網膜剥離と七回忌

 

 近況報告、もしくは生存報告といいますか。

 昨年後半もいろいろ不調があったのですが。

 年が明けてまもないうちに、それらを吹っ飛ばしてしまう大変な事態が。

 私の右目に深刻な網膜剥離が見つかりました。

 直ちに緊急入院、緊急手術。

 そのおかげで、危ういところで右目の失明を免れました。

 56歳にして初めての入院に、初めての手術(しかも局部麻酔の)。初点滴に初車椅子。

 すごい体験だった。一度死んで生まれ変わったような心地がしました(大げさ)。機会を改めてこのことを書ければなあと思います。

 本日でちょうど術後一か月が経ちました。手術の際に右目の眼窩内に充填したガスは3週目でほぼ抜けて、右目の視界はようやく開けたところ。ただまだまだ全てが歪んで見えてしまい、視力も安定していないので右目は使い物にならず。ほぼ片目生活がまだ続いております。

 といっても右目をつぶり続けるわけにもいかないので、結局両目で見てしまう。それゆえに何もかもが変な見え方で、違和感抱えまくりの日々。特に、物を取り上げたり作業をしたりするときに、うまく距離感がつかめずに困ることが多い。この文章も病前はなかったキーの打ち間違いを量産しつつ書いております。いやあ、いかに二つの目が揃って見ることが、我々が物を立体的に捉えるのに大きな役割を果たしていることか。ひしひしと実感しております。

 手術自体は上手くいって術後の経過も順調なのですが、網膜剥離が右目の真ん中付近のヤバい範囲にまで及んでいたので、視界の歪みは一生残るかもしれないそうです。半年くらい経過を見ないと分からないそうですが。

 

 

 そして、今日は私の亡き父の命日。あれから6年経ちました。「七回忌」です。

 先日気づいたのですが、今年は6年前のあの年と同じ曜日の並び。曜日もひと回りしました。

 私の父が亡くなったのは胆管がんだったのですが、胆管を含む胆道のがんは非常に見つかりにくく、すい臓がんに次いで亡くなる方の割合が高いがんだそうです。

 寡聞にして昨日の新聞の広告で初めて知ったのですが、2月は「胆道がん啓発月間」だそうです。

oncolo.jp

www.az-oncology.jp

medg.jp

 

 「世界胆管がんデー」が父の命日の前日という奇遇も、何かのご縁でしょうか。この難治性がんのことに、もっと多くの人々が関心を寄せてくれればと願います。

 手遅れの涙を流す人が、ひとりでも少なくなればと。

(冒頭の写真は2024年1月5日撮影)

大根おろしは「ぶんぶんチョッパー」で作る

 

 以前の日記に、今年の夏は突然大のみょうが好きになったと書いた(2023年8月9日の日記参照)。

 今年の夏の酷暑をどうにか乗り切ることができたのも、ひとえにみょうがのおかげです。みょうがLOVE。

 そのときの日記にも書いたが、今年の夏に我が家でみょうがが活躍した料理は、肉や厚揚げなど、様々な焼きものの上にのせる「香味おろし」だ。

 この香味おろし、みょうがと紫蘇はもちろん欠かせないが、それ以上に主役を張っているのは勿論大根である。

 一般的にいって大根は冬の野菜。夏は店頭で値段が張ることもあって、あまり出番がないイメージだ。だが、今年の夏は大根がけっこう安かった。かなり大ぶりの大根まるまる一本が98円、なんていう冬でもあまり見かけない安値で売っていることもあった(もちろん買いました)。今年の夏の猛烈な暑さで野菜がよく育った、いや育ちすぎたのだろうか。そうであれば、この酷暑もひとつくらいはいいことがあったということになるか。ただ、安かったのは7月〜8月までで、今はとても高い。野菜全般がすごく高い。さっさと終わってほしい酷暑のほうはしつこく続いているというのに、だ。やれやれ。

 話がやや逸れたが、そんな安さのおかげもあって、今年はみょうがとともに、大根もまた我が家の夏の食卓の主役であった。香味おろしに使うので、当然ながら大根おろしにしていただくことになる。

 この大根おろしだが、今年の夏の我が家では、もっぱら「ぶんぶんチョッパー」を使って作っている。これがとても便利、簡単かつあっという間に出来上がるのだ。

 

