「縁の下の力持ち」とジャンル映画について

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 2022年4月3日の日記に続き、第94回米国アカデミー賞の受賞結果について、雑感を記す。

 今回のアカデミー賞での最多受賞作品は、6部門を受賞した『DUNE/デューン 砂の惑星』だった。2022年4月3日の日記にも書いたように私個人としては、『ドライブ・マイ・カー』の国際長編映画賞受賞もさることながら、『DUNE』のこの快挙は素直に嬉しかった。それほどにこの作品が私に与えた印象は強烈で、まさに「映画が映像と音声の表現でできることの到達点」を示しているとさえ思ったからだ。

 

 

 だが現在のところ、この事実はあまり大きな話題になっていないように感じる。その上に、例の「ウィル・スミス平手打ち事件」でさらに霞んでしまった。だから、え、そうだったの?という人もいて当然だろう。

 その理由は、『DUNE/デューン 砂の惑星』が受賞した6部門が(ネット上の報道で散見する呼び方に従えば)いわゆる「技術系」だったことにある、と私は見ている。撮影賞。美術賞編集賞。音響賞。視覚効果賞。そして作曲賞(主題歌ではなくてスコア、いわゆる「劇伴」のほう)。『DUNE』の受賞部門以外では衣裳デザイン賞とメイクアップ&ヘアスタイリング賞もある。アカデミー賞で、これら「技術系」の賞が、軽んじられているのではないか? 下手したら「下の方の賞」とか思っている人、いませんか? 

 断じて違う。

 映画は、「絵」と「音」で出来ている。当たり前のことだが、その「絵」と「音」は、監督と脚本と役者だけが作っているのではない。カメラを回して撮影する人がいないと、映画はそもそも成立しない。そして舞台背景や小道具が、役者たちの着る衣装やヘアメイクが、映画の具体的な「絵」を形作っている。今ではほとんどの商業映画作品が大なり小なり採用している、特殊な視覚効果もまた然りである。

 そして「音」。映画が流している音は役者たちの声だけでない。映画を効果的に演出する様々な音響効果、そして絶対に忘れてはいけない、映画の物語や場面を何倍にも大きくする役割を担う劇伴音楽(念押しで恐縮だが、エンドクレジットで申し訳程度に流れる「主題歌」とやらではないですよ!)。

 もちろん、これらは監督や製作者のディレクションのもとに行われるのだが、それを形にする各分野のプロフェッショナルたちなしには実現し得ない。監督や製作者が思い描く理想や志向を彼らと協働する中でそれぞれに表現し、その活躍の結晶がスクリーンの上に映し出されているのだ。

 そもそも、これらの部門を一括りにして「技術系」と呼ぶこと自体にも疑問を持つべきだ。脚本を書くことだって役者として演技をすることだって、そのクオリティを上げるための「技術」が必要なはず。監督業も然り。オーケストラの指揮者が当然のように各パートの楽器について熟知しなければならないのと同じで、監督を務める人は映画に関わる全ての技術にある程度通じていないと話にならない。映画制作に関わる全ての部門の成果が、等しく各々の「技術」を駆使したことの発揮が、最終的な映画作品に結実するのだ。「技術系」と呼ぶのが便宜的呼称であるのはもちろん承知しているが、そう呼ぶ以上は上記のことの理解が大前提だと思う。

 さらにヒドいことには、今年から、このいわゆる「技術系」部門を中心に8部門を、生放送開始前に受賞結果を発表したと聞く。事実上、授賞式の生中継から「省略」したわけだ。その8部門のうち『DUNE』が受賞した部門数は、なんと5部門。生中継でこの映画の関係者が表彰されたのは、わずか1部門に過ぎないのだ。しかも「省略」された8部門の中には、「絵」と「音」という映画の二大構成要素の片方=「音」の最大の要である「作曲賞」が含まれているのだ! 映画音楽の巨匠たるハンス・ジマーのあの渾身のスコアが、どれだけ『DUNE』の中で大きな役割を果たしているか、観た人には説明の必要もないだろう。

 

Dune

Dune

Amazon

 

 どうやら、アカデミー賞授賞式の視聴率が年々低下していることへの「対策」らしい。だがこれは、単なる授賞式のショー化を加速させたに過ぎない。視聴率の低下は、アカデミー賞そのものの存在意義が揺らいできているため、さらには映画産業そのもの、映画というメディアそのものが問われている構造的な問題のためであって、そんな超小手先の「対策」などなんの意味もなさない。いや、実のところ、華やかなスター達を画面に長く登場させて、視聴者達をそのスター達の「威光」で釘付けにさせるのがテレビ局の本当の狙いだろうから、テレビ局的には視聴率さえ取れればそんなことはどうでもいいのだろう、と意地悪く想像してしまう。やれやれだ。

