日本の自画像

studio_unicorn20090606

日本の「自画像」1945~1964
 雨も昼には上がり、雲間から青空が覗くように(写真)。けっこうひんやりした、いい感じの外出日和になった。
 妻と自転車で砧公園へ。公園内の世田谷美術館で、タダ券を持っていた「日本の自画像」展を観る。
 展覧会名から、日本人画家の自画像の展覧会かと誤解しそうだが、副題に「写真が描く戦後 1945-1964」とあるとおり、これは写真展。戦後から東京オリンピックまでの敗戦・復興・成長期に撮影された写真作品を展観して、戦後初期の日本の写真と日本そのものを探るという、なかなか意欲的な展覧会だ。
 出展されている作家は、以下の11人。

 いずれも戦後の日本写真界を担った第一世代、錚々たる顔ぶれである。客層も高齢者と若者が多いように見受けられた。高齢者の方は当時の写真を見て懐かしもうという気持ちなのだろうと想像するが、若い人たちは昭和レトロを新鮮な感覚で捉える&第一世代の仕事を観たいという人が多いのかな。私たちももちろん、後者に属しますが。正直どんな展覧会か予備知識を持たずに来た分、とても楽しんで観た。セタビの写真展は質の高い企画が多い。
 在パリの日本写真研究家マーク・フューステル氏Mark Feustelによる企画・編纂というのも興味深い。我々は鏡がなければ自分の顔を見ることができないように、「外」からの冷静かつ客観的な視点の光で照らすことによって、我々は日本の"姿"を「知る」ことができるのだ。我々日本人が空気のように当たり前に思って気づかないことを見ること、それこそが一番重要なように思う。
 展示されている写真は、もちろん全てモノクロ。昭和の一時代の「記録」として、その写し出された風景や事物・人物らが確かに現在と繋がっていることへの、眩暈のような不思議な感覚を味わう。その一方で、これらの写真は「記録」であると同時に優れて「表現」であった。撮影する対象・構図・シャッターチャンスそして作品の選定は、全て作者の意思によって決定される。これを失念している人は多く、それが、ともすれば(特に日本では)写真の「記録」としての側面ばかり強調されて、写真を「アート」として捉えることのできない人を増やしてしまうのである。それは大いなる誤解である。写真はそもそもの起源から「記録」であると同時に「アート」であった。今回展示された、この時代の写真作品は、確かに現代の作品よりも「記録」としての側面が強いかもしれない。だがそれでも尚、これらは表現者による「作品」なのである。そして作品のオリジナルプリントに向き合い、鑑賞する喜び。
 個人的には奈良原一高氏(全然知らなかったのだが)の作品がとても気に入った。