 

 ご存知の方も多いと思うが、「ぶんぶんチョッパー」は手軽かつ簡単にみじん切りを作ることができる優れものアイテム。私がここ数年来頻繁にスパイスカレーを作っていることは以前の日記に書いたが(2021年8月28日の日記など参照)、そもそも私がスパイスカレーを作り始めることができたのも、この「ぶんぶんチョッパー」の存在があったからだ。カレー作りに不可欠な玉葱・ニンニク・生姜を放り込んでレバーを20回ほど引っ張ると、あっという間にみじん切りを作ってくれる。それも包丁ではよほどの熟練者でないと作れないような、かなり細かいみじん切りを。ハンバーグなどに使う粗めのみじん切りなら、5、6回もレバーを引っ張れば十分だ。

 元々は私がスパイスカレーを作り始めるに際して購入したのだが、あまりの簡便さに私の妻もみじん切りにこれを使うようになって、夫婦ともども愛用している。以来我が家のみじん切りは、ごく少量の場合を除きほぼ全て「ぶんぶんチョッパー」一本鎗だ。

 そこから、もしかしたら大根おろしも「ぶんぶんチョッパー」で作れるのでは、と気づくまでにはさほど時間がかからなかった。そして実際に大根を投入して試したら、なんとも簡単に大根おろしが出来上がったのである。レバーを30回も引っ張れば、十分におろし状態。40回くらいでほぼ完璧な大根おろし。おろし金を使うより早い気がする。実のところ、我が家にはおろし金がないので、実際に比べたわけでないのだが。そしておろし金を使う際のあのお決まりの不都合=おろし切れず最後に小さく残った大根、を無駄にすることがない。最後まできっちり使い切れる。指先をおろし金で擦って傷をこしらえることも、勿論ない。

 「ぶんぶんチョッパー」で作った大根おろしを実際に食べてみると、ごく小さな粒々感が舌先に残る。これが気になる人はいるかもしれないが、私たち夫婦は全然構わないし、むしろこの粒々の食感が心地よい。粒々が残ることで、水分を出し切らずある程度閉じ込めた大根おろしになるわけで、きちんとキープされた大根の水分を摂れる。大根おろし全体の瑞々しさがより保たれるので、この方が好みなくらいだ。好みは個人差なので、どうしてもふわふわの大根おろしでないと我慢ならない人には、あまり向かない作り方ではあるが(笑)。

 何はともあれ、今年の夏は「ぶんぶんチョッパー」で作った大根おろしが、幾度となく我が家の食卓を彩ったのであった。勿論、大根おろしの活躍はむしろ秋冬こそが本番。これからの季節もまた、楽しい食卓が続く。

 

(写真は2023年7月27日と28日に自宅にて撮影)

 

にんにくと生姜は最高のコンビ

 

 この日の夕食の主菜に私の妻が作った料理は、豚肉とゴーヤの味噌炒め(上の写真)。

 元は高山なおみさんの『野菜だより』掲載のレシピだ。

 


 南西諸島などで多く栽培されている苦瓜ことゴーヤは、もちろん夏に多く出回る野菜だが、我が家でもお馴染みのゴーヤチャンプルー以外ではなかなかお目にかからない気がする。それ以外でゴーヤを使った料理を、と妻が上記の本で目をつけたのがこの料理。以来、我が家の夏の定番料理のひとつになっている。

 私が思うに、この料理の美味しさのキモは、なんといっても味付けの段階で味噌と混ぜ合わせる二つの香味野菜、おろしにんにくとおろし生姜の組み合わせだ。にんにくの甘みのこもった味と深みのある香りに、生姜のピリッと爽やかな辛みと風味が合わさると、本当にえもいわれぬ奥行きの深い味わいと香りが醸し出される。

 実に、にんにくと生姜というのは、料理においてこれ以上ないくらい息の合ったコンビネーションだと、つくづく思う。私がここ数年よく作るスパイスカレーでも(2021年8月28日の日記参照)、基本の炒めの過程で玉葱ににんにくと生姜が加わることで、あのカレーらしい味わいの基礎作りの役目を果たしている。だからどのスパイスを使うかと問う以前に、そもそもこの二つの香味野菜を絶対に欠かすことはできない。麻婆豆腐にしてもそうだ。にんにくと生姜が味の下支えの決め手になっているといっても過言でない。

