「倍速視聴」はしないけれども

 

 稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)をこの日、読了。

 サブタイトルは「ファスト映画・ネタバレ--コンテンツ消費の現在形」。非常に話題になっている一冊だ。私も新聞の新刊広告でこの本の存在を知って以来とても他人事とは思えず、すごく気にかかっていた。かつて編集者のはしくれとして夜も昼もない日々を送り、今尚ものづくりの精神を持ち続けているつもりの身としては、この本のテーマはかなり切実に感じる。いざ読み始める際にはかなり「心して」本のページを開き、じっくりと味わい、理解した、つもりだ。

 

 

 20〜30代の若年層を中心に増加しているという、映画やドラマやアニメを早送り再生=この本でいうところの「倍速視聴」や10秒飛ばしで視聴する人々。大いなる違和感と彼らはなぜそうするのかという疑問を、膨大なインタビューやリサーチから、映像メディアの変遷や社会との繋がりから解き明かしてゆく一冊なのだが、読んでいて「これ自分じゃん!」と何度も心の中で叫んだ55歳であった(笑)。私も常に「時間がない」し、「失敗したくない」「無駄は排除したい」気持ちも当然ある。それに、これだけダウナーな世の中なのだから、フィクションくらいは「ハッピーエンドしか見たくない」し、「ツラい場面は見たくない」と切実に思っている。だからよく「ネタバレチェック」もする。好きなものをけなされるとすごく「自分が責められていると感じる」し、「批判に弱い」から「心を乱されたくない」。「共感性羞恥」というのも(用語自体は初耳ながら)とても理解できる。自分に当てはまることのオンパレードだ(笑)。

 それでも。

 それでも、私は映画やドラマを早送り再生で視聴はしていない。

 これからもしない、と思う。

 10秒飛ばしも「話飛ばし」もしない。

 その作品の尺だけ、きっちりと時間を遣って向き合っている。

 (初見では、の話。二度目以降は、観たい場面だけ観るために前後を飛ばすことはあります)

 作り手が膨大な人生の時間を費やして、血と汗と涙の結晶として作り出したものに向き合うとき、それを享受する人は、対価としてその人生の「何」を差し出すのか。あるいは「贄」として「捧げる」のか。最も大切なもの=「時間」ではないのか。だから、あるひとつの2時間の映像作品には、観る人の人生のうちの2時間を贄として「捧げる」べきではないか。それほどの「コスト」をかける覚悟がないと、他者がその人のために用意した「最高の」創作物には、本当の意味では向き合えないのではないか。そう思うのだ。あくまで娯楽のためのものだから、気軽にヒマつぶしでスナックつまみながらテキトーな態度で観るのは全然構わないと思うが、作品の時間分だけ自分の時間も「費やして向き合う」ことだけは、作品とその制作に関わった人々に対する最低限の敬意として必要だと。まあ、あくまで私見ですが。

 

 

 それでも、この本を通じて著者が本当に問いかけたいのは、そんな「倍速視聴」に代表される映像コンテンツの視聴方法の是非ではなくて、これが実は現代社会の深刻な諸問題と深く結びついているのではないか、ということだ。そのことは、この本の終章にはっきりと記されている。倍速視聴は、現代のメディアと文化と社会の根底に横たわる共通の問題=「根っこ」のひとつの表出に過ぎず、その「根っこ」こそを俎上に載せるべきだと。そこを大いに議論させるために、著者は敢えてやや「挑発的」な表現を使いつつも、客観的な視点を崩さず冷静に事象を分析してこの本を書いたようだ。この本はあくまで「議論のとっかかり」に過ぎず、この本をもとに百家争鳴、様々な議論が交わされてその「根っこ」を白日のもとに晒したい、という意図のもとに。

 著者は次のように書いている。

一見してまったく別種の現象に思える現象同士(倍速視聴-説明過多作品の増加-日本経済の停滞−インターネットの発達、等)が、実は同じ根で繋がっている。そのような根を無節操に蔓延(はびこ)らせた土壌とは、一体どのようなものなのか。それが本書で明らかにしたかったことだ。
(本書295〜296ページ)

 「たかが映画やドラマの観方」というなかれ。この世の中は、結局のところ全てがどこかで繋がっているのだ。そのひとつの「たかが」で些細な事象を仔細に精査することで、世の中全てに関わる重大な問題を浮かび上がらせることもできる。この本は、その実践のひとつの記録でもある。

 現代社会を蝕む、その「根っこ」のひとつは、急速な技術進歩の果てに現代人が抱えるようになった「肥大化し無境界化した自己」と「他者の消失」なのではないか。私はこの本を読み終えて、そう強く感じた。

 そしてもうひとつ。この何もかも「思考停止させる社会」だ。なーんも考えず何ひとつ疑問を持たなくても生きられてしまう、というより「生きさせられている」この現代社会。その中で、生きる上でのタスクに追いまくられて押しつぶされそうになって必死にしがみつき、本当の意味で「考える」時間も余裕も奪われて、つまり身の回りの事象に対して「おかしい」と立ち止まって思考することなく、肥大化して「この世界全部が自分」と錯覚するようになった現代人。

 この人々に思考する余裕を与えず、考えさせないように仕向けている、この現代の社会システム。これでいいのか。これがいいのか。そしてこの仕組みは、一体「誰得」なのか。著者が本当に問いたいのはここではないか。私はそう感じたが、いかがであろうか。

 

 

 論の進め方や対象集団のくくり方にやや疑問を感じる点もあるが、それでも現代社会の諸相に違和感や疑問を感じている人には、必読の一冊であるのは間違いない。

 だが、本当にこの本を読むべきなのは、まさに「倍速視聴」をおこなっている当事者たちだと思う。本の内容への賛否や是非はひとまず置いて、これを読むことで自己の行為とその背景を客観視するきっかけを得ることができるはずだからだ。その「自己を客観視する」ことこそが、現代社会の病理の「根っこ」である「肥大化し無境界化した自己」と「他者の消失」を解消する第一歩になる。私はそう信じる。

(2022年7月7日投稿)