困難に立ち向かう人々の物語

 いわゆる新型コロナウイルス、COVID-19の感染拡大による異常事態の中で、アルベール・カミュの『ペスト』などの疫病を題材にした小説やノンフィクション本がよく読まれていると聞く。

 やはり未曾有の状況下にあると、私たちは、かつて似たような状況の中で人々がどう振る舞い、どのような思考の元で行動していたか、フィクションとノンフィクションとを問わず本の中にヒントを求めるのだろう。書物の中に蓄積された先人や同時代の人々の知恵は、私たちの手の届くところにあるのだ。外出自粛の影響なのか書籍の売り上げが上がっているとも聞く。この異常事態の中で聞くことのできる、数少ない良い話のひとつだ。本を開けば、私たちの世界も広がる。本を読むことで、私たちは新しい学びを、新しい世界や人や考え方に接して、自分の世界をどこまでも広げてゆける。それは、生きている限り止むことはない。逆に、本を読むことを止めてしまった人は、そこで生きることを止めてしまうのに等しい。

 さて、疫病の感染拡大といえば、忘れてはいけない私の大好きな小説があるじゃないか、とハタと気づいた。今まで失念していたのが不思議なくらい、まさに『ペスト』と同じくらいにこの状況下で読むべき本がありました。

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 コニー・ウィリスConnie Willis著『ドゥームズデイ・ブック』"Doomsday Book"。

 大森望氏による邦訳版は早川書房より。写真の、私が持っている1995年に最初に出た単行本の代わりに、現在はハヤカワ文庫版上下巻が手に入るようです。

ドゥームズデイ・ブック(上)

ドゥームズデイ・ブック(上)

 

  中世好きの若き編集者だった私は、中世ヨーロッパを舞台にした冒険物語と思って、大した予備知識もなくこの本を買って、その実に巧みなストーリーテリングにまさに「ページをめくる手ももどかしい」ほどハマった記憶がある。著者コニー・ウィリスは現代米国SF界の女王と称されるほどの実力派SF作家だが、訳者の大森望氏によれば「『ドゥームズデイ・ブック』は世界のSF賞を総ナメにした折り紙つきの名作」とのこと。実際、この作品はSF界の三大タイトル(ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞)を全て受賞するという快挙を成し遂げている。そうは言っても、難しいSF用語は一切出てこないのでご安心を。端役に至るまで魅力的な登場人物たちが織り成す荘厳な悲劇と合間のコミカルな挿話の、巧みに構成された物語世界に引き込まれること間違いない。物語の面白さの基本を教えてくれる小説、というのは言い過ぎだろうか。

 とまあ平常時であっても私の最大のオススメ小説の一冊なのは間違いないこの小説が、物語の大きな鍵として「疫病の感染拡大」が出てくるのが、今まさに「読まれるべき本」として挙げる最大の理由だ。

 物語の舞台、21世紀半ばの近未来オックスフォード大学では、過去へのタイムトラベルが可能になり、史学生は過去に赴いて「現地調査」をすることで研究をおこなうという設定。主人公キヴリンは、念願だった14世紀のオックスフォードに赴いて調査をするはずが、予想外の苦難が待ち受けて……。あまり詳しく書いてしまうとネタバレてしまうので割愛するが、並行して進む中世と近未来の両方の物語で、疫病が重要なファクターとなって登場してくる。

 そして、この長大な物語の最後に待ち受ける、心を強く揺さぶる印象的な読後感。ウィリスのこの後の長編小説にも共通するが、物語の中で、絶望的な状況下でも困難に立ち向かい努力しようとする無名の人々の姿に、深く心を打たれるのだ。過酷な状況が続く最後の方の展開の中でも、主人公キヴリンと司祭ローシュの健気に打ち込む姿には、本当に感極まって、涙が溢れてしまったくらいだ。

 ウィリスは米国人だが、この物語は中世も近未来も共に英国オックスフォードを舞台にしている。そんなわけで、中世ヨーロッパ好きで英国好きの私としては、物語の情景描写を読むだけで大変幸せな気分だった。

 大森氏は「SFと文学のもっとも幸福な結婚」とさえ評している。未読の方は、ぜひこの機会に読んで欲しいと強く思う。

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(写真は2016年9月18日、英国オックスフォード近郊イフリーにて撮影。聖メアリー教会。St. Mary's Church,Iffley)

(2020年5月10日投稿)