血縁絶対主義者よ、地獄に墜ちよ

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 昨年急逝した直木賞作家・藤田宜永氏の小説『愛さずにはいられない』を読了。著者の唯一の自伝的小説といわれる、原稿用紙千三百枚の大長編だ。その長さにもかかわらず、文章自体はとても読みやすく、生き生きとした会話や臨場感溢れる場面展開の妙に引き込まれつつ読み進み、予想より早く読了した。著者の卓越した小説技法のおかげだろう。あるいは、私小説を嫌っていた著者が、読者に受け止めてもらえるだけの技法を高めるまで、自らをさらけ出す機会をひたすら待っていた、と言うべきなのかもしれない。

 

 正直言うと藤田氏の作品は私が最も好んで読みそうにないタイプの小説なので、私をよく知る人であれば、私が氏の作品を読んだと知ると少々驚くかもしれない。それでも、二度目の文庫化として世に出たばかりのこの本に私が手を伸ばしたのは、もちろん、朝日新聞土曜版別刷りのあの連載コラムを読んでいたからである。

 小池真理子氏の「月夜の森の梟」だ。

 自身も直木賞受賞作家で、藤田氏の妻だった彼女が、37年間を共に暮らした伴侶にして「戦友」を亡くした喪失の日々を綴った連載エッセイである。2020年6月から連載が始まり、つい先ごろ50回で完結した。子どもを作らないことを結婚の大前提にして、婚姻届を出す必要がないと事実婚を貫いた(最終的には面倒な手続きを避けるために籍だけは入れたそうだが)二人の生き様が人ごととは思えず、また3年前に父を亡くした喪失感が癒えぬまま昨年立て続けに身近な人を亡くしたことで喪失感の「重ね塗り」を苦しんでいる私にとって、小池氏のこのエッセイは毎週読むたびに心の深いところにしっとりと沁み入って、とても深く印象づけられたのだった。このエッセイはきっと単行本が出るだろうから(画家の横山智子氏による挿絵がまた素晴らしい)、出たら絶対手に入れると今から決めている。(と書いていたら、まさにこの記事をアップする直前の6月26日に掲載された「連載を終えて」にて、単行本が今年の11月に出ることが告知されていた。なんというタイミング。絶対買います)

 このエッセイの第39回(2021年3月27日に掲載)の中で、藤田氏の『愛さずにはいられない』が書かれるに至った経緯と、この度再文庫化された旨を読み、いてもたってもいられずさっそく書店で手に入れた次第。藤田宜永氏も小池真理子氏も、どちらの小説も全く読んだことがなく、(少し前の時点では)今後も読むつもりがなかったはずの私がこの小説を読むことになったのは、こういうわけである。きっかけはなんでもいいのだ。「出会い」そのものが大切なわけで。

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 『愛さずにはいられない』には、著者自ら「人生の中で一番壊れていた時代」と書いているほどに自堕落で無軌道な高校時代の生活ぶりが、ある意味実に生き生きと描き出されていて、その臨場感と迫力は凄まじい。その根底に黒々と横たわる、実の我が子への支配欲にまみれた母親への憎悪や血筋と家族生活への嫌悪(それは裏返すと自己嫌悪でもあるのだが)に、読み進むうちにその奥深さと強烈さに圧倒されてしまうからだ。好むと好まざるとにかかわらず、ここに描き出されたひとりの若者の、傷だらけの彷徨の軌跡の鮮烈さには息を呑むしかない。

 もちろん、著者はこの物語の中でモラルを説いてはいないし、安易な自己弁護は一切おこなっていない。冷静なまでに当時の「自分」を客観的に見つめる叙述に徹している。そしてその上で、繊細すぎるほどの自分の感性が、家族、特に自分を支配しようとする母親を嫌悪することになり、それがその後の人生を大きく蛇行させていったことを切々と訴えているのだ。運命の女・由美子との痛々しいくらいの愛の行方もまた、その同一線上にある。

 これだけの熱量と鬼気迫る想いで自己の内面をさらけ出したこの凄まじい小説が、2003年に最初に発表された当初、批評家からも読者からも全く反応がなかったという、耳を疑う事実。作者は死の間際までそのことを強く残念に思い、嘆いていたという。それは、まさにこの主人公も作者自身も、この自らの内面に関わる話をするたびに直面してきた巨大な「世間の壁」のせいだ。

 この小説は結果的に、戸籍制度をはじめ日本の根底にいまだに巣食う「家」を絶対とする制度、それを固く維持するために血統・血縁を絶対神聖なものとして崇め奉ることへ、強烈な「NO」を突きつけているのだ。発表当時にこの小説を目の当たりにした人々は無意識にそのことに気づき、見ないふりをして目をそらした。そうしてこの小説自体を「なかったこと」にしようとしたのだ。だが、この小説を「なかったこと」にするということは、直木賞作家・藤田宜永氏を「なかったこと」にするのと同義である。そのことは、小池真理子氏による巻末の解説にも記されている。

