢えて似せて作っているのだ。「歴史は繰り返す」。『ファントム・メナス』の物語や様々な要素が『新たなる希望』で繰り返され、しかし微妙に差異を生じて語られることによって、エピソード間の関係を強めて、ひとつのサーガとしての一体感を打ち出しているのだ。だからこそ『ファントム・メナス』は『新たなる希望』に対応するためにエピソード1でなければならなかったのだ。

 結局のところ、シリーズの前後の作品から離れて『ファントム・メナス』だけを単独で眺めると、物語に込められた情報量の凄まじいまでの多さとともに、過去の名作映画や多様な世界の文化へのオマージュがぎっしりと詰め込まれて、この映画が何重もの意味で「過剰さ」に満ちた作品だという事実が際立つ。

 いくつか例を挙げると、映画の中盤、アナキン・スカイウォーカーが出場するポッドレースの場面は、往年の大作『ベン・ハー』"Ben-Hur"(1954年)の戦車競争の忠実な再現だし、法螺貝の音とともに霧の中から現れる水棲人グンガンの兵士たちの姿には、黒澤明作品の戦国映画に入り込んだかのような印象を与える。あるいは、ナタリー・ポートマン扮するアミダラ女王や、フォースのダークサイドの使い手ダース・モールの衣装やメイクは、日本の歌舞伎や中国の京劇、さらに世界各地の様々な民族衣装の意匠を取り入れて、実に絢爛たる華やかさだ。物語の主要な舞台のひとつである惑星ナブーの宮殿は様々な文明が交差した歴史を持つ南イタリアにおいて、ナポリ近郊のバロック期の傑作カゼルタ宮殿で撮影され、首都のビジュアルは様々な地中海周辺の歴史的建築をベースにしたような、エレガントな街並みを構成している。

カゼルタ宮殿 - Wikipedia

 実のところ、これらの「過剰さ」こそが『ファントム・メナス』の最大の魅力になっているし、画面に溢れるそのケレン味たっぷりの「過剰さ」に浸って存分に目と耳を楽しませたい、というのがこのエピソード1だけを観たくなる大きな理由なのだ。故・伊藤計劃氏も、この作品について「精緻なビジュアルを「愛でる」「手触りを楽しむ」」映画だと評して、かの「ブレードランナー」と同列に位置付けているのが卓見である。実に『ファントム・メナス』は、「スター・ウォーズ」シリーズの中でも非常に特異な存在だと思う。そして、これがエピソード「1」なのにシリーズ全体の基準にならない(そもそも一作目ですらない)というのも、「スター・ウォーズ」シリーズ自体の特異さの証左とも言えるのだが。

 だから、その特異さゆえに、公開当初はシリーズの以前の作品と比べられてああだこうだと批判された。そのいくつかは正鵠を得ていよう。だが、冒頭に書いたように公開から21年経った今、シリーズから「離れて」観ると、却ってそのめくるめく「過剰さ」に溺れることが映画の中で非常に効果を発揮している。最初の「スター・ウォーズ」であるエピソード4『新たなる希望』には、ルーカスがあらゆる映画ジャンルの要素を詰め込んだ、とはこれまでに繰り返し指摘されている。だが、この新しいプリクエル三部作の幕開けたる『ファントム・メナス』でも、ルーカスは、オリジナル三部作とはまた違った形で改めて古今東西の名作映画や文化文明の要素を詰め込み、全ての映画ジャンルを包括せんばかりの意気込みを示したように思われてならないのだ。

 

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(写真は2013年7月3日に、イタリア・プーリア州の古都レッチェLecceにて撮影。バロック建築の宝庫のような街でした)

 

 最後に、今回『ファントム・メナス』を観て、気づいたことをひとつ。フォースについての考え方やジェダイ騎士の思想など、「スター・ウォーズ」オリジナル三部作の随所に東洋的世界観というか、もっと具体的にいうと仏教の、その中でも禅宗の思想に近い世界の捉え方が現れていることは、これまでによく指摘されている。だが、今回改めて観て、その思想がきちんとエピソード1でも表現されていることに初めて気づいた。アナキンの母シミが、ジェダイの修行のために旅立つ息子との別れの場面である。別れがたいアナキンを彼女が諭す。

But you can't stop the change, any more than you can stop the suns from setting.

 

「夕陽が沈むのを止められないように、定めは変えられないのよ」

 これは、まさに禅宗の「無常観」(「無情」感でも無常「感」でもなく「無常+観」なので、間違えぬようご注意を!)をそのまま体現したような科白だ、と気づいて少々びっくりした。フォースの力について、あの評判の悪いミディ=クロリアンのような擬似科学的な側面を取り入れた陰で、ちゃんとブレていない世界観もルーカスは持ち続けていたのだ。

 そういえば、このプリクエル三部作は、善悪の判定はさておき「起こってしまったこと」を描いていることに注目すれば、物語の全体がまさに禅的な無常観に支えられた、全てが変転してゆくさまを語っていることに気づく。そしてオリジナル三部作に繋がり「輪が完成する」のだ。円環=循環は実に東洋的な思想だ。変転して起点に戻り、物語を微妙な差異を孕みつつ繰り返してまた変転する。直線的なはずのキリスト教的予型論をも、仏教的無常観そして東洋的円環思想の中に取り込むかのように。

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(写真は2020年8月17日撮影)

(2020年8月27日投稿。「観たよ」って記録的にアップするつもりが、作品への思い入れの故かついつい文章が長くなってしまい、さらに眼精疲労に悩まされて執筆が進まず遅れてしまいました。やれやれ)