五月の風の中で

夕方が近づいて、窓から透明な陽射しが差し込む。

涼やかなそよ風が吹き込んでくる。

 

リヴィングのソファで寛ぎつつ

本のページをめくりながら

その風を頬で感じる。

頬に笑みが浮かぶ。

 

実に心地よい初夏の夕方。

忘れ得ぬ小さな幸せの時間

 

結局のところ

人生のほんとうの幸せは

お金とか名誉とか地位とかそういうものではなく

こういう何気ないとき、ところに

ひっそりと佇んでいる

ような気がする。

 

月並みだけれども。

そんなことを想った、今日の夕刻。

 

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(この写真は2019年5月22日に撮影)

(2019年5月24日投稿)

 

 

誕生日に想う

 何度もこの日に書いてきてはいるが、しつこく今年も書く。

 本日、5月17日は、私の誕生日である。

 ちなみに、これも何度も書いていることだが、ノルウェーは5月17日が最も重要な国民の祝日憲法記念日」。国の誕生日と呼んでもいい日だ。今日のノルウェーの人々のインスタグラム投稿を見ていると、ほとんどの人が"Happy Birthday, Norway!"的なことを書いている。

 ノルウェーの人たちは、国を挙げて私の誕生日を祝ってくれているのだ(違)。

 それにしても、50歳を過ぎたいい大人が、いまだに自分の誕生日を騒いでいるのもアレだなと思って、ふと考えてみる。

 おそらく、誕生日というものが持つ「自分だけの特別感」が好きなのだろうと思う。

 誕生日というのは、それが元日とか大晦日とか特別な祝日に当たっていなければ、まあ自分とその周辺以外の人々には何ら特別でない「普通の日」、その前日とも翌日とも変わらぬ連綿と続く平凡な日のひとつである。当人たる自分でさえ、誕生日というレッテルがなければ、今日はごく普通の天気の良い爽やかな初夏の一日だな、と思う程度で終わるだろうし。

 私の場合、どうもこの自分にとっての「特別な日」と一般の人々にとっての「平凡な日」とのギャップを埋めたくなってしまうようだ。だからつい騒いだりノルウェーのことを持ち出したりするのだろう。「自分だけの特別感」を他の人と共有したくなる気持ちというか。これって別に私だけの特別な感情ではなくて、意外とみんなに共通している心理だと思うのだが、いかがであろうか。

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 それにしても、今日は実に爽やかによく晴れた一日だった。夕方などは湿気が抜けてほどよく涼しい風が吹いて、まるでヨーロッパに来ているかのような気分に浸ってしまう。なんだか気分が浮き立って夕方に近所の公園まで散歩に出かけてしまった。どうもここ数年、自分の誕生日に雨が降ったという記憶がない(都合よく忘れているだけかもしれないが)。

(2019年5月17日投稿)

 

ドライフラワーとフレジエ

 毎年同じことを書いているようで恐縮だが、5月12日は私の妻の誕生日である。

 私の誕生日が5月17日なので、それまで5日間だけ夫婦同い年になる。

 今年の妻の誕生日は第2日曜日なので「母の日」と重なった。これまた日付からして何年かに一度は必ず巡ってくるので、すっかり慣れっこだ。花屋で妻の誕生日のために花を買うと、必ずと言っていいほど「母の日カードつけますか?」と訊かれてしまい、「いいえ、誕生日カードでお願いします」と訂正するのも毎度のことだ。

 今年のお祝い花は、二人揃って近所の花屋さんに行ってドライフラワーを購入。

 ドライフラワーを買うつもりではなかったのだが、ちょっと目についた花束がかわいかったのでこれに決めてしまった。紫とピンクと白の微妙なグラデーションぶりが、なんとも可愛らしい。

https://www.instagram.com/p/BxW3EfXgFNi/

 3月にもドライフラワーの花束を買ったので、最近ドライフラワーづいているなあと実感。でも長持ちするし、どことなく枯れた風情が(ドライフラワーだから当たり前か)最近とみに心に染み入るようになり、とても安らぐ。身内を亡くしたことで強く意識するようになった現世の無常感を、ほんの少しだけ和らげてくれるように感じるからだろうか。

 花を買ったついでに「プラチノ」というケーキ屋さんに寄って、妻の誕生日のささやかなお祝いにケーキを購入。

https://www.instagram.com/p/BxdvomijtLm/

 買ったケーキのうちひとつが、この写真の「フレジエ」。この店の定番ショートケーキだ。苺好きとしてはやっぱりこれは外せない。夕食後にいただきました。

ここでの「Rise」の意味は?

