物語ることの豊かさ

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 濱口竜介監督、西島秀俊主演の話題の映画『ドライブ・マイ・カー』を、我が家から比較的近い、街の映画館「下高井戸シネマ」にて観た。

 

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 下高井戸シネマの上演作品のラインナップは週替わりが基本で、話題の作品でもせいぜい2週間程度しか続けない。だが、この作品は週ごとに上映時間を変えながら、なんと4週連続で上映という破格の長期間だ。しかも下高井戸シネマでは過去に一度上映済みの作品なので、いわゆる「凱旋」上映である。米国アカデミー賞の作品賞にノミネートされたという、日本制作映画で初めての「快挙」のおかげだろうか。話題の作品のために、町の小さな映画館が賑わうのは大いに結構なことだ。私たちが観たこの日も、平日の昼間であるにも関わらず非常に多くの人が集まっていた。

 

 

 私自身は正直いって日本映画への熱量が低めな上に、周知の通り大のクルマ嫌いなので、あまりこの作品には気に留めていなかった。それでも、身近な人の喪失という、全ての人に切実なテーマには惹きつけられていたし、やっぱりアカデミー賞作品賞ノミネートというのは大いに気になる。何より下高井戸シネマの招待券が手元にあった(笑)。最近は目の力が衰えてしまって、映画を一本観ると肩ゴリと頭痛と目の痛みで翌日以降寝込んでしまうことが多く、不本意ながら映画を観る行為自体を敬遠しがち。この作品も3時間近い長尺作品なのでかなり躊躇したが(本来は長ければ長いほど喜ぶ人なので、この体たらくは情けない限りなのだが)、それを押してもこれは観て損はない作品だろうと判断して、勇を鼓して(笑)映画館に足を運んだのだった。もちろん、この日は極力目を使わないようにして(あと観た後にお酒を飲まないようにして)、出来るだけ目をいたわるように配慮して観賞に臨んだ。濱口竜介さんの作品を観るのはこれが初めて。

 結果、観てよかった。いや、目のことではなくて『ドライブ・マイ・カー』のことですが。映画の物語性をじっくりと堪能できる作品だった。作品世界に平易に没入できるナラティブ作品として、3時間弱の上映時間を充実した気分で過ごすことができた。話の行き着く結果とか目的とかではなく、物語の道筋そのものの豊かさ、語ることそのものの重要性。正解も模範回答もない。受け止め方は様々。物語を語ることで広がるイメージやメタファーの波を、観る人が個々に受け取って、各々自由に解釈すれば良い。なぜ広島か、なぜヤツメウナギか、なぜ清掃工場か、ではなく(モチーフとして選ばれた理由はあるにせよ)、それらの一つ一つに喚起されるイメージや思考の広がりを観る人それぞれが個々に味わって、物語そのものを楽しむ、愉しむ。そしてそれを他者と語り合い、それぞれの解釈やイメージや思考の広がりを披露し合い、その共通点や相違点を認め合い共有することで、自分の内なる世界が外に広がってゆく。

 これは、要するに文学や文芸というものが本来持っている、基本的な作用だ。この作品は村上春樹氏の短編小説が原作だとか。私自身は原作小説は未読なので、どの程度この映画が原作に依拠しているのかわからないのだが、村上春樹氏の小説は(私自身が読んだことのある作品の範囲においては)個々のモチーフが持つイメージやメタファーの力を大いに活用しているという認識が強かったので、やはり原作の力が大きいのだろうか。

 

 

 この作品の文学的側面は、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』が全編の中で最も重要なモチーフとして扱われていることにも、よく表れていると思う。西島秀俊さん演じる主人公・家福が舞台俳優であり、物語の主要な部分を占める舞台演劇ワークショップ活動の演目かつ題材がこの戯曲である、というだけではない。『ワーニャ伯父さん』の物語や人物、台詞がこの映画の物語構造や人物造形とダイレクトに繋がっているのだ。それゆえ、こればかりは他の戯曲には代え難い。それどころか、この作品自体がある意味『ワーニャ伯父さん』をこの映画の文脈で語り直しているとも言える。不勉強な私は『ワーニャ伯父さん』も未読だが、村上春樹氏の原作よりもむしろ『ワーニャ伯父さん』を読みたいと思ったぞ。そのほうが映画の理解を深めるのに役立ちそうな気がする。

 そのように何重にもモチーフやメタファーが積み重なった作品なので、いろいろ深読みすると実に楽しい。作品の話題が高まるにつれて、各方面からそうした様々な読み方が披露されるだろう。実に良いことだ。それを多くの人が共有すればさらに良い。喪失と再生はもちろん、演劇と演じることの仮面性に多重人格。広島という地の喚起するイメージ。韓国を中心にアジア各地の俳優が登場して自国語を語ること。それによって必然的にこの映画が多言語作品であること(その中には韓国手話も含まれる)。人と人が「分かり合う」ことの難しさ。テキストとことば。性行為と「産み出す」行為の繋がり、などなど。挙げだすとキリがなくて、ひとつひとつを考察しだすといくら書いても終わらない(笑)。それほど豊かなイメージとメタファーを孕んだ、私に言わせると実に「文学的」な、これ一本で長いこと愉しむことができる、とてもよく出来たナラティブ作品である。

 キリがないので、ひとつだけ書いておこうと思う。

 

