過去の人々にも「違う靴」を。

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 佐藤信編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで』(ちくま新書)を読了。現在第4弾まで出ている、ちくま新書の大人気「古代史講義」シリーズの記念すべき第1集を、ようやく読むことができた。

 

 日本古代史研究の最前線に立つ気鋭の15人が語る、最新の研究成果。これを読むと、数十年前に学校で学んできた教科書の記述が、今やいかに時代遅れになのかを痛感する。あの頃当然のこととされていた「事実」に、現在どれだけ疑問符が突きつけられているか。中には、明らかに誤りと認定されたものも。ましてやそれらの純粋な「歴史的事実」に正邪や善悪の判断が入り込む余地など、本来はあるはずがない。

 もちろん数十年前、つまり私たちが義務教育を受けていた頃の学校の教科書よりは、今まさに学校に行っている子どもたちの、現在の教科書の方がそれらの研究成果を踏まえた新しい記述になっているはずだとは思うのだが、最近の教科書の内容を知らない身としてはなんとも言えず。どうなのでしょうか?

 日本の古代史研究は、特にこの数十年の間の「進化」がめざましい。最新の科学的調査法を積極的に導入して飛躍的に調査の精度や情報のクオリティを上げた発掘調査結果や、木簡などの出土文字資料などの多角的史料、さらに他分野の横断的な研究の調査成果を踏まえた、近年の日本古代史研究。それら「物的証拠」に支えられた成果なのだから、当然のことながら従来の文献史料研究だけで定説とされた学説よりも、格段に精度の高いものばかり。それに従い、歴史を叙述する作業も、思い込みや断定や特定のイデオロギーに依らず、より事実に即して客観的におこなうことが可能になる。この本を読むと、次々と古代史がより実情に近いものに書き換えられていることを、ひしひしと感じるのだ。

 この最新の研究成果を、できるだけ早く学校の教科書に反映させていく必要があるのは、もちろん、当然のことだ。だが、より重要なのは、私たちのように学校をとうの昔に卒業して、もう歴史について学ぶ必要は全くないと思い込んでいる大人たち(もちろんそれは間違い)こそ、この本を読んで自己の歴史認識をアップデートしてゆかねばならないということだ。私たち大人は学校を卒業して世の中に出て、学校で学んだことが全てではないこと、学校で学んだことが絶対ではないことを、既に身を以て知っている。特に高等教育の本質は、「学び方」のスキルを身につけることに尽きる。だから、学校を卒業しても、学びは続く。人にとっての「学び」は一生終わらないものだ。

 さらに、学校の教科書は分かりやすく身につけさせる便宜として、事象の流れをとかく大づかみにしようと単純化・図式化してしまう傾向がある。特に、ものごとを二項対立に持ってゆきがちで、そこに善悪の押し付けが入り込む余地を生む。実際の歴史上の出来事は、そんな単純なものでは到底なく、実に複雑で錯綜しており、かつ多様性をはらんだものであることが圧倒的に多い。我々の現在の暮らしや社会が、まさにそうであるのと同じように。

 いうまでもなく、古代と現在は同じ人間の営みの延長線上に繋がっていて、全く分断していない。飛鳥時代奈良時代に日本で生きた人々が考えたり思ったりしたことは、現代に同じこの日本で暮らす私たちの考えや思いと、さほど大きくは異なってはいないのだ。そして実に複雑で多様なものをその内に抱えているのだ。

 だからこそ、私たちの生活や社会に起こる全ての問題を、学校で学ぶ際に便宜として使用した単純化や二項対立に落とし込んで思考停止するのは、全く「大人のすること」じゃない。過去も現在も同じ。この本を、学校を卒業した大人が読む意義のひとつは、そこにある。特に二項対立は、根拠のない思い込みや特定のイデオロギーに依った正邪・善悪のレッテルを貼られてしまい、そのレッテルが独り歩きしてしまう危険性が非常に高い。西洋史だって、未だに旧態依然とした「中世は暗黒時代で、ルネサンス人間性謳歌する明るい時代」という図式化された、間違った思い込みによる弊害が、実に根深くまかり通っていると聞く。正すべきものは正さなければならない。

 私たちが生きている「今」を、この現代の社会を見渡せば、古代や中世にも、現代の私たちと同じように人間たちが喜び、笑い、泣き、悲しみ、怒り、苦しみながら人生を生き、社会の中で居場所を求めてきたことに気づく。そして、それらの時代が、現代と同じく簡単に図式化できないことにも気持ちが及ぶはずなのだ。私たちは過去の人々に対しても、「違う靴」を履いてみる必要があるのだ。

 時の彼方に埋もれた遥かな古代の歴史や人々に想いを馳せ、ロマンを感じること。それは、史料が少ないゆえに我々の想像力を掻き立てる余地が多く残されていることなのだと思う。小説やドラマ、ファンタジーとしての物語、自由な想像力のもとに文芸的な作品にそれらを昇華させること。どれも面白く興味深い(私も大好きだ)が、楽しみつつも、あくまで「これもひとつの視点、あるかもね」と絶対的な史実として信じ込まない客観性や批判精神を持ち続けることも大切だ。そこが、研究成果を踏まえて歴史学者が歴史を「叙述」することとの決定的な相違か。

 だが、アプローチや方法こそ違え、どちらも、いにしえに生きた人々を「今」に甦らせるおこないであることは間違いない。

 

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 最後に、とても重要に思われた文章をひとつ挙げておく。

文化というのはその時代を代表する文学や芸術作品を意味するのではない。その時代の生活の様相そのものである。
(本書第12講 河内春人「国風文化と唐物の世界」p.225より)

  これは非常に大切な指摘だと思う。権力者や体制の注文・収集による「最高級」の美術品でなくても、様々な視点からじっくりと目を凝らせば、日常生活や庶民の暮らしの中にも、その時代の文化の本質は表れている。いやむしろ、そこにこそ、その時代の文化の真髄が見出せるのかもしれない。

(写真は全て2017年5月2日に、京都にて撮影)

(2021年7月17日投稿)