 タイトルが公開されたことに、今日ようやく気がついた。

 もう前作以来すっかりグダグダで、アンテナを全然張っていなかったから(笑)。

eiga.com

wired.jp

jp.ign.com

 

 ティーザー予告編も公開されていました。これは日本語版。


「スター・ウォーズ/ザ・ライズ・オブ・スカイウォーカー(原題)」特報

 

 オリジナル英語版のティーザー予告編はこちら。


Star Wars: Episode IX - Official Trailer

 

 この英題の「Rise」は、邦題だとどういう言葉に訳されるのか。タイトルを聞いてパッと思い浮かんだのは「興隆」「隆盛」だったのだけれど。皇帝に代わってスカイウォーカー家が銀河を支配する、とか。

 前作『最後のジェダイ』"The Last Jedi"の評判が散々なことになった(世間的には「賛否両論」と言われているが、私の周囲ではほぼ「否」一色だった)ために、あまり世間でも前2作に比べて大騒ぎしていないような気がする。

 私個人にとっての『最後のジェダイ』は、個人的な事情で大変だった時期に一度観たきりだったので、自分の中でモヤモヤしたまま己れの評価をつけられないまま放置(?)状態だった。かといってもう一度観る余裕も気力もなかったしねえ。少なくとも「スター・ウォーズ」へのワクワク感がすっかりトーンダウンしてしまったのは間違いない。その状態のままで、そういえば今年の年末にはエピソード9公開かあ、くらいになっていました(笑)。『最後のジェダイ』については、なんとか完結編公開までに自分の中で決着をつけて、このブログに過去日記を書かないと(笑)。

 なんだかんだ言っても40年来の「スター・ウォーズ」ファンですから、"The Rise of Skywalker"、観に行くつもりですよ〜。とりあえず予告編を観ると、久しぶりにワクワク感が甦ってくるし。敢えて『最後のジェダイ』で大きく落として(エピ8はそのための捨て石だったりして)、反動も活用してものすごい盛り上がりを見せてくれるかもしれないし。少なくとも予告編から伝わってくる「なんかすごい、とんでもなく壮大な何か」は、私がすごく好きなテイストであるのは間違いないし。

realsound.jp

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 「物語の終わり」を見届ける義務が、私にはある。

(2019年4月18日投稿)

セーヌの貴婦人よ

 朝起きて、パリのノートルダム大聖堂が火災で深刻な被害に遭ったという知らせに接し、暗澹たる悲しみに包まれた。なんという悲劇。13世紀に建造されて以来700年以上の間、数度の革命も二度の世界大戦も乗り越えてパリの市民と苦楽を共にしてきた、ゴシックの優美な貴婦人。本当に、言葉がない。

www.bloomberg.co.jp

 大学時代に中世ヨーロッパの美術史を専攻して以来、中世ヨーロッパの美術や建築をこよなく愛し続けてきた私には、あのセーヌ川に映る優美な大聖堂の佇まいはこの上ない喜びだった。700年の間パリの人々、いや世界の人々にとってのモニュメントであり続け、幾世代にわたる人々の祈りや想いを、喜びや哀しみを、数え切れない人生を見つめ続け、包んできた歴史の証人。その歳月がこの火災と共に大きく損なわれるという悲劇。どんなに言葉を尽くしても伝えられない気がしてもどかしい。13世紀にこの大聖堂を建造した人々の想いが、700年の歳月と人々の想いの積み重ねが、ほんの数時間の火災で失われてしまうことの恐ろしさ。我々が先人から託されたものは、それほどに重いのだ。

 東京でノートルダム大聖堂に匹敵する建物があるだろうか? 700年という圧倒的な歳月を想うと、ないような気がする。

 京都だったらどうだろうか。とここまで書いて、京都でもかつて、金閣寺が消失するという悲劇があったのを思い出した。

 なんということだろうか。京都の街はすでにこの哀しみを経験していたのだ。

 ただ、ノートルダム大聖堂のような、位置的にも精神的にも街の中心にあるほどの圧倒的な「中心性」までは、さすがの金閣寺でも持ち合わせていなかったようにも思う。

 私が最後にパリを訪れて、ノートルダム大聖堂を見たのは2006年の7月だった。妻と母と今は亡き父と4人で、あの堂々たるファサードを見上げたことを憶えている。

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(2006年7月9日撮影)