 ひとつひとつは何気ない日常の香味野菜が、二つ合わさることで倍以上の力を発揮する。こういうところに、料理を作る面白さの妙がひそんでいるのかもしれない。

(2023年9月23日投稿)

17年ぶりの分厚い驚き

 

 いやあ、正直な話、本当に出るとはもう思っていなかったので、すごくびっくりしました。

 何がって、京極夏彦著『鵼の碑』。

 氏の「百鬼夜行」シリーズの、17年ぶりの本編、長編小説。

 数日前、9月14日の木曜日。書店に入った私の目の前で、平台に山積みになっている最新刊を見て(すごく分厚いので、数冊だけでも「山」になってしまうのがスゴイところ)、驚きのあまり「うわあ本当に出たんだ……」と思わず呟いてしまった私。

 最近とみに世の中の情報に疎くなっている私は、事前情報や前知識が一切ないままいきなり現物と対面したので、ここ数年来味わったことのない「嬉しい驚き」を久しぶりに体験したのでした(笑)。

 

 

 実のところ私は、前作『邪魅の雫』を読了した時、つまり17年前に「次はもう出ないかも」という妙な予感(?)が浮かんだのだ。だから例によってカバーの袖に次巻予告として『鵼の碑』が記されている*1のを見ても、なんとなく「これを読むことはないかもしれない」という思いを抱いた記憶がある。なぜそう思ったかはっきりと言葉にすることはできない。『邪魅の雫』を読んでいく途中において、物語の質とは別の意味での違和感というか、このシリーズとしては不自然に思えるものを行間から嗅ぎ取ったから、としかいいようがない。

 そして実際に、短編集やスピンアウトが出ることはあったが、肝心のシリーズ本編たる長編作品が発表されることはないまま17年が経過したのである。その間、著者の京極夏彦さんはこのシリーズ以外では精力的に様々な作品を執筆・発表なさっている。それゆえ単にこのシリーズに行き詰まりを感じた、もしくはこのシリーズへの興味もしくは仕事上の関心が薄れたのかもしれないと思い、諦めに似た気持ちになっていたのは確かだ。『鵼の碑』は予告のみなされて語られずに終わった、「幻の作品」になるのだろうと。別に珍しいことではない。文学史・文芸史を繙けば、著名作家の「幻の作品」はゴロゴロしている。人の想うこと目指すことは、実に様々なところで、そして様々な形で、果たされずに終わることがあるのだ。

 だからそれを思うと、現にその本が書店の店頭に並んでいるのを目の当たりにして、ある種の奇跡が起こったとさえ感じたのは、決して大げさなことではない。著者のインタビューを読む限りでは、この17年間の「空白」は決してそのような「奇跡的」な経緯ではないようだが、それはあくまで著者の舞台裏であって、ひとりの受け手=読者たる私の個人としての思いは、そんなところにあったのだ。

 

ddnavi.com

 

 何はともあれ、嬉しい驚きとともに、その場で『鵼の碑』を購入。たまたまこの日(2023年9月14日)が発売日だったらしい。なんの目的もなしに書店に入ったので全くの偶然だったが、結果的に発売日に即買いできたわけで、これまた「嬉しい偶然」だった。同時刊行でハードカバーの単行本(重さ1.2kgとか)も出ていたが、これまでシリーズ全巻を講談社ノベルスの新書版で揃えていたので、迷わず新書版の方を選んだ。

 

 

 総ページ数は800超。さすがの分厚さ、さすがのボリューム感。この分厚さを見ているだけでワクワクする。巷では「鈍器」だの「煉瓦」だのといわれているようだが。全ページにおいて改行がページを跨がないように、本文の組版まで著者が手がけており、細部への徹底したこだわりぶりは健在のようだ。目次を見るだけでかなり複雑な構造の小説であることを窺わせる。実に嬉しい限りだ。さすがはグラフィックデザイナー出身の著者である。

 さっそく読み始めるとしよう。ちょうど一冊本を読了したばかりのタイミングだし。実をいうと、このあと3冊ほど読む本の順番が決まっていた。だが京極さんの「百鬼夜行」シリーズの本編最新刊とくれば、これは「割り込み」させる以外にあり得ない。

