世田谷代田も「自分ちの庭」ですが、何か?

小田急線・世田谷代田駅前から富士山を望む。2022年11月10日撮影)

 

 ふとしたきっかけから、現在フジテレビ系列で木曜日夜10時から放送中の連続テレビドラマ「silent」(サイレント)の、11月5日放送の第5話を観た。

 第5話を観たのは、このドラマの存在を知り観てみようと思った時点で最も早い放送分だったから。この回だけ観たかった特別な理由があったわけではない。

 

www.fujitv.co.jp

 

 NHK大河ドラマ以外の連続テレビドラマ(特に民放の)をもうここ何年も観ていない私が、急に一体どうした風の吹き回しか。

 理由は簡単。「silent」の舞台のひとつとして、小田急世田谷代田駅が実名で登場し、その周辺共々主要なロケ地として頻繁にドラマ内に登場するということを知ったからだ。

 世田谷代田ですと? 我々の日々の散歩コースのひとつではないですか。 ウチの庭で何してんねん!? というワケです(笑)。

 

eigatowatashi.com

 

 生まれ育った世田谷区代田の実家へ昨年9月に(家を建て替えて)戻ってから(2021年12月30日の日記参照)、インスタグラムに近所=下北沢周辺の写真を投稿する際には、よく「#シモキタは自分ちの庭」というハッシュタグをつけるようになった。半分冗談、半分本気で。それほどに下北沢の街は我が家からとても近く、文字通り「自分ちの庭」のような感覚。私のホームタウンだ。

 小田急線の世田谷代田駅はその下北沢のすぐ隣の駅で、とても近い。正直、下北沢から歩いても高が知れている。小田急線の地下化に伴い2年前の春に線路跡地に「BONUS TRACK」(ボーナストラック)が開業し、下北沢から世田谷代田まで線路跡を通って直線で行けるようになってさらに「近く」なった。もちろん、我が家からも歩いて10分とかからない。下北沢が自分ちの「前庭」なら、世田谷代田はさしずめ「横庭」だ。

 

bonus-track.net

 

(「BONUS TRACK」にて。2022年11月1日撮影)

 

 そんな我が家の庭に等しい世田谷代田やその周辺がロケ地に使われているというのだから、どんな風に映っているのかドラマを見てみたい気持ちになるのは人情というもの。生まれ育った代田や下北沢への郷土愛に溢れている私としては、日常生活の中でとてもよく親しんでいる地元の街が、ドラマの中でどんな風に使われて、視聴者にどのような印象を残すのか、興味津々だ。

 なんでもドラマを企画する初期段階から小田急電鉄が関わっているそうで、メインのロケ地に世田谷代田駅を提案したのも小田急側だったらしい。線路の地下化で駅舎を建て替えたばかりでとても綺麗な上に、下北沢という東京でも類を見ない唯一無二の街のすぐ隣でありながら乗降者数がさほど多くない(=ロケがしやすい)というのが決め手だったらしい。

 というわけで、先述の通り、その時点で最も早い木曜日の11月5日に放送された「silent」第5話を録画しておき、数日後に鑑賞した。ドラマそのものはたいへん面白く観たのだが、この回には世田谷代田駅やその周辺はロケ地として登場しなかった。残念。

 調べると、民放共同で運営している公式テレビ配信サイト「TVer」で「silent」の第1話〜第3話が配信で観られることが分かり、さっそく第1話を観た。長時間パソコンの小さな画面に目を凝らし続けるのは私の弱った目には非常にしんどいので、目の負担を軽減すべく手持ちのMacBook Proを我が家の40型テレビに繋ぎ、その画面をテレビにミラーリングして大きい画面で鑑賞した。

 

tver.jp

 

 この第1話では私たちの期待通りに、世田谷代田駅がご丁寧に駅名の看板入りで何度も画面に登場。さらには周辺の、私たちがよく知っているお馴染みの場所がいくつも出てきて実に楽しかった。

 川口春奈さん演じる主人公の青羽紬が目黒蓮さん演じるかつての恋人・佐倉想と衝撃の再会を果たす、この回のクライマクスシーンは世田谷代田駅のすぐ前、環七こと環状七号線にかかる「代田富士見橋」(名前の通り、晴れた日はここからの富士山の眺めが実に美しい)が舞台。紬が現在の恋人である戸川湊斗(演:鈴鹿央士さん)と語らいながら歩くのは、下北沢と東北沢(世田谷代田とは反対側の隣駅)の間の線路跡に昨年開業した「reload」(リロード)の脇を抜ける道。などなど。