 金閣寺は再建された。ノートルダム大聖堂も、きっと甦る。あの優美な佇まいやこの世の美を超越してしまったかのような薔薇窓は、これまでと全く同じようには再現できないかもしれないが、それでも、信ある人々の手によって不死鳥のごとく甦ってくれるに違いない。

 高村光太郎の詩「雨にうたるるカテドラル」を、ここに引用する。

 パリのノートルダム大聖堂をうたった、有名な詩だ。

おう又吹きつのるあめかぜ。

外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、

あなたを見上げてゐるのはわたくしです。

毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。

あの日本人です。

けさ、

夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、

今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。

わたくしにはまだこの土地の方角がわかりません。

イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを

向いてゐるかさへ知りません。

ただわたくしは今日も此処に立つて、

ノオトルダム ド パリのカテドラル、

あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、

あなたにさはりたいばかりに、

あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

もう朝のカフエの時間だのに

さつきポン ヌウフから見れば、

セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べり繋がれたままです、

秋の色にかがやく河岸の並木のやさしいプラタンの葉は、

鷹に追はれた頬白の群のやう、

きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。

あなたのうしろのマロニエは、

ひろげた枝のあたまをもまれるたびに

むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。

逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた

矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。

広場はいちめん、模様のやうに

流れる銀の水と金焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。

そして毛あなにひびく土砂降の音です。

何かの吼える音きしむ音です。

人間が声をひそめると

巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。

外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら

わたくしはその中に立つてゐます。

嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。

ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。

 

おうノオトルダム、ノオトルダム、

岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、

気(かうき)の中の暗礁、

巴里の角柱、

目つぶしの雨のつぶてに密封され、

平手打の雨の息吹をまともにうけて、

おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、

あなたを見上げてゐるのはわたくしです。

あの日本人です。

わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。

あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、

はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。

何の故かまるで知らず心の高鳴りは

空中の叫喚にただをののくばかりに響きます。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

出来ることならあなたの存在を吹き消して

もとの虚空に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。

けぶつて燐光を発する乱立。

あなたのいただきを斑らにかすめて飛ぶ雲の鱗。

鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念(しゆうね)くからみつく旋風のあふり。

薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ。

しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、

飛びかはすエルフの群を引きうけて、

前足を上げ首をのばし、

歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。

不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互いにうなづき、

横手の巨大な支壁(アルプウタン)はいつもながらの二の腕を見せてゐます。

その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に

おう何といふあめかぜの集中。

ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。

あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。

はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました。

その中にあなたは立つ。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

その中で

八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、

昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。

真理と誠実との永遠への大足場。

あなたはただ黙つて立つ、

吹きあてる嵐の力をぢつと受けて立つ。

あなたは天然の力の強さを知つてゐる、

しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる。

おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、

それにさはるわたくしの手は

まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。

そのエスメラルダにつながる怪物
嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭に潜んでゐます。

あの醜いむくろに盛られた正義の魂、

堅靭な力、

傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者

ましてけちな人の口の端を黙つて背にうけ

おのれを微塵にして神につかへる、

おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。

せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、

あなたの荘厳なしかも掩(おお)ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育まれて、

あれからどれくらゐ生まれた事でせう。

 

おう雨にうたるるカテドラル。

息をついて吹きつのるあめかぜの急調に

俄然とおろした一瞬の指揮棒、

天空のすべての楽器は混乱して

今そのまはりに旋回する乱舞曲。

おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、

嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、

今此処で、

あなたの角石に両手をあてて熱い頬を

あなたのはだにぴつたりと寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、

酔へる者なるわたくしです。

あの日本人です。

 

 パリの貴婦人よ。

 セーヌ川に佇む、優美ないにしえの貴婦人よ。

 

(2019年4月15日投稿)

ピンク・エレファント!