 

 

 さあて800ページ超の大作、読むのにどれくらいかかるか。前作『邪魅の雫』の時は、遅読で有名な私でもページをめくる手が止まらず、後半400ページを一日で走り抜けてしまった(2006年9月26日の日記および2006年10月15日の日記参照)。だが、それから17年経っており、私もいくらか歳をとったのは確かだ。あの頃よりは一冊の本を読了するペースが落ちているのは間違いなく、体力的にも集中力的にも多少の衰えを感じざるを得ない。特に目の力の衰えが著しい。いわゆる「視力」ではなく(そちらも生来とても弱いのは事実だが)、目を使うのに必要な力のことである。この数年、散々この日記で愚痴っている「目のゴリゴリ」のことだ。それでも、紙の本を読む分には、目の余計な力を込めすぎず疲れにくいので、まだマシなのだが。画面を(特にほどよく小さいのを)見るのがすごくダメなんです。

 それはともかく、この『鵼の碑』を買って気づいた最大の驚きは、なんといっても本の帯に「次作予定」(!)が記されていたことだ(下の写真)。

 

 

 『幽谷響の家』(やまびこのいえ)。

 ということは、京極さんは本気(マジ)なのだ。この『鵼の碑』が、ついうっかり前作のカバー袖に次作予定で載せてしまったので、この一冊だけを「ケリをつける」ために書いたワケではないってことだ。これからも本腰を入れて「百鬼夜行」シリーズを続けていくぞ、という著者の並々ならぬ決意を、この予告からひしひしと感じる。ただ、前巻までのようにカバー袖、つまり書物の本体ではなく、あくまで本の「宣伝物」=付属物である帯で予告しているというのが、後から撤回できそうなニュアンスを含んでいるように感じるけど(笑)。

 長らく愛読してきたシリーズなので、何より続いてくれるのは嬉しいものだが、さて読後にてその想いは変わらず持ち続けられるだろうか。どうであろうか。

 何はともあれまずは、初めの1ページ目をめくるのみ。

 千里の道もはじめの一歩から、だ。

 

osawa-office.co.jp

*1:翌日追記訂正:『邪魅の雫』のみ、予告掲載はカバー袖でなく本文末尾のシリーズ宣伝ページ内でした。記憶違い失礼しました。

「自然」と「文明」とのせめぎ合い

 

 妙にしつこくて申し訳ないが、映画『イニシェリン島の精霊』"The Banshees of Inisherin"について、あと少しだけ書いておこうと思う。

 なお、この作品に関して、先行して9月5日の日記9月6日の日記を書きました。ここからご覧になった方は、上記2つの日記を先にお読みいただけると幸いです。また9月6日の日記とこの日記には、映画の結末に触れている箇所があります。未見の方はご注意ください。

 

 

 この映画での主人公二人、パードリックとコルムの対立には、人間社会の中での「文明と自然のせめぎ合い」のようなものも投影されていると思う。人類という、元は大自然の中より出でてきた生き物の一種なのに、これだけの文明社会を築き上げてしまった存在。だから、全ての人間の人生には、その拠ってきたるところである「自然」と、既にその所属であること久しい「文明」(もしくは「文化」)の間のせめぎ合いが常に作用している。今さら私が説明するまでもなく、多くの人が話題にしていることではあるが。例えば生物学者福岡伸一さんは、「ロゴス」と「ピュシス」という言葉を用いてそのことに言及なさっている。

 『イニシェリン島の精霊』で語られている寓話性が高い物語の中に、そのせめぎ合いが織り込まれているように思う。最果ての孤島の大自然の中で描かれる、それまで親友であった二人の「ちっぽけ」な対立の物語。その背後には、自然と文明の間での果てしない押し返しが、通奏低音のように響き続けているのだ。

 コリン・ファレル氏が演じる主人公パードリックは、この島の大部分の住民と同じく貧しい農民だ。農民は自然と向き合って暮らし、働き、収穫を得ている。人間の中では最も自然に近く暮らす人々、より自然に近い存在だ。人によっては「原初的」な人間と言い換えるだろう(正直、私自身はこの文脈で使うのを躊躇する言葉だが)。中世ヨーロッパの農民は、いや場所によっては近世(それどころか現代)でも、人間と家畜が同じ家の中で寝起きするのは当たり前だった。パードリックが可愛がるミニロバのジェニーは家畜というよりは愛玩動物的な存在だが、彼はジェニーや家畜を当たり前のように家の中に入れては、一緒に暮らす妹のシボーンに嫌がられている。彼のこの家畜を家の中に入れる行為は、彼の「自然」との距離の近さを直接的に表している。