 

reload-shimokita.com

 

 こうも私たちの日々の生活でお馴染みの場所が次々と出てくると、それだけでもこのドラマに親近感が湧くのは確かだ。ドラマそのものが良く出来ていてなかなか面白いだけに、尚更だ。これは残りの回も観ないと。

 

(「reload」脇を抜ける道にて。2022年9月5日撮影)

 

 それにしても、このところ下北沢と世田谷代田の間のあちこちを行き来する人が急に増えたなあと思っていたのだが、こういう事情があったとは。「silent」はかなり人気のあるドラマのようだから、わかりやすくドラマの画面に駅名が登場した世田谷代田駅をメインに、ロケ地巡りをする人々がこの辺りに来ているのだろう。納得だ。

 第1話の配信を観た数日後に、散歩で世田谷代田駅前を訪れると、駅の看板をバックに記念撮影する人や、ドラマの中で目黒蓮さんが座っていたベンチに代わる代わる座ってドラマと同じ仕草をする人々、駅の向かいの代田富士見橋の真ん中でドラマの場面を再現する風の人などを、ちらほらと見かけた。ドラマの人気は、確実にこの周辺の賑わいに貢献しているようだ。

 今や全国規模に成長したコーヒーや輸入食材のショップ「Kaldi」(カルディ)の発祥の地として、つとに名高い世田谷代田。だが、私が幼少の頃から新しい駅舎が完成する数年前までの数十年間は、実に閑散として何もないところだった。それがここ数年、少しずつ個性的な店が出てきて徐々に人が増え始めたところなので、このドラマの人気がこの近辺の盛り上がりを後押ししてくれるのは、それはそれで喜ばしいことだと思うのである。

 

 

 そのうちにドラマの内容についても、何か書ければ。モチーフやメタファー、隠喩の使い方や繰り返し方がとても巧みな物語構成。そして先述の世田谷代田やタワーレコード渋谷(ここももちろん私には超お馴染みの場所)にバンドのスピッツやLINE通話など、実在する事物を出すことで視聴者の共感度を上げる小わざの利かせ方。いろいろに「語りたくなる」要素が詰まったドラマのようである。

 とりあえず私としては、一昨年の大河ドラマ麒麟がくる」の帰蝶姫(川口春奈さん)と、昨年の大河ドラマ「青天を衝け」の民部公子さま(板垣李光人さん)が、姉弟としてキッチンに並んで立つ姿が、なんとも可笑しく微笑ましく感じてしまうのであった(笑)。

 

世田谷代田駅の近く、代田八幡神社にて。2022年1月2日撮影)

 

味が薄めなのは「当たり前」

 

 美味しいごはんの話が続きます。

 前回の日記で書いた「豚肉と里芋の梅高菜煮」からちょうど1週間後の、夕食の主菜に私の妻が作った料理が、豚肉とキャベツの味噌にんにく煮込み(上の写真)。前回同様、こちらも若山曜子さんの『フライパン煮込み』に掲載のレシピから登場。

 

 

 この本でのレシピ名は「豚バラとキャベツのみそにんにく煮込み」で、その名の通りバラ肉が使われている。だが私は脂身の多い肉が(お腹にくるから)苦手なので、妻は大抵ももやロースの端肉などを寄せ集めて売っている(だから安い)豚こま肉を使って調理してくれる。

 さらに、調味料もかなり量と種類を減らしている。元のレシピでは醤油が大さじ1入るのだが、味が濃くなりすぎるのでウチでは入れません。我が家は相当薄味志向、というよりほとんどの場合、調味料の量や種類をレシピ記載より減らすぐらいの味加減が、私たちにとってちょうど良いのです。

 これを読んでいるアナタが、万一にも「薄味=まずい」と思い込んでいる人だとしたら、私は面と向かって「この何も分かっていない愚か者め」と罵ってあげます(笑)。何百回でも。

 豆板醤のピリ辛味で補強されたニラとにんにくの組み合わせがなんといってもこの料理の「キモ」だが、若山さん曰く「ピリッとパンチの効いた、もつ煮込み風」とのこと。なるほど、味噌にニラとにんにくの組み合わせは、いかにも「もつ鍋っぽい」感じだ。