 昨日、実写版の映画『ダンボ』を観てきた(2019年3月29日の日記参照)ので、リメイクの元になった1941年の古典的名作アニメ映画『ダンボ』をちゃんと観てみたくなった。そこで、さっそく近所のツタヤでDVDをレンタルして鑑賞。多分幼い頃に観たことがあるとは思うのだが当然記憶はなく、大人になってからは「きちんと」観るのはこれが初めてだ。上映時間は約1時間。

ダンボ [Blu-ray]

ダンボ [Blu-ray]

 

 観て驚いたのだが、実に「アート」なのである。とても1941年、太平洋戦争の只中に作られた作品とは思えない。全く古びていないどころか、今でも子供どころか大人の鑑賞にも十分に耐えうる「アート」作品なのだ。もちろんフルカラーアニメーション。

 当時のアニメ作品は、より子供が観ることを強く想定していた故なのだろうが、ナラティブな要素は抑えて歌と映像のイリュージョンを楽しませようという志向がとても強い。子供たちにめくるめく映像と音のスペクタクルを楽しんでもらい、一緒に歌ったり踊ったりできるようにもしたいという狙いもあったかもしれない。実際、物語としては耳が大きくてダメ象の烙印を押されたダンボが、空を飛ぶことでサーカスの人気者になってめでたしめでたし、とシンプルな立身出世譚になっている。ここでめでたしと終われるのがいかにも当時らしく、アメリカン・ドリームに支えられた楽観的人生観を謳歌している。だが、昨日の日記に書いたように、今回リメイクされた実写版ではここでまだ物語の半分で、その後は悪い興行師に利用されかけて逃れ、母親と共に故郷のアフリカへ還る筋書きになっているのが、名声や出世ではなく「本当の幸せ」を問う形になっていていかにも「現代風」だ。

 そんなわけで、このアニメ版では物語を追うことにはそれほど意味がなく、むしろ歌と映像のスペクタクルを楽しむことが重要になってくる。ミュージカル映画と同じ楽しみ方だ。だからダンボが空を飛ぶ物語的なクライマックスよりも、その直前の、うっかりお酒を飲んでしまって酔ったダンボと鼠のティモシーが見る幻覚=「ピンク・エレファント」のほうが強烈に印象に残る。お酒に酔った幻覚なので、考えように酔ってはかなりアブナイ。覚醒剤で逮捕される芸能人に通じるものを感じてしまう。でもこの強烈なイリュージョンは実に圧巻。一緒に観ていた妻が、この場面で「象が象に見えなくなってくる」と言っていたが、まさに象徴的。それほどにインパクトのある場面なのだ。実写版ではこの場面はないが、別の形できちんとリスペクトされており、その表現方法が実に上手い。その他、サーカス列車の造形や鼠のティモシーなど、アニメ版でとても重要だったが実写版では出てこない要素も形を変えて登場しており、バートンのアニメ版への愛を感じる。

 この古典的名作にはディズニーが巨大「帝国」と化す前の、ウォルト・ディズニーが描いた夢と創作のスピリットが詰まっていて、実に心を熱くする。まさにスティーブ・ジョブズが作っていた頃のアップル製品にも通底する、米国という国が持つ美的創造の「地力」をひしひしと感じるのだ。ここには、「創造」の原点がある。今回の実写版は、この「原点」を目指すための、あるいは取り戻すための創作的な試みだったのかもしれない。

(2019年5月17日投稿)

耳の大きな象の物語

 ディズニーの実写版映画『ダンボ』"Dumbo"を、公開初日に鑑賞。多分筆が滑ってネタバレが含まれていると思うので、未見の方はご注意ください。

www.disney.co.jp

 ここのところ往年の名作アニメを実写でセルフリメイクするのにずいぶんと熱心なディズニーだが、『プーと大人になった僕』が予想以上に素晴らしかったので、意外にもこのリメイク路線がなかなかクオリティが高いなと思った。変に「子供騙し」しておらず、きちんと大人の鑑賞にも耐えうる内容にしているのがいい。そこで、プーさんだけ観てダンボは観ないというのは反則でしょう。と思って観てきた。

 ディズニーの往年の名作であるアニメ版の『ダンボ』は、1941年の映画。なんと戦時中だ。翌日このアニメ版をレンタルして観たのだが、とても70年以上前の、太平洋戦争の最中に作られた映画とは思えないほどクオリティが高く、さすがに年月が経っても色褪せない古典的名作だと遅まきながら感心。