 一方でブレンダン・グリーソン氏演ずるコルムは音楽家であり、この島の中では数少ない「文化=文明」の代表として描かれている。彼が孤島の雄大な風景の中でフィドルを弾く姿は、大自然に押し包まれながらも人間文明を守る小さなともしびを灯す姿であるかのように映る。コルムの家の中は壁に絵画が飾られ、世界各地から集められた仮面があちこちにぶら下がっており、家主の幅広い文化的関心を物語る。ともすれば家畜で犇くパードリックの家とは対照的だ。そしてもちろん、コルムの職業であり主たる関心=音楽。演じるグリーソン氏は実際にフィドルの名手だそうで、その手腕は映画の中で遺憾無く発揮されている。彼の服装も他の島人よりはやや「文明的」だ。「進歩的」と呼ぶ人もいるかもしれない(これまた私自身は使いたくない言葉であるのだが)。

 大地に這いつくばって生きるのに精一杯で食べる手段が全ての「農民=自然=原初」と、より文化的である種クリエイティヴな「文化民=文化・文明=進歩」との対比、そのせめぎ合いと断絶。もともとその立場の違いを超えて気のおけない親友だった二人が、ある時にその違いが明らかになって先鋭化する。その過程が、この物語の中に込められているように思われるのだ。

 実はこの島にはコルムの他にもう一人、彼よりさらに「文化的」な人物がいる。ケリー・コンドン氏Kerry Condonが演じる、パードリックの妹シボーンだ。彼女の知性と教養の高さは、彼女が本を読んでいる場面がとても多いことからも直感的に窺われる。それと、兄が家の中にロバや家畜を入れることをひどく嫌うことも、彼女が「文明」の側に属していることを指し示している。それでも兄思いのシボーンは島にとどまって兄と暮らしている。だがもちろん彼女の「文明」性は本人が最もよく認識していて、本心はアイルランド本土に渡ってより「文化的な」仕事をしたいと熱望しており、実際に映画の終盤で島を出ることになる。この、物語の中で最も「先進的」な存在が女性として設定されているのは、もちろん偶然ではあるまい。ここにも映画の作者たるマーティン・マクドナー氏のある「意図」が込められているような気がする。

 「原初的」な農民ばかりで閉鎖的な孤島の中で、シボーンとコルムだけが「文化」を理解している。コルムにもそれが分かっており、彼女の言葉には冷静に耳を傾ける態度を見せる。「自然」と「文明」の橋渡し。彼女の存在がコルムとパードリックの間の「かすがい」の役を果たしているわけだが、彼女が島を去ることで二人の関係は破滅的事態に向かうことになる。

 

 

 全く話が変わるが、この映画は「ブラック・コメディ」という種類の映画だそうだ。寡聞にして初めて聞く言葉だ。どうも頭の固い私は、この物語に「コメディ」という言葉を当てはめることに躊躇を感じてしまう。といって主人公二人がカタストロフィの末に死ぬわけでもないので(むしろ一歩引いてみれば、物語そのものがいい大人同士の他愛もない喧嘩に過ぎない)、悲劇とも違うのかな。まあジャンル分け自体がそもそも無意味なことだと思っている私なので、どうでもいいといえばどうでもいいけれども。9月6日の日記で記したように、抽象的寓意を物語全体に滲むイヤ〜な雰囲気とともに描き出すことを目指した作品だということを踏まえておけば、ジャンル分けなどどうでもよろしい、と私は思う。

 それにしても、散々二度と観ないとかいっておきながら、映画の舞台や背景に論考まで収録した秀逸なパンフレットまで買って、これだけああだこうだと論考したのだから、ある意味「元は取った」というべきか。

 というか、益田ミリさんが「好きじゃない映画でも、好きなところがひとつもない映画はない」(朝日新聞2023年6月3日朝刊コラム「オトナになった女子たちへ」より)と仰っているのが、本当にその通りだと深く共感する。まさに至言。