 

 

 若山曜子さんのすごいなあと思うところは、料理の守備範囲がとても幅広いこと。大学卒業後にパリへ留学して、パティシエやショコラティエなどのフランス国家資格(CAP)を取得した経歴から窺えるように、フランスのお菓子やフランス料理を最も得意とされているようだ。実際、お菓子づくりや家庭向けフランス料理の著書も多い。

 その一方で、この『フライパン煮込み』のレシピのような、普段の日本人の食卓に寄り添った料理づくりの提案もなさっている。ご自身が吸収した「洋」の良さと、日本の食文化で育まれた「和」の親しみやすさをうまく組み合わせて、いい感じに等身大な食生活を提供している、そんな印象なのだ。

 今調べたら、『フライパン煮込み』の続編が来月発売されるらしい。へええ、知らなかった。楽しみ。

 

(2022年10月29日投稿)

豚肉と里芋の梅高菜煮

 

 この日の夕食の主菜用にと私の妻が作った料理は、豚肉と里芋の梅高菜煮だった(上の写真)。

 我が家で最も出番が多い料理本のひとつ、若山曜子さんの『フライパン煮込み』掲載のレシピだ。

 今日の豚肉は、元レシピと同じく肩ロースの塊肉をカットして使っているので、よく煮込んで豚肉ならではの旨みがじっくりと染み出している。さらに、梅干しと高菜漬けという発酵食品がダブルで投入されているので、両方の風味と酸味とコクがよく発揮されて、味わいに深みが出てなんともいえない美味しさ。汁気もまた滋味溢るる旨みに満ちており、締めはご飯を投入して雑炊風にいただく。幸せいっぱいだ。

 里芋のねっとり感をまとったほくほく味も実に心地よい。私が「超じゃが芋好き」であるために我が家では芋といえばまずじゃが芋になるので、里芋が食卓にのぼることはそれほど多くない。この日も本当に久しぶりの登場なのだが、やっぱり里芋も美味しいなあ、実に味らしい味覚だなあと、しみじみ思うのであった。

 そういえばようやく秋も深まってきたこの頃である。

 

(2022年10月26日投稿)

コロナかもしれない

 

 前回の日記から2か月以上空いてしまった。

 一度途切れてしまうと、復帰するのにかなりの時間がかかってしまう。私の悪いところだ。

 前回の日記を書き上げてからほどなく、今からちょうど2か月前の7月25日に38度5分の高熱が出て、それから丸2週間寝込んでしまった。

 熱は1週間弱でなんとか下がったものの、体の中の風邪っぽさや不調や風邪由来の痛みがなかなか抜けず、発熱から2週間経ってようやく身体の中の「悪いもの」が完全に体内から抜けたように感じた。つまりは「完治」したわけだが、その間ほとんどベッドで過ごしたために体力がすっかり衰えてしまい、さらに2週間かけて徐々に体力を回復して、ようやく日常生活を取り戻した。熱を出してからほぼ1か月かかったことになる。今年は夏の一番盛りの時期をベッドで寝て過ごしたわけだ。凄まじい酷暑の日々を上手いことベッドでやり過ごした、ともいえるが(笑)。

 というわけでひと月もブランクが空いてしまったせいで、暇人なりにいろいろ滞ってしまい、それらをひとつひとつ片付けるのにさらにひと月。気がつけば秋分の日を過ぎて、世の中の景色はすっかり秋色に染まっている。

 あれは、新型コロナウイルスに感染したのだろうか。

 検査は全然しなかったので、今となっては知るよしもない。もちろんただの風邪だったのかもしれない。この直前の数日は私にしてはかなり予定が詰まってしまい、けっこう無理して動いたために疲労がとても溜まっていたのは確かなので、いかにも体調を崩しそうな状態ではあった。それでも、いきなり38度以上の高熱が出るというのはなかなかに尋常ではない。インフルエンザならありえるか。でもインフルはどちらかというと冬のもの。真夏に感染する確率はゼロではないだろうが、あの連日最高気温が35度近い凄まじい酷暑の中では、インフルのウイルス自体が生きてはゆけまい。コロナ感染がピークに達していた7月末ごろの状況を考えると、やはりあの時の私も「コロナに感染した」と見做すのがもっともあり得る気がする。皮肉な話ですが。

 どうして熱が出た時にコロナかどうかの検査をしなかったか、ですって?

