ハマスホイとドライヤー、都市の孤独

 

 下高井戸シネマにて、映画『ゲアトルーズ』"Gertrud"を観た。デンマークの映画監督カール・テオドア・ドライヤーCarl  Theodor  Dreyerによる、1964年公開作品。全編モノクロである。私は寡聞にして全く知らなかったのだが、「カール・テオドア・ドライヤーセレクション」という、この『ゲアトルーズ』を含む4本のドライヤー監督作品を特集上映する企画が昨年末より各地の映画館で巡回しており、それが下高井戸シネマにも回ってきたということらしい。

 

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 私がなんでこんな58年も前のデンマーク映画に興味を持ったかというと、同じデンマーク出身の画家ヴィルヘルム・ハマスホイ(ヴィルヘルム・ハンマースホイ)Vilhelm Hammershøi (Vilhelm Hammershoi)への関心からである。大学生の時にその絵画作品を初めて観て深く感銘を受けて以来35年近く、私はハマスホイ作品に強く魅了され続けている。そのことはこの日記でも度々触れている。比較的最近では2020年1月30日の日記、および2020年2月20日の日記ハマスホイのことを書いたが、ご覧になったことのある方もいらっしゃるかもしれない。

 そのハマスホイの絵画作品をコンパクトに解説した好著、佐藤直樹氏監修『ヴィルヘルム・ハマスホイ 沈黙の絵画』(平凡社コロナ・ブックス)に収められた小松弘氏によるコラムで、ハマスホイとの関連でドライヤー監督の映画が紹介されているのだ。ハマスホイの絵画世界を最もよく受け継いだのは、ドライヤーの映画作品だという考え方があるという。この映画監督のことは、それ以来頭の隅に引っかかっていたのだ。そこへこの企画である。渡りに船とばかりに、ハマスホイの影響が最も色濃く表れているとこの本で言及されている作品『ゲアトルーズ』を観た。ドライヤーの遺作にして集大成の作品でもあるという。

 

 

 本当の自由と愛を探し求めるゲアトルーズの姿を、夫・初恋の人・若い愛人という三人の男性との会話を通して描く、徹底した会話劇。自分の信ずる「愛」を貫くため、彼女は最終的に社会や家庭の因襲や抑圧を脱して、安定も地位も名誉も捨てて孤独に生きることを選ぶ。その心の内面の動きを映し出す、画面のフレームにかっちりと収めた様式美に満ちた映像。

 その映像表現が非常に演劇的であるのが、この作品の大きな特徴だ。映画のほとんどを占める会話場面では、閉ざされた室内空間が舞台。二度だけ、屋外の公園での会話場面があるが、これもごく狭い範囲で演じられるので、室内に準ずるといってもいいだろう。そしてモンタージュ手法やカット割りを極力使わず、長回しが基本。人物は長い椅子などに並んで座り、会話する人全ての顔がこちらに向けられるように配置される。観客は映画なのに芝居の舞台を観ているような錯覚に陥る。閉ざされた室内=閉ざされた舞台。その中で淡々と、あるいはのろのろと述べられる台詞。ゲアトルーズの感じている閉塞感や抑圧感を、観客も同じように体験してもらう、そんな効果を狙っているかのような表現効果だ。

 その演劇的効果を体現する室内空間の表現に、ハマスホイの室内画に特徴的な要素が様々に表れているのは偶然ではないだろう。多くの室内場面の家具や調度品の配置は、まさにハマスホイの室内画に入り込んだような錯覚を感じるほどだ。映画のラストシーンは特に象徴的で、老いたゲアトルーズが扉を閉じて画面から姿を消し、最後に暫し無人の閉ざされた扉が映し出される映像は、まさにハマスホイが扉を描いた無人の室内画からの直接的な引用である。ただ、映画ではこの扉はゲアトルーズの生涯が閉じられることを象徴している(教会の鐘の音がオーヴァーラップすることで、それがより一層強調される)ので、ハマスホイ作品における扉から我々が感じ取る意味合いとはとは少々異なって使われているように思われる。

 いずれにせよ、その「ハマスホイ的」な室内空間の表現は、ゲアトルーズが社会や家庭の抑圧や因襲に感じる閉塞感を観客に伝える作用を果たしているように、私には感じられる。この映画の舞台でありハマスホイが生きた20世紀初頭の都市には、ゲアトルーズたちのような新興の富裕層や中産階級の人々が群れ集い、技術革新の恩恵を受けた新しい「夢のような」暮らしをし始めていた。その一方で彼らは、これまでにない新しい部類の孤独や閉塞感を抱きつつ生きることにもなったのである。

 2020年1月30日の日記で私は、ハマスホイが無国籍でアノニマスな「都市の室内」を描き出したと書いたが、それは同時に、彼が描いた無人の、あるいは画面に背を向けた人物を配した室内画が、そうした都市に生きる人々の孤独や閉塞感をも画面の中に滲み出させたことに他ならない。多くの人が集まって生きている都市の巨大な空間において、他の人と隔絶された孤独を感じ、閉じ込められたような閉塞感を抱えて、それでもなお生きねばならない人々。ハマスホイ作品の底流たるそうした「都市の孤独」は、この映画でドライヤーによって援用されることによって、ゲアトルーズの自由に生きようともがく姿の背景に、彼女の内面の「鏡」となって映し出されているのだ。

 

 

 先述の書などのハマスホイ作品集の解説を読むと、彼の作品は観る人に不気味さや不安感を誘うらしい。私自身は、ハマスホイ作品の背を向ける人々にも誰もいない室内にも静謐と安寧しか感じないので、えっそうなの?と思ってしまった。だから私は彼の作品に心の底から惹かれているのだが、私の嗜好や好みの感覚が異常なのかしらん?

 それでも『ゲアトルーズ』を観て、ゲアトルーズや周囲の人々の抱える不安感や閉塞感、ある種の生きづらさをひしひしと感じるにつけ、なるほどハマスホイ作品でいわれる不安感はこういうことなのかも、と少し納得したのは確かだ。

 

 

 その閉塞感や孤独感は、20世紀初頭の人々のものだけではなく、おそらく私たちが生きる現代社会にも通じるものがある。その意味では、2022年に『ゲアトルーズ』を観ることの意義は大きいのかもしれない。

 

(写真は全て、2022年5月29日に東京・二子玉川周辺にて撮影)

(2022年6月8日投稿)