 

(これ以外の写真は、2014年7月にアイルランド西部沖合のイニシュモア島にて撮影)

(前回日記の翌日くらいに大部分を書いたのですが、例によって目のゴリゴリに悩まされてしまい……。ネット上に上げるのが遅くなってしまいました)

 

「寓話を物語る」ということ

 

 昨日の日記に続き、マーティン・マクドナー氏の脚本・監督による映画『イニシェリン島の精霊』"The Banshees of Inisherin"について書く。本日の文章は結末などのネタバレに触れておりますので、映画を未見の方はご注意ください。

 

 

 様々な捉え方が可能な作品だと思うが、私はある種の「寓話」である、と思った。単に寓意性の高い物語というだけでなく、寓話=ある抽象的な意味や教訓を寓意で表現するのを最大の目的として創作された物語。よく物語の中で、止むを得ず悪いことに手を染めようとする人物の内面の葛藤として、その人の良心を表す天使と悪い心を表す悪魔とが争う場面が出てくるが、あれが抽象概念の擬人化という寓意表現の分かりやすい一例だと思う。この映画はそのような単純な寓意の表象ではないが、物語中の登場人物や事件などすべての事象は、ある抽象的(教訓的?)寓意を物語の形で提示するために作られているように思われるのだ。登場人物はそれぞれある種の人間の典型をベースに創造されているし、物語はどう転んでも作家が意図する方向(ここでは主人公二人の仲違いがエスカレートしてゆくこと)へ向かってゆくように展開する。そのためには、現実世界での人間や出来事だったらあり得ないようなことも起き得る(例えば、草食動物であるはずのロバが人間の指を食べたり、とか)。それを「現実と違うじゃん」と問い詰めるのは、もちろん間違っている。これは寓話なのだから。

 映画の時代を今から100年ほど前の1923年にしたのも、物語が寓話として機能する上で絶妙な設定だと思う。ひとつは、この時代はアイルランド内戦の真っ最中で、まさにこの物語の寓意を向ける先である「戦争」が目の前で起こっている状況だったこと。もうひとつは、100年ほど遡れば現在とほどよい距離が生まれて、物語がある種の「説話」的要素を強めるので、寓話として描きやすくなることだ。あまりに現在に近い時代設定だと、配慮すべき要素が過多になりリアリティのハードルが上がりすぎて、物語が寓話として機能しにくくなる恐れがある。

 ただ、マクドナー氏は主要な登場人物を、単なる寓話的典型を超えてとびっきり人間味ある存在として描き出している。それはインタビューの中でマクドナー氏ご本人も言及しているように、主人公二人をそれぞれコリン・ファレル氏とブレンダン・グリーソン氏に当て書きしていることが大きい。さらに映画の中でその二人の名優が実際に演ずることによって、さらに人間臭い存在へと息を吹き込まれているのだ。だから私たちがスクリーンに目撃する彼ら登場人物たちは、本当に存在してもおかしくないリアルな人物として私たちの眼に映ることになり、その「リアルさ」が逆に寓話としての説話めいたストーリーとのギャップを広げる。そしてそれ故に観客たる私たちは、物語のゆくえにおののくことになる。

 実際、この「人間的肉付け」のリアルさといったらない。まさにマクドナー氏の手腕というべきなのだろう。グリーソン氏演ずる音楽家のコルムが、ファレル氏演じる長年の親友パードリックに絶縁を宣言するその理由が「これからは作曲と思索に人生を使いたいので、お前のつまらない無駄話に時間を取られたくない」というもの。これって、私などにはすごく身につまされる思いがする。自分もだらだらと人生の大切な時間の無駄遣いをしていないだろうか?と。もちろん、自分の時間の使い方がまるで上手くないのは重々承知ではあるが、それはともかく残された時間の長さを数えるような年齢になればなるほど、この命題はより一層に切実に響くのではないか。それに対して、パードリックの気のおけない人々と過ごす時間を大事にしたい心情や、己が本当につまらない人間なのかと徐々に不安に陥るさまも、すごく心に染みてよく分かる心地だ。

 マクドナー氏は、コロナ禍を契機として「世界中の人々が感じていること」で、「観客がコルムとパードリックのどちらに共感するのかには、とても興味が」あるという。私から見ると、全ての人の中に(程度の差はそれぞれあれど)二つの心情が共存しているように思われる。