 それはもちろん、検査を受けても何ひとつメリットがないから、です。

 検査してコロナに感染したとわかっても、ただそれだけでしょう。まだ承認されていないコロナの特効薬をもらえるわけじゃないし。せいぜいコロナ陽性の証明書をもらうくらい。私は現在いわゆる勤め仕事をしていない身なので、仕事を休むために証明書をもらう必要が全くないのだ。あとは地域の保健所にコロナ感染の連絡をして、その日の新規感染者数にカウントされるだけ。結局普通の風邪と同じ既存の解熱剤や風邪薬をもらう対処療法しか治す道はない。しかも私は固定薬疹という非常に厄介な体質の持ち主で(イブプロフェンアセトアミノフェンがダメ)、一般的によく使われる解熱剤や風邪薬のほとんどすべてを身体が受け付けないので、それすらもらえない(涙)。私が2週間も寝込んだのも、もちろんその薬アレルギーのせいである。解熱剤が使えず自然治癒に任せるしかないので、とっとと熱を下げる、という芸当が私にはできない(涙)。

 というわけで、高熱を押してわざわざコロナの検査をしている医者まで行き、高熱のまま何時間も待ってまで検査を受けるメリットが何もないのだ。むしろそんな状態で無理して出かけたら確実に病状を悪化させるだけだし、(コロナ感染だったら)無駄にウイルスを撒き散らすばかりだし(笑)。

 そもそも発熱してしまうと街なかの検査会場では受け付けてもらえず、コロナの検査を実施している(大抵は発熱外来のある)医療機関に行くしかない。(あの頃は市販の検査キットは軒並み売り切れだったので、自己検査もできなかった)。一応は高熱で朦朧となりながらも自宅の近くで検査をおこなっている医者を検索してみたが、もちろん家から歩いて10分以内とかの近距離にはそんな医者はない。比較的近い医療機関は発熱外来の予約がいっぱいで受けられるのは1週間後(もう治っているのでは?笑)とか、予約がない代わりに検査まで数時間待たされるとか、そんなのばかり。

 当たり前ですよね。あの時は2022年7月下旬、コロナ感染第7波のピークを迎えて感染者数はうなぎ上り。それなのにコロナ検査が可能な医療機関は限られているから、どこも陽性の証明書を求めて検査を待つ人々でいっぱい、数時間待ちは当たり前の状態。これじゃあ無理もない。特定の医療機関に負担が極端に集中している状態。やれやれ。早くインフルエンザのように、その辺の町医者でも簡単にコロナかどうかの検査ができるようにならないといけないのに。行政はそこに力を尽くすべきなのに。もう3年目なのに、いまだにこの体たらく。今の日本の行政がやっていることがいかに的外れなのか、当事者になると身に染みて本当によく分かる。やれやれです。

 

 

 ……と、ここまで書いたのが9月24日。最初の方の日付の表記を見て「あれ?」と不審に思われた方々、ごめんなさい。書きかけのまま見事に3週間以上放置してしまったのです。

 理由は簡単、この文章を書くうちに例によって目と首筋と肩がゴリゴリに痛むようになってしまって、書き進められなくなったのが発端。その後はずるずると止まってしまいました。

 というわけで改めて、熱を出して寝込んでから3か月近く、そして前回の日記から3か月以上経ちました(笑)。すっかり秋も深まったこの頃、とするりと口に出すのが躊躇われるほどに、つい先日まで妙に気温が高く、かと思うと真冬並みに冷え込んだりして、いよいよこの惑星もヤバくなってきたなと実感するばかりですが(笑)。

 あの時何より幸いだったのは、一緒に暮らす私の妻には何ひとつ症状が出なかったこと。おかげで夫婦ふたりとも寝込んでしまう危機を回避できて、妻が家のことを滞りなく進めることができたのは本当に幸いでした。

 それにしても、私が寝込むまではこのところ夫婦ふたりでずっと一緒に行動していたので、私がコロナに感染したのであれば間違いなく妻にも感染していたはず。なのになんともなかったということは、妻はいわゆる「無症状感染」だった公算が高い。だとしたらなんとラッキーなことか。私のように熱を出して寝込む事もなしに、コロナの抗体だけ得ることができたわけだから。コロナの抗体も(インフルのと同等であれば)一年くらい持続するのでは、と先日お会いしたお医者さんが仰っていたので、今更ながら夫婦ふたりで抗体検査を受けてみる価値はあるかもしれない。せっかく2週間も寝込んだのだから(笑)。