 だが、これは明らかに受賞部門間のヒエラルキー化・差別化であり、同等であるはずの各賞に序列をつける行為だ。到底容認できない。もちろん心ある多くの映画人たちは、この「対策」に対して、一斉に抗議の意志を表している。

 確かに、私たちは普段映画を観ていて場面ごとの「絵」としての美しさや衣装デザインの見事さ、ある場面に流れる曲の美しさに気を留めて、場合によっては深く心に刻みつけられることはあっても、観ながら「この作品のプロダクション・デザイナーは〇〇なのか。さすがにこの場面のセットは〇〇らしいねえ」とか「衣装デザインは▲▲が手がけているのか。この人らしい細部へのこだわりがよく出ているねえ」などとはなかなか思わない。私だって同様だ(ただ音楽に関しては、私は劇伴の映画音楽がとても好きなので、事前に音楽担当者をチェックして、名前を知っている人なら映画を観ながら「いかにも□□らしい音楽表現だな」と感想を持つことはよくある)。

 普段映画を観ているときは、それでいいと思う。なぜなら本物のプロフェッショナルたちは、誰がやっているかを感じさせないほどにその仕事の成果が映画の中に溶け込んでいるはずだから。それが見事であればあるほど、クオリティが高ければ高いほど。逆に、そこがお粗末だったりすると、かえって悪目立ちして映画全体を損なってしまう。

 だからこそ、年に一度のアカデミー賞という名のお祭りのときぐらいは、そうした「縁の下の力持ち」たちの功労を大いに讃えましょう、というのが、それらいわゆる「技術系」の部門賞創設のそもそもの理由だったのではないだろうか。このときばかりは、普段裏方に徹している彼らも一張羅に身を包んである舞台に臨むのだ。それこそが本当の意味でのアカデミー賞の「意義」でだったのでは、と思うぞ。

 

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 だが結局のところ、『DUNE』は今更アカデミー賞で権威づけてもらうまでもなく(なんと米国社会は「権威」に弱いことか! あ、日本もか)、すでに商業的にも芸術的評価の上でも大成功を収めている。そうなると『DUNE』にとっては、アカデミー賞では「最多受賞部門数」の称号を得ただけで充分、それ以上を求めてはいないのだ。

 そのことは、この映画の大先輩にして、原作レヴェルで言えばそちらの先達ということになる、かの「スター・ウォーズ」の記念すべき第1作、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ/新たなる希望』(当時はシリーズ化前提ではなかったので、単に『スター・ウォーズ』"Star Wars"だけのタイトルだった。この文中は以後こちらの表記で統一)が44年前に経験したことを思い起こさせる。説明するまでもない、さまざまな側面で映画の歴史を塗り替えた金字塔。この映画無くしてハリウッドを始めとするその後の世界の映画の歴史はあり得なかった、あらゆる意味でエポックメイキングな映画。

 

 

 『DUNE』と同じくバリバリのSF映画、つまりジャンル映画ど真ん中であった『スター・ウォーズ』は1978年の第50回米国アカデミー賞で作品賞・脚本賞・監督賞など10部門にノミネートされ、若い世代を中心にこの作品に熱狂した新しい映画ファンの期待を大いに集めた。だが、奇しくも『DUNE』と同じ6部門の受賞でこの年最多だったが、やはりいわゆる「技術系」部門での受賞だった(その中にはもちろん、今や映画音楽界のマエストロ=ジョン・ウィリアムズが受賞した作曲賞も含まれている)。

 この結果を踏まえて、『スター・ウォーズ』とその遺伝子を継ぐ作品たちは、これ以降アカデミー賞の権威に頼らず独自の道を歩むことになる。その44年後の果ては、我々が見ている通りだ。今更アカデミー賞がどうのこうの言うのも詮無いくらいに。結局のところ、賞というものは一つの指標に過ぎないことを示した、というべきだろう。

 

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 それにしても、これを書きながら『DUNE』がいかに「エンタメ映画の極北」かつ、映像と音楽の美の集積としての映画作品の極致だったかを、ひしひしと思い出している。映画館で観た当時は、とてもブログに書く精神的・身体的余裕がなかったので見事に書きそびれてしまった。だが、あれからずいぶん時間が経った今でさえ、賞がどうのと書き散らすより『DUNE』の魅力そのものを書くほうが遥かに有意義だ、とつくづく思うぞ。

 というわけで近い将来、そのことを書く予定です。目の状態がヒドいのでいつになるやら、だけれども(笑)。

(写真は全て2022年4月7日に、東京・代官山にて撮影)