 もしも世間が、「母親というものは息子を愛するものだ」という、いわば善意から生れた固定観念を押し付けてこなかったら、藤田は作家として、まったく異なった方向で、自在に力を発揮していたかもしれない。(中略)
 一般常識で理解されにくいことを、どうやればわかってもらえるのか、と彼はいつも私に訴えた。手を替え品を替えながら、小説の中で書いてきたつもりなのに、鎧を脱いで正直に書くと、必ず「でもね」と言われる。母親は息子を愛するものだ、と説教されるのはまだ我慢できるが、それがもとで、作品自体に反感を抱かれてしまうのはやりきれない……と。
(巻末解説「不器用な情熱の記録」より)

 

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 本当に、この国にはびこって人々を苦しめている血縁絶対主義に、これ以上目をつぶらないでほしい。実の親による児童虐待をはじめ血縁間の悲惨な事件や深刻な問題がこれだけ山のように起こり続けているのだから、それらの根源が「家」の存在を絶対とするために血統や血の繋がりを何が何でも神聖視する、この旧態依然とした社会のあり方や制度が人々を押し潰そうとしていることから発していることに、いいかげん気づくべきだ。親子だから、兄弟だから、血の繋がりがあるから、それだけで特別な愛情や絆がはじめから存在するのではない。血縁をひとつの契機として共に暮らし、長い時間を共有する中で愛情や特別な絆が育まれるのだ。それを初めから絶対的にある特別なものと勘違いして、世の中に大勢いる血の繋がりに愛情や絆の感情を持てない人々に対して、自分と違うからといって「きっと持っているはず」と決めつける方がむしろどうかしている。それこそ、血縁のせいで起きている山積みの問題を全てなかったことにして、自分と違う考え方や感じ方をシャットアウトして自己保身を図る、姑息な態度にしか見えない。

 さらに言えば、血の繋がらない人の強い愛情や絆は、これもまた山のように世の中に存在している。それへも、血の繋がりがないからというだけで血縁関係より劣っているとか決めつけるなんて、本当にありえない。そんなひとつの基準だけで簡単に価値の上下を決められないでしょう? 藤田宜永氏や小池真理子氏のような人々の体験と考え方を、ひとつの側面として尊重する社会であってほしい、と強く願う。

 勿論、念のために書いておくが、私は血縁によって培われた愛情や絆そのものを否定しているわけではない。人それぞれにさまざまに異なるはずのそうしたものを、多様に存在するものとして受け入れることが大切なのだと言いたいだけだ。

 最初の発表から18年経ち、今また再文庫化で世に問われた本作。新型コロナウイルス禍による影響もあり、人々のものの考え方にもずいぶんと変化を兆してきて、社会制度にも人間関係にも、より多様なあり方を認めあう空気がようやく広がってきたように思う。まさに今、今こそこの作品が読まれ、多くの反応を集めて然るべきだ。

 しかしその一方で、ほんの数日前だが、夫婦同姓の強制が合憲であるという判決が最高裁で出たという報道に接すると、こんな旧態依然とした司法判断が平気で出てしまう日本の根っこは何ひとつ変わっていない気もしてしまう。それでも、いや、だからむしろ、人々はこの本を手に取るべきなのだ。

 この国の「家」の制度にがんじがらめに縛られた「血縁絶対主義」がこの国の奥底にはびこっている限り、私は人のあり方の自由を守るために『愛さずにはいられない』の側にずっと立ち続ける。この小説に込められた一人の人間の生涯をかけた想いの深さを守るためなら、永遠にでも藤田宜永氏の、そして彼の作家としての深い想いを受け止めて再文庫化の実現に漕ぎつけた、小池真理子氏の側に立ち続ける。

 余談だが、この小説を読みながら、昨年読んだルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』を思い出して思考を巡らすことが度々あった。それは、実際に起こったこと・体験したことと、それらのことを書いた小説との関係についてである。フィクションとノンフィクションの線引きの問題と言ってもいいかもしれない。このことについては、別の機会に書いてみたいと思っている。

 

 それにしても、ようやく私も、読んだ本についてブログに書けるくらいには立ち直ってきたようだ。それを思うと、少々感慨深い。昨年後半に心身ともに受けた深いダメージの影響で、それまではあんなに空気を吸うように自然におこなってきた「本を読む」という行為が、恐ろしいことに一時まったくできなくなった。今年に入ってから、心身が少しずつゆっくりと調子を取り戻してゆき(もちろんまだ本調子とはとても言えないが)、ようやく本を手にとって開き、文字の羅列が頭に定着してくるようになったことで、どんなに安堵したか。

 まことに、本を読まなくなった人間は、死んだも同然だとつくづく改めて実感した。これからは、このブログに自らの思考の軌跡をもう少し記してゆくことができそうだ。

 

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 もう一度書く。日本に「家」中心の思想と血縁絶対主義がはびこる限り、私は『愛さずにはいられない』の側に立ち続ける。この小説に渾身の思いを込めた藤田宜永氏の側に、その思いを深く受け止めて共感し、再び世に出すために奔走した小池真理子氏の側に、ずっとずっと立ち続ける。

(写真は全て2021年6月7日に撮影)

(2021年6月27日投稿)