 

(写真は全て、2022年10月8日に東京・吉祥寺の井の頭公園にて撮影)

単なる懐古ではなく。

 

 ケネス・ブラナーSir Kenneth Branagh脚本・監督の映画『ベルファスト』"Belfast"を、例によって我が家からほど近い映画館・下高井戸シネマにて観た。

 最も過酷な情勢下にあった1969年の北アイルランドベルファストを舞台に、9歳の少年バディとその家族や町の人々の物語。ベルファストはブラナー監督の生まれ育った故郷の街で、1960年生まれの彼はこの年にはバディと同じ9歳。バディはブラナー監督自身の少年の姿そのものだといってもいい。この映画は、ケネス・ブラナーという一個人の少年時代を色濃く投影している、半自伝的作品なのだ。

 

belfast-movie.com

 

 そのブラナー監督の少年時代=1969年がいかに過酷な年だったか。それは映画冒頭の、何気ない平和な日常の微笑ましいシーンがあっという間に爆音と投石と炎と暴力に支配されてしまう場面に端的に表れている。長年積み重なったカトリックプロテスタントの激しい対立に代表される北アイルランドの動乱が、最も暴力的な局面を迎えている時代だったのだ。この衝撃的な展開を映画冒頭に持ってくるほどに、あの暴力と破壊の映像は9歳の小学生だったブラナー少年の網膜に強烈に焼き付いて、決して消えない傷跡のごとく彼の中に残り続けているのだ。しかもこれは、映画のタイトルバックを彩る、平和に満ちた現在のベルファストの街並みの空撮映像の直後に置かれている。現在の「平和な」街並みは、この動乱の苦難と悲劇が積み重ねられ、人々の融和と和解への果てしない努力の果てに「在る」のだと言わんばかりに。

 それでも、この映画の主人公は9歳の少年である。貧困と厳しい社会情勢の下にあっても、それを大人のように理解しきれないのが却って「救い」になっており、どんな過酷な状況下にあっても明るさや生きる歓びを失わない家族や町の人々に囲まれて、バディは生き生きと逞しく成長する。子ども目線なので、暴動や過酷な場面の描写も、どこかユーモラスな要素を含んでいたりする(ある暴動の場面で洗剤の箱が出てくるのだが、これのコミカルな狂言回しの小道具としての使い方の巧みさといったら!)。

 小学校の授業。祖母や祖父との心温まる触れ合い。仄かな初恋。歌と音楽(何しろアイルランドですから。ちなみに音楽はあのヴァン・モリソンが手がけている)。そして夢や希望を与えてくれる数々の舞台や映画。全編モノクロの映像の中にあって、この舞台の上や映画のスクリーンの中だけがカラーなのが目を惹く。それらが当時のバディ=ブラナー少年にとって現実の憂さを忘れさせてくれる、とても貴重な「宝物」であったことを文字通り鮮やかに示している。また同時に、彼がやがてその道に向かうことも。クリスマスの贈り物にアガサ・クリスティーのミステリ小説があったり、バディ少年が「マイティ・ソー」の漫画を読む場面が出てくるのは、やや楽屋落ち? 「こんなところに彼のルーツが!」とニヤリとしました(笑)。あと、西部劇の決闘場面を彷彿とさせる緊迫感が素晴らしいクライマックスの場面とか。全編にブラナー監督の映画愛が満ちている作品でもある。

 

 

 ところで、映画監督の半自伝的作品とくれば、私は、つい最近観た『Hand of God -神の手が触れた日-』を想起せずにはいられない(2022年4月14日の日記参照)。あれもイタリアの名匠パオロ・ソレンティーノ監督の「半自伝的」作品だった。しかも彼が生まれ育ったナポリの空撮映像から映画が始まり、映画のラストでは故郷を旅立つ、という『ベルファスト』との興味深い類似点が数多く見出せるのだ。ソレンティーノ監督はブラナー監督より10歳若い1970年生まれなので同世代とは言い難いが、二人の映画界の巨匠が同じ時期に「半自伝的」作品を作り、その中で生まれ育った故郷への限りない愛情を強く表現していることは注目に値する。そこに込められたのは、両監督の単なる懐古主義ではない。むしろ、ますます混迷を深める現代に生きる人々に彼ら自身の来し方を示すことで、(特にこれから時代を担う世代の人々に)苦難と逆境の中でも、人生を切り開く可能性は常に存在することを伝えたかったのではないか、と思わせる。