 

 

 で、この物語が描こうとする「寓意」とは何か。それは島の対岸の「本土」で起きているアイルランド内戦とこの物語が照応していることからも明らかなように、「いかに人と人は分かり合えないか」だ。「人は他者を本当に理解しているのか」と言い換えてもいい。どんなに深い友情の二人であっても、互いの全てを知るわけではないし、お互いの心の裡を全て理解しあっているわけでもない。実際には、些細なところで互いにすれ違ったり、ふとしたことで相手の心に「跡」を刻みつけることも多い。その些細なすれ違いや押し殺した互いへの不信・不満が長い年月の中で積み上がり、積み上がった果てにそれが露呈した時には、もう戻れないところまで来てしまっている。修復しようという努力が無駄なあがきになって、事態をさらに悪化させる。それは「戦争」という不条理を寓意的に表象してもいる。二人の不毛な争いは、「戦争はこうやって起きる」ことのメタファーなのだ。

 そしてさらに重要なのは、マクドナー氏が提示した結末が「それでもなお、人と人は繋がり合える」と説いていることだ。完全に理解し合えなくても、対話によってお互いを繋ぎ続けようと努めることができる、その努めるさまを互いに認め合うこともできる、と。なぜなら「それでも人生は続く」のだから。二人はこれからも、同じ世界の中で顔をつきあわせて生きてゆくのだから。

 だからパードリックに口を聞かないと誓うコルムは、彼への深い友情そのものは抱き続けていて、苦境に立ったパードリックを助けることになる。そしてパードリックが可愛がっていたミニロバのジェニーが自分のせいで死んでしまった際には、彼に深い喪失の悲しみを味わわせてしまったことを深く後悔する。そのためパードリックがコルムの家に火をつけた時は、コルムは彼への償いのために家の中に留まるのだ。もちろん、そのまま焼け死んではパードリックをさらに深い悲嘆に落とすことになるので、家が焼け落ちる前にコルムは脱出するのだが。

 そしてラストの場面、二人の海辺での横並びで互いを見ない対話の場面では、愛犬を預かってくれたことに礼を言うコルムに、パードリックは"Anytime."(いつでもどうぞ)と返す。これは彼の「いつまでもお前の友達でいるぞ」宣言であり、友情の「再確認」である。そしてこれが映画の最後の台詞になる。口をきかなくても争いに発展しても、以前と全く同じ形でなくても、それでもなお消すことができない友情があること。これがこの映画のラストにマクドナー氏が託した「希望」である。まさかここで「この結末で、これまでのアレコレは一体何だったのか?」とか問うトンチンカンはいないよね? この物語の道筋があったからこそ、友情のある部分が損なわれずに残ったことが活きるのだから。

 

 

 互いの最も大切なものを犠牲にしてまで争った二人が、かけがえのないものを失って初めて「我に帰る」。喪失を受け入れた上での、より深い相互理解と歩み寄り。そして残った友情のかけらという「希望」。これこそが、この物語のメタファーが向けられている「戦争」をも終わらせることができるかもしれない、とマクドナー氏は説いているように思うのだ。

 ラストの場面において二人の背後で炎上するコルムの家は、これまでの二人のすれ違いや諍いのゴタゴタを浄化する「みそぎの炎」のようにも見え、浜辺に並んで佇む二人の表情は憑き物(ある種の「精霊」のようなものか)が落ちて呆然と、あるいはせいせいした表情になっていた気がする。そして二人は、昨日までとは少し違う形ではあるが、日常に立ち返って「人生」を続けてゆくのだろう。

 

www.20thcenturystudios.jp

 

(写真は全て、2014年7月にアイルランド西部およびイニシュモア島にて撮影)

 

最果ての島の物語

 

 2か月以上前のことだが、我が家からほど近いお馴染みの下高井戸シネマにて、映画『イニシェリン島の精霊』"The Banshees of Inisherin"を観た。脚本・監督はマーティン・マクドナー氏Martin McDonagh。

 

 

 アイルランドの、とりわけアラン諸島を連想させる風景と、アイリッシュ・トラッド音楽がふんだんに出てくる映画なのでものすごく興味をそそられていたが、肝心の物語の内容がもしかしたら自分の好きではないタイプの話かも……というイヤな予感があって二の足を踏んでいたが、機会があったので観てみた。