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 映画の中で最も重要なモチーフのひとつは、いうまでもなく西島秀俊さん演じる主人公・家福の真っ赤な愛車である。クルマ嫌いの私はどんな車種だか全く分からずに観ていたが、かなり古いクラシックカーらしいということはなんとなく分かった。カーステレオがカセットテープだったりするし(これは関係ないのか?)。あとで調べると、スウェーデンのサーブ900というかなり希少なクラシックカーらしい。そんなレトロな自動車をメンテナンスしながら長いこと乗り続けるのは、相当にそのクルマへの「愛」がないとなかなか出来ないのでは。映画中盤以降で専属運転手としてこの車のハンドルを握る三浦透子さん演じるミサキが、これまでとても大切に乗ってきたのがよくわかると評していることからも、その「愛情」ぶりはなんとなく窺える。

 妻・音(演:霧島れいかさん)を喪ってから2年間の間、家福はこの車を運転するたびに、カーステレオで亡き妻が彼の「ホン読み」用に吹き込んだテープを流す。彼女が戯曲(もちろん『ワーニャ伯父さん』)のセリフを淡々と読み上げる声を聞きながら運転するのだ。もしかしたら音の読む台詞に応えて、彼はワーニャの台詞を話しさえするかもしれない。この車を運転するとき、車という移動する密室空間の中では音は生きていてその声を聞かせてくれる。車の中は、彼と妻との二人だけの、余人が立ち入るのを許さない、濃密な空間なのだ。だから、家福が参加する演劇祭の規則で運転手をつける必要があると聞いたとき、彼は愛車を自分で運転することにこだわる。二人だけの神聖な、時が止まった空間に、他者を入れることで汚したくないのだ。

 ある意味、彼は最も大切な身近な人の死を受けて入れていない。だって車に乗ってハンドルを握ってテープを再生すれば、妻の音は生きてその声を聞かせてくれて、二人だけの対話をすることができるから。二人だけの世界があるから。家福にとって、ここでは音は生前と変わらず「生きて」いるのだ。そうすることで、彼は耐えきれない喪失の哀しみをやり過ごしてきたのだ。それは自分だけの世界に逃げ込むことなのかもしれない。それでも、あまりに巨大な哀しみを前にして、自分を保っていられるのはこの方法だけだったのかもしれない。

 さらに、その二人だけの空間の中でも、家福と音は『ワーニャ伯父さん』の戯曲を演じ続けている。素顔のままお互いの前に立てないのだ。「役者」という仮面を被りつつ二人だけの世界を作り上げている。この「二人だけの世界」が、いつかは脱すべき「かりそめの世界」であることを示唆しているのかもしれない。

 しかし最初は規則のために渋々であるが、家福はミサキに愛車のハンドルを握ることを許可する。初めはその運転技術の高さゆえだったのだろうが、車という移動する密室の中で、今度は彼はミサキとともに音の声を聞くことになる。三人の世界が徐々に作り上げられてゆくのだ。そしていくつかのエピソードを経て、家福はミサキと心を通じ合わせてゆく。彼女の運転が滑らかすぎて、車に乗っていることを忘れてしまうことすらあると家福はいう。それは「二人だけの空間」を忘れること=妻の喪失を受け入れられない自分が、少しずつそれを受容できるように変わってきていることのメタファーとも取れる。いつしか家福は車の後部座席から助手席へ、ミサキの隣へと座る位置を変える。そして、同じような喪失の傷を持つミサキの「哀しみ」に寄り添うことで、彼は自身の「喪失」の哀しみに向き合うのだ。向き合うことができるようになったのだ。

 

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 「喪失と再生の物語」などととことばでいうのはたやすい。ことばにした途端に陳腐化してしまう気さえしてしまう。だが、分かった気になってはいけない。小池真理子氏がその慟哭のエッセイ『月夜の森の梟』の中で綴っているように、喪失の哀しみは人それぞれで、その様相は実に様々だ。その哀しみにいかに向き合うか、あるいは向き合わないか、はさらに多岐にわたり、そこに絶対の正解は存在しない。そしてそこからの「再生」の道すじもまた然り。とてもひとつのことばでまとめてしまって良いものではない。

 

(この本のことをすごく書こう書こうとあがいておりますが、まだ自分の中で言葉になりません)

 

 こうして一人一人の物語と向き合って、それぞれの喪失と哀しみの姿にひとつひとつ立ち会ってゆくこと。自らの経験と照らし合わせて、その他者の喪失を自分の中に取り込んでゆくこと。そうして「人」としての「勁さ」を高めてゆくこと。それこそが小説や映画が語る物語が持つ、あるいは「文学」というものの持つ大きな作用のひとつのような気がしてならない。

 決して「余剰」でも「不要不急」のものでもなく、人が人として生きるために必要なもの。時に物語とも文学とも呼ばれる、そんなものたち。それが確かに存在することを、『ドライブ・マイ・カー』は私たちに教えてくれる。そんな気がするのだが、言い過ぎだろうか。

(写真は全て2022年3月14日に撮影。これは3点ともApple iPhone SE(2nd Gen.)で撮りました)

(2022年3月27日投稿。映画を観てから10日経ってしまいましたが、自分の中で言葉にするのに時間がかかったことと、激しく疲弊した目の痛みとキツい頭痛肩ゴリのせいで数日ほど端末画面に向かうことができなかったからです)