 

 

 もうひとつ、『ベルファスト』で特筆すべきなのは、全編を通じてカメラワークや映像構成がとても凝っており、場面によってはかなり実験的でさえある、ということだ。

 先述の通りブラナー監督はその長いキャリアの中で数多くのハリウッド大作も手がけており、それらの作品では当然ながら大衆が理解しやすいカメラワークやカット割りを主とした演出をおこなっている。だがこの『ベルファスト』では、彼のパーソナルな要素が強いこともあってか、制作にあたって映画芸術としての作品づくりを相当に意識したのではないか。先述したモノクロ映像の中でのカラーの使い方もそのひとつだ。あるいは不自然なほどのアップや、会話や長い科白を喋る場面での固定カメラの長回し、とんでもなく不自然な位置にカメラを据えたような映像で構成される場面など。カット割りのテンポもかなり長めな気がするし、少々クラシカルな手法も敢えて取り入れて相当に「脱・ハリウッドの今の流行」的な映像表現を心がけたような印象だ。

 階下で泣き崩れるバディの母親と同じく階下でそれを覗き見るバディ自身の両方を、かなり離れた階段の一番上からカメラが小さく見下ろす場面。冒頭の、日常の平和なシーンから非日常=暴動の激しいシーンへ移行する際に、バディの周囲をカメラがぐるーっとひと回りして写すことで、見事に場面の雰囲気を切り替える場面。ラストの、波打ったガラス越しに写す、おそらく悲しみに暮れているバディの祖母の姿(観客に想像させるために、敢えて曖昧にしか見えないように撮ったと思われる)などなど。

 自伝的要素の強い作品なればこそ、いつも以上に映画や映像表現の可能性を追い求めているのだな、と強く印象づけられてとても楽しい。「こんな見せ方はどうだろう」「こんな画面構成はどんな効果が得られるかな」「こんなカット割りは今までになさそうだけれど、アリかな」とか、いろいろ試しながらコンテを作って撮影を進めた様子がありありと目に浮かぶ。

 映像表現をこのように変化に富ませることで、映画の物語そのものを先へ引っ張って飽きさせない原動力を作品にもたらしているように思う。

 

 

 

(写真は全て、ベルファスト……には行ったことがないので、代わりに2014年7月に一度だけアイルランドを旅行したときにダブリンや各地で撮影した写真から)

(2022年7月20日投稿)

大いなる円環

 

 遥かな未来のことだと、ずっと思っていた。

 あの「お願い だれも息をしないで」。

 そこに、ようやくたどり着いた。

 物語の大いなる円環が、今ひとつに繋がった。

 

 末次由紀著『ちはやふる』の最新第49巻を読んだ。周知の通り次の第50巻で完結が予定されており、物語もクライマックスに向けて怒濤の勢いで盛り上がっている。主人公の千早と新が挑む名人・クイーン決定戦の最終試合が進む中、試合に臨む4人と周囲の人々の想いが様々に交錯して次々と浮かび上がっては移り変わり、もうひたすら胸アツの連続。どんな些細なエピソードも、クライマックスの情感をもって語られる。これまで14年以上続いた連載漫画の、積もりに積もった集大成なのだから、何をやっても胸アツなのは当たり前だ。

 それにしても著者・末次由紀さんの、数多くの登場人物それぞれのドラマを組み合わせて一本の流れに仕立てあげる、その物語づくりの巧みさは本当に素晴らしい。『ちはやふる』が類い稀な群像ドラマの傑作になったのも、そのおかげだなあとつくづく思う。

 

 

 私も2009年からずっと(単行本ベースですが)この漫画に伴走してきたので(2009年1月9日の日記参照)、この長編漫画がいよいよ佳境に差し掛かったと思うと、その間の13年以上の歳月がともに思い起こされ様々な想いが溢れて、さすがの私でも胸が一杯になる。

 そんな私がこの第49巻で一番胸アツだったのが(他の多数の方々も同じだと思うが)、単行本の帯にも書かれた「お願い だれも息をしないで」という千早のモノローグだ。

 既読の方はもちろんご存知のように、これは第1巻の冒頭に登場した最初のモノローグ。このクイーン決定戦の一幕を「やがて来たるべき、遥かな未来」として冒頭に提示してから6年前に戻り、小学6年生の千早や新たちとともに物語が開幕するのだ。つまり連載開始から14年目の49巻目にしてようやく、この「やがて来たるべき、遥かな未来」に物語の「現在」が追いついたのだ。