 が……。

 予感が的中、というべきか。観ている最中はとてもイヤ〜な気持ちにさせられる映画であった(それが製作者の狙いか)。どうやってもカタストロフィに向かっていくようにしか見えない物語の行方は精神的に甚だ宜しくないし(一緒に観た妻は「ホラーものみたいな感じだった」と言っていた)、人間のイヤな面をこれでもかと見せられて正直気持ちのいい作品ではなかったな〜。コリン・ファレル氏Colin Farrellとブレンダン・グリーソン氏Brendan Gleesonという二枚看板を始めとする、アイルランド出身のトップレヴェルの出演者たちの演技力がとんでもなく高いだけに、それが余計に増幅されて(汗)。二度は見たくないおぞましい場面に、哀れを誘われて胸が締め付けられる場面も。ラストがまだ救いがあったので私の最大重視ポイント=後味がまあまあ悪くなかったが、もう一度観たいかどうかは正直、微妙だ。

 物語を彩る映像は素晴らしく、それだけでも観る価値があるのは確かだ。全編にわたって、アイルランドの最果ての孤島に広がる素晴らしい風景が満ち満ちている。水平線に沈む夕陽。荒涼たる浜辺にポツンと佇む一軒家。心動かされる風景の数々。そして、パブでのセッションをはじめ随所に挟まれるアイリッシュ・トラッド音楽。それらは本当に素晴らしい。

 そして、ファレル氏演じる主人公パードリックがかわいがるペットのミニロバ・ジェニーがとてもかわいい。登場するたびに、その愛らしい動きに思わず目尻が下がる(それだからもう、もうアレはヒドすぎる……涙)。アイルランドでは、ロバはその昔から庶民の間でとてもポピュラーな家畜だったそうで、今でも家畜や愛玩動物として人々に親しまれているという。現に私たちがアイルランドを旅した時にも、地方の田園地帯では小さなロバ=ミニロバが牛や羊などとともに放し飼いされているのをよく見かけた(最後の写真)。

 物語の舞台になるイニシュリン島は架空の島だが、その名前から容易に連想されるイニシュモア島Inishmoreに代表される、アイルランド西部沖合のアラン諸島が念頭に置かれているようだ。実際に映画の主たるロケ地のひとつがイニシュモア島であり、この島の代表的な古代遺跡「ドゥン・エンガス」Dun Aengus(Dún Aonghasa、下の写真)も映画のある場面で背景として登場している。

 

 

 私たち夫婦が一度だけアイルランドを旅行したのは2014年のこと(もう9年前か〜。つい数年前だと思い込んでいたのに)。その時は首都ダブリンに数日滞在してから西部に行き、アイリッシュ・トラッド音楽を夜な夜な演奏するパブが点在することで有名な村ドゥーランDoolinに3泊した。この村から景勝地モハーの断崖The Cliffs of Moherへトレッキングに参加したり、港からフェリーに乗って当のイニシュモア島へも日帰りで訪れた。まさに、この映画の風景の只中を訪れたわけだ。これを観たことで、映画そのものは二度は観ないかもしれないが、もう一度実際のアイルランドへ、特にこの映画の舞台になった西部地方やアラン諸島へ旅行したくなったのはいうまでもない。旅への憧憬。

 そして、帰宅してから数日間、家にあるアイリッシュ・トラッド音楽や、エンヤなどアイルランド人アーティストのCDを片っ端から聴き返したのも当然の行為だ。もちろん黒ビールを飲みたくなったし。

 そして更に、二度と観ないかもといっておきながら、この映画について深掘りしたくなってパンフレットまで購入してしまった。しかも観た翌日に、わざわざもう一度映画館に行って。それほどまでに、気になるところの多い作品でもあり、いろいろと論じたくなる作品であるのは間違いない。

 というわけでもう少し書きたいのだが、どうしても結末などのネタバレを含んでしまうので、続きは稿を改めてということで。次回の日記にて書くことにいたします。

 

www.20thcenturystudios.jp

 

(写真は全て、2014年7月にアイルランド西部およびイニシュモア島にて撮影。ミニロバかわいいな〜)