 その不朽の名作をティム・バートンTim Burtonが監督して作られたリメイクということで、どんな感じになるかと興味津々だった。だが表面的なバートン「らしさ」はやや封印気味(ドリームランドのレトロフューチャースチームパンクな造形にはバートン好みが全開だったが)で、手堅くまとめたな、という印象。ディズニーのアニメーター出身のバートンとしては、古巣で「お仕事」に徹した、という感じだろうか。フツーに娯楽作品として面白かった。物語としては心地よい予定調和、ラストがややあっさりしていた気もするが、1941年のアニメ版と比較すれば、ある意味「現代的」な終わり方とも言えそうだ。

 とにかくダンボの造形がかわいい! プーさんなどと違って、ダンボはひたすらフツーのアフリカゾウ。母親や他の象たちは造形的にもそのまんま象、フツーにリアルにただの象なのだ。アニメならともかく、実写でその「ただの象」らしさを損ねずにどこまでキャラクター性を出せるのか、ちょっと気になっていた。だが実際に映画に登場したダンボは、大きい耳も丸い頭もつぶらな瞳も、リアルな象らしさとキャラクター的愛らしさの間でうまくバランスをとっているなという印象。大きい耳で飛ぶシーンは圧巻の一言。胸がすくよう。この映画の最大の見どころといってもいい。

 でも、この映画は大人の鑑賞にも耐えうる実写リメイクだ。アニメ版にはなかった、ダンボにまつわる人間ドラマが物語の前面に押し出され、ダンボの母を想う気持ちがそこにオーバーラップしてゆく。アニメ版の上映時間は1時間少々。今回の実写版は2時間弱で、ほぼ2倍の長さ。アニメ版が「ダンボはサーカスの人気者になりました。めでたしめでたし」で終わっているのに対して、この実写版では人気者になるのが物語のちょうど半ばくらい。そしてそれ以降の物語が残り半分を占め、この「人間ドラマ」が全編に加わっている、いやむしろ人間側の視点を主にして語り直されていることで2倍に膨らんでいるのだ。これは、現代において古典のクオリティを保ちながら語り直すのに必要な膨らみ方だったと思う。むしろ、飛行によって人気者になったダンボと周りの佳き人々が、人間社会の欲望によっていかに翻弄され歪められたかこそが、ティム・バートンの最も描きたかったことではなかったか。かなりファミリー向けにマイルドに丸められてはいるが、ここには『シザーハンズ』や『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』『チャーリーとチョコレート工場』など過去のバートン作品と通底する、「異端なるもの」の悲哀が込められているのだ。耳が大きいことで「普通の象」ではないダンボ、「まっとう」な人の暮らしから外れたサーカスの団員たちは、あらかじめ普通と異なる「異端者」の烙印を押された存在で、その悲哀を描き、それへの共感で包み込む。まさにティム・バートンらしさの真髄だ。

 その視線は、映画の中に登場する興行師たちにも注がれている。第一次大戦後の1919年という絶妙な舞台設定の中で、消えゆく昔ながらのサーカス団と新しい遊園地ドリームランド(ディズニーランドの歪んだ鏡像にも見える。バートンの皮肉か?)の対比。両者に共通するのは「見世物小屋」が本質的に持ついかがわしさ(現代的な視点からすると人権的に確実にNGになりそうな)と、そこにつきまとう悲哀。それはいつの時代でもエンタメ産業全てが抱える「興行師=山師」的なダークな哀愁でもある。マイケル・キートンMichael Keatonが演じる、ドリームランドを主宰する興行師はいちおう「悪役」ではあるが、単なる記号的な悪者ではなく、興行師というものが本質的に持つ危うさを常にまとっているように見える。この辺りは演じるキートンの上手さか。「善玉」たるサーカス団長も同じ「匂い」を持ち、常に危うさを孕む存在として描かれる。こちらもダニー・デビートDanny DeVitoが好演。

 脚本にもう少し「粋」なところが欲しかった気もするが、総じて良い映画だったと思う。アニメ版へのオマージュが随所に散りばめられているのも実に良い(特に「ピンク・エレファント」!)。ダニー・エルフマンDanny Elfmanの音楽も、誠実なスコアで物語を盛り上げていて好感。

ダンボ オリジナル・サウンドトラック

ダンボ オリジナル・サウンドトラック

 

(2019年5月16日投稿)