 そしてさらに胸アツなことに、千早がいつも戻る場所=常に立ち帰る原点かつ拠り所に、前巻にも「登場」した小学生時代(第1〜2巻)の千早が登場し、小学生の千早と「現在」の千早とがしっかりと抱きしめ合う。新もまた、小学生の自己と向き合う。「やっと 迎えにきたよ」と。そして千早と新は、万感をこめて「ちはやぶる」の札を取るのだ。

 あの、全体のプロローグともいうべき、宝物のように尊い小学生篇。二度と手が届かない、永遠に越えられない「黄金時代」として描かれ、その後の苦闘に満ちた本篇=高校生篇を通奏低音のように支えてきた物語の原点。ここでそれが「現在」とひとつになったのだ。ここに大いなる円環が繋がったのだ。この物語に初期から伴走してきた身として、この大いなる邂逅に感動しないわけがあろうか。この場面は、この物語全体の最大のクライマックスといってもいい。

 この「遥かな未来」に辿り着いて、あの遥かな光景が今目の前に「現実」の光景として存在している、という感覚。なんという長い時間、なんというさいはての、この世ならぬ高みの光景。それを今見ているという実感。これこそが、長大な物語をともに伴走してきた末の、大いなる喜びのひとつではないか。あたかも苦難の山道を一歩一歩踏みしめて登り、その積み重ねの果てにやがて到達した山頂での、雲海に囲まれた天上の如き風景を目にした瞬間の喜びと高揚感のように。

 

 

 確かに、この物語は文字通りの「大団円」を迎えたのだ。今や円はひとつに繋がり、物語としての役割を果たした。さいはてに辿り着いた高揚感を今、この瞬間に確かに感じている。やがてこの身が滅んで、「雨の中の涙」のように埋もれて消え去ってゆくとしても、この高揚感が訪れた時は確かに存在した。いや、存在している。その確信とともに。

 まだあと一冊残ってはいるが、大いなる円環が繋がったあとでは、もう全ては盤石でしょう。「終わり良ければすべて良し」。最終巻にはきっと、清々しいエピローグが待っていることだろう。稀代の物語を語り上げて、私たちに届け続けてくれた末次由紀さんに、少し早いが「おつかれさま」を申し上げたい。

 

 

(2枚目と3枚目の写真は、2022年7月7日に北の丸公園にて撮影)

(2022年7月15日投稿)

「倍速視聴」はしないけれども

 

 稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)をこの日、読了。

 サブタイトルは「ファスト映画・ネタバレ--コンテンツ消費の現在形」。非常に話題になっている一冊だ。私も新聞の新刊広告でこの本の存在を知って以来とても他人事とは思えず、すごく気にかかっていた。かつて編集者のはしくれとして夜も昼もない日々を送り、今尚ものづくりの精神を持ち続けているつもりの身としては、この本のテーマはかなり切実に感じる。いざ読み始める際にはかなり「心して」本のページを開き、じっくりと味わい、理解した、つもりだ。

 

 

 20〜30代の若年層を中心に増加しているという、映画やドラマやアニメを早送り再生=この本でいうところの「倍速視聴」や10秒飛ばしで視聴する人々。大いなる違和感と彼らはなぜそうするのかという疑問を、膨大なインタビューやリサーチから、映像メディアの変遷や社会との繋がりから解き明かしてゆく一冊なのだが、読んでいて「これ自分じゃん!」と何度も心の中で叫んだ55歳であった(笑)。私も常に「時間がない」し、「失敗したくない」「無駄は排除したい」気持ちも当然ある。それに、これだけダウナーな世の中なのだから、フィクションくらいは「ハッピーエンドしか見たくない」し、「ツラい場面は見たくない」と切実に思っている。だからよく「ネタバレチェック」もする。好きなものをけなされるとすごく「自分が責められていると感じる」し、「批判に弱い」から「心を乱されたくない」。「共感性羞恥」というのも(用語自体は初耳ながら)とても理解できる。自分に当てはまることのオンパレードだ(笑)。

