先日の日記で、ウクライナと聞いて真っ先に思い浮かんだ人、フィギュアスケーターのオクサナ・バイウルさんについて書いた(2022年2月27日の日記参照)。
だが、そのあとで、私にとってものすごく大切な現代音楽の作曲家がウクライナ人だったことを完全に失念していたことに気づき、忸怩たる思いとともに慌ててここに書き記す次第。
ヴァレンティン・シルヴェストロフValentin Silvestrovだ。
1937年生まれのシルヴェストロフさんは現在84歳。60年代までは前衛的な、いわゆる「現代音楽らしい」曲を作っていたそうだが、70年代以降はその作風に大きな転換が起きる。伝統的なクラシック音楽への回帰を志向した作品を生み出すようになったのだ。表面的には、現代音楽とは馴染みのない「普通の人」でも聴きやすく親しみやすい曲が多くなったのだ。
もちろん、ただ古典をなぞっただけの曲作りではない。現代的な感覚と独特の感性で濾過され、奥深いものを秘めたその音の響きは、聴くものにさまざまな感情を呼び覚ます。彼の独自の抒情性に満ちた作風は、近年幅広い支持を集めており、私もその特異な音楽世界に魅了されている一人だ。
シルヴェストロフ作品の魅力を私なりに言い表すと、「静謐」と「郷愁」の二つのことばに纏められるように思う。「静謐」でもちろん思い浮かぶのは、かのマンフレッド・アイヒャー率いるレーベル、ECMだ。ECMのクラシック系のラインである"ECM New Series"から、2002年以降多くのシルヴェストロフ作品がリリースされており、彼の作品が世界で広く認知されるのに大きな役割を果たしている。
中でも2007年にリリースされた「バガテルとセレナーデ シルヴェストロフ作品集」"Valentin Silvestrov: Bagatellen und Serenaden"は超名盤。アマゾンのレビューで「命ある内に聴いておくべき一枚」と書いている人がいたが、まさにその通り。一生のうちに一度でも聴いておくべき音楽がここにある。心の底から全ての人にお薦めしたい。
私自身、このアルバムがシルヴェストロフ作品との出会いであった(そういう方は多いと思いますが)。タワレコの店頭で見かけてジャケット写真に惹かれて試聴したのだが、ほんの少し聴いただけですっかり虜になってしまった。以来、数え切れないほど繰り返し聴いている。私の持っている全ての音源の中で、間違いなく5本の指に入る一枚だ。
アルバムの前半は作曲者自身のピアノ独奏によるバガテル集。彼方から聞こえてくるようなピアニッシモの響きに耳をそばだてているうちに、荒涼たる風景を心の中に描き、懐かしい、あるいはやるせない想いで身のうちが満たされる。
後半はクリストフ・ポッペン指揮ミュンヘン室内管弦楽団演奏の弦楽セレナーデ集。数曲でアレクセイ・リュビモフがピアノ演奏を添えている。これがまた素晴らしい。音の流れに身を委ねているうちに、胸がぎゅっと締め付けられるような郷愁がこみ上げてきて、泣きたいような、それでいて心のうちは実に平らかに保たれているような、なんとも言えない心地になってしまう。特に「エレジー」"Elegie"は、まるで北の針葉樹の森の奥深くから、あるいは黄昏時の灰色に烟った湖畔の彼方から響いてくるような旋律が、本当に胸の奥深くに染み入ってくる。
(上記動画は、アルバム収録のものとは異なる演奏です。
Kirill Karabits指揮、San Francisco Symphonyによる演奏)
キーウ(キエフ)Kyiv (Kiev)の街で生まれ育ったシルヴェストロフさんは、84歳の現在もこの古都で暮らしているという。今まさにロシアによる侵攻で筆舌に尽くし難い苦難を強いられている、ウクライナの首都。この危機的な状況で、まだご自宅にとどまっているのだろうか。現在の消息が気になってネットで検索してみると、3月8日にドイツに脱出したというフランス語の記事が見つかった。
とりあえずは無事のご様子でホッとしたが、生まれ育った故郷であり創作の源泉でありその舞台でもある街が苦難に虐げられている中、身を切るような想いで脱出を余儀なくされたのだろう。その無念たるや、いかばかりか。ソ連時代に、ソ連作曲家同盟から除名され音楽活動を禁じられた過去を持つシルヴェストロフさんは、侵攻者ロシアへの眼差しはとても複雑なものに違いない。戦争という惨禍が引き起こす損失は、まさに数字で測り切れないところでとても大きい、と改めて思う。
日本語で書かれた記事がないかと探したところ、2017年11月にシルヴェストロフさんが初来日した時のインタビュー記事があった。曲作りに際して大切にしていることなどを語っており、とても興味深い内容のインタビューだったので、ここに貼っておきます。
上記インタビューの中でシルヴェストロフさんは、現代人には「静寂の力」が必要だと話す。さらに、メロディの存在をとても重要視しており「音楽の最後の砦」とまで言い切っているのが、とても印象深い。私たちが生きる世界には、彼が作るような音楽がまだまだ必要なのだ。水の中に潜っていた子どもが、空気を求めて水面に顔を出すように。
ウクライナをめぐる非常事態を受けて、世界中の多くの演奏家たちがその音楽活動を通してウクライナを支援しているが、彼らの多くがその演目の中に、シルヴェストロフ作品を取り上げているのは当然のことだろう。かの国を支える人々を動かす力として、彼が作り出した美しく、どこか懐かしさを感じさせる幽けきメロディが大きな役割を演じていることは、この殺伐とした世の中にも一朶の望みがあるような気がして、心がほっと温まる心地がする。
(1枚目の写真は、私が持っている"ECM New Series"からリリースのシルヴェストロフ作品。2枚目と3枚目の写真は2022年3月16日にEOS Kiss Mにて撮影)