大いなる円環

 

 遥かな未来のことだと、ずっと思っていた。

 あの「お願い だれも息をしないで」。

 そこに、ようやくたどり着いた。

 物語の大いなる円環が、今ひとつに繋がった。

 

 末次由紀著『ちはやふる』の最新第49巻を読んだ。周知の通り次の第50巻で完結が予定されており、物語もクライマックスに向けて怒濤の勢いで盛り上がっている。主人公の千早と新が挑む名人・クイーン決定戦の最終試合が進む中、試合に臨む4人と周囲の人々の想いが様々に交錯して次々と浮かび上がっては移り変わり、もうひたすら胸アツの連続。どんな些細なエピソードも、クライマックスの情感をもって語られる。これまで14年以上続いた連載漫画の、積もりに積もった集大成なのだから、何をやっても胸アツなのは当たり前だ。

 それにしても著者・末次由紀さんの、数多くの登場人物それぞれのドラマを組み合わせて一本の流れに仕立てあげる、その物語づくりの巧みさは本当に素晴らしい。『ちはやふる』が類い稀な群像ドラマの傑作になったのも、そのおかげだなあとつくづく思う。

 

 

 私も2009年からずっと(単行本ベースですが)この漫画に伴走してきたので(2009年1月9日の日記参照)、この長編漫画がいよいよ佳境に差し掛かったと思うと、その間の13年以上の歳月がともに思い起こされ様々な想いが溢れて、さすがの私でも胸が一杯になる。

 そんな私がこの第49巻で一番胸アツだったのが(他の多数の方々も同じだと思うが)、単行本の帯にも書かれた「お願い だれも息をしないで」という千早のモノローグだ。

 既読の方はもちろんご存知のように、これは第1巻の冒頭に登場した最初のモノローグ。このクイーン決定戦の一幕を「やがて来たるべき、遥かな未来」として冒頭に提示してから6年前に戻り、小学6年生の千早や新たちとともに物語が開幕するのだ。つまり連載開始から14年目の49巻目にしてようやく、この「やがて来たるべき、遥かな未来」に物語の「現在」が追いついたのだ。

 そしてさらに胸アツなことに、千早がいつも戻る場所=常に立ち帰る原点かつ拠り所に、前巻にも「登場」した小学生時代(第1〜2巻)の千早が登場し、小学生の千早と「現在」の千早とがしっかりと抱きしめ合う。新もまた、小学生の自己と向き合う。「やっと 迎えにきたよ」と。そして千早と新は、万感をこめて「ちはやぶる」の札を取るのだ。

 あの、全体のプロローグともいうべき、宝物のように尊い小学生篇。二度と手が届かない、永遠に越えられない「黄金時代」として描かれ、その後の苦闘に満ちた本篇=高校生篇を通奏低音のように支えてきた物語の原点。ここでそれが「現在」とひとつになったのだ。ここに大いなる円環が繋がったのだ。この物語に初期から伴走してきた身として、この大いなる邂逅に感動しないわけがあろうか。この場面は、この物語全体の最大のクライマックスといってもいい。

 この「遥かな未来」に辿り着いて、あの遥かな光景が今目の前に「現実」の光景として存在している、という感覚。なんという長い時間、なんというさいはての、この世ならぬ高みの光景。それを今見ているという実感。これこそが、長大な物語をともに伴走してきた末の、大いなる喜びのひとつではないか。あたかも苦難の山道を一歩一歩踏みしめて登り、その積み重ねの果てにやがて到達した山頂での、雲海に囲まれた天上の如き風景を目にした瞬間の喜びと高揚感のように。

 

 

 確かに、この物語は文字通りの「大団円」を迎えたのだ。今や円はひとつに繋がり、物語としての役割を果たした。さいはてに辿り着いた高揚感を今、この瞬間に確かに感じている。やがてこの身が滅んで、「雨の中の涙」のように埋もれて消え去ってゆくとしても、この高揚感が訪れた時は確かに存在した。いや、存在している。その確信とともに。

 まだあと一冊残ってはいるが、大いなる円環が繋がったあとでは、もう全ては盤石でしょう。「終わり良ければすべて良し」。最終巻にはきっと、清々しいエピローグが待っていることだろう。稀代の物語を語り上げて、私たちに届け続けてくれた末次由紀さんに、少し早いが「おつかれさま」を申し上げたい。

 

 

(2枚目と3枚目の写真は、2022年7月7日に北の丸公園にて撮影)

(2022年7月15日投稿)