 それでも。

 それでも、私は映画やドラマを早送り再生で視聴はしていない。

 これからもしない、と思う。

 10秒飛ばしも「話飛ばし」もしない。

 その作品の尺だけ、きっちりと時間を遣って向き合っている。

 (初見では、の話。二度目以降は、観たい場面だけ観るために前後を飛ばすことはあります)

 作り手が膨大な人生の時間を費やして、血と汗と涙の結晶として作り出したものに向き合うとき、それを享受する人は、対価としてその人生の「何」を差し出すのか。あるいは「贄」として「捧げる」のか。最も大切なもの=「時間」ではないのか。だから、あるひとつの2時間の映像作品には、観る人の人生のうちの2時間を贄として「捧げる」べきではないか。それほどの「コスト」をかける覚悟がないと、他者がその人のために用意した「最高の」創作物には、本当の意味では向き合えないのではないか。そう思うのだ。あくまで娯楽のためのものだから、気軽にヒマつぶしでスナックつまみながらテキトーな態度で観るのは全然構わないと思うが、作品の時間分だけ自分の時間も「費やして向き合う」ことだけは、作品とその制作に関わった人々に対する最低限の敬意として必要だと。まあ、あくまで私見ですが。

 

 

 それでも、この本を通じて著者が本当に問いかけたいのは、そんな「倍速視聴」に代表される映像コンテンツの視聴方法の是非ではなくて、これが実は現代社会の深刻な諸問題と深く結びついているのではないか、ということだ。そのことは、この本の終章にはっきりと記されている。倍速視聴は、現代のメディアと文化と社会の根底に横たわる共通の問題=「根っこ」のひとつの表出に過ぎず、その「根っこ」こそを俎上に載せるべきだと。そこを大いに議論させるために、著者は敢えてやや「挑発的」な表現を使いつつも、客観的な視点を崩さず冷静に事象を分析してこの本を書いたようだ。この本はあくまで「議論のとっかかり」に過ぎず、この本をもとに百家争鳴、様々な議論が交わされてその「根っこ」を白日のもとに晒したい、という意図のもとに。

 著者は次のように書いている。

一見してまったく別種の現象に思える現象同士(倍速視聴-説明過多作品の増加-日本経済の停滞−インターネットの発達、等)が、実は同じ根で繋がっている。そのような根を無節操に蔓延(はびこ)らせた土壌とは、一体どのようなものなのか。それが本書で明らかにしたかったことだ。
(本書295〜296ページ)

 「たかが映画やドラマの観方」というなかれ。この世の中は、結局のところ全てがどこかで繋がっているのだ。そのひとつの「たかが」で些細な事象を仔細に精査することで、世の中全てに関わる重大な問題を浮かび上がらせることもできる。この本は、その実践のひとつの記録でもある。

 現代社会を蝕む、その「根っこ」のひとつは、急速な技術進歩の果てに現代人が抱えるようになった「肥大化し無境界化した自己」と「他者の消失」なのではないか。私はこの本を読み終えて、そう強く感じた。

 そしてもうひとつ。この何もかも「思考停止させる社会」だ。なーんも考えず何ひとつ疑問を持たなくても生きられてしまう、というより「生きさせられている」この現代社会。その中で、生きる上でのタスクに追いまくられて押しつぶされそうになって必死にしがみつき、本当の意味で「考える」時間も余裕も奪われて、つまり身の回りの事象に対して「おかしい」と立ち止まって思考することなく、肥大化して「この世界全部が自分」と錯覚するようになった現代人。

 この人々に思考する余裕を与えず、考えさせないように仕向けている、この現代の社会システム。これでいいのか。これがいいのか。そしてこの仕組みは、一体「誰得」なのか。著者が本当に問いたいのはここではないか。私はそう感じたが、いかがであろうか。

 

 

 論の進め方や対象集団のくくり方にやや疑問を感じる点もあるが、それでも現代社会の諸相に違和感や疑問を感じている人には、必読の一冊であるのは間違いない。

 だが、本当にこの本を読むべきなのは、まさに「倍速視聴」をおこなっている当事者たちだと思う。本の内容への賛否や是非はひとまず置いて、これを読むことで自己の行為とその背景を客観視するきっかけを得ることができるはずだからだ。その「自己を客観視する」ことこそが、現代社会の病理の「根っこ」である「肥大化し無境界化した自己」と「他者の消失」を解消する第一歩になる。私はそう信じる。

(2022年7月7日投稿)