「自然」と「文明」とのせめぎ合い

 

 妙にしつこくて申し訳ないが、映画『イニシェリン島の精霊』"The Banshees of Inisherin"について、あと少しだけ書いておこうと思う。

 なお、この作品に関して、先行して9月5日の日記9月6日の日記を書きました。ここからご覧になった方は、上記2つの日記を先にお読みいただけると幸いです。また9月6日の日記とこの日記には、映画の結末に触れている箇所があります。未見の方はご注意ください。

 

 

 この映画での主人公二人、パードリックとコルムの対立には、人間社会の中での「文明と自然のせめぎ合い」のようなものも投影されていると思う。人類という、元は大自然の中より出でてきた生き物の一種なのに、これだけの文明社会を築き上げてしまった存在。だから、全ての人間の人生には、その拠ってきたるところである「自然」と、既にその所属であること久しい「文明」(もしくは「文化」)の間のせめぎ合いが常に作用している。今さら私が説明するまでもなく、多くの人が話題にしていることではあるが。例えば生物学者福岡伸一さんは、「ロゴス」と「ピュシス」という言葉を用いてそのことに言及なさっている。

 『イニシェリン島の精霊』で語られている寓話性が高い物語の中に、そのせめぎ合いが織り込まれているように思う。最果ての孤島の大自然の中で描かれる、それまで親友であった二人の「ちっぽけ」な対立の物語。その背後には、自然と文明の間での果てしない押し返しが、通奏低音のように響き続けているのだ。

 コリン・ファレル氏が演じる主人公パードリックは、この島の大部分の住民と同じく貧しい農民だ。農民は自然と向き合って暮らし、働き、収穫を得ている。人間の中では最も自然に近く暮らす人々、より自然に近い存在だ。人によっては「原初的」な人間と言い換えるだろう(正直、私自身はこの文脈で使うのを躊躇する言葉だが)。中世ヨーロッパの農民は、いや場所によっては近世(それどころか現代)でも、人間と家畜が同じ家の中で寝起きするのは当たり前だった。パードリックが可愛がるミニロバのジェニーは家畜というよりは愛玩動物的な存在だが、彼はジェニーや家畜を当たり前のように家の中に入れては、一緒に暮らす妹のシボーンに嫌がられている。彼のこの家畜を家の中に入れる行為は、彼の「自然」との距離の近さを直接的に表している。

 一方でブレンダン・グリーソン氏演ずるコルムは音楽家であり、この島の中では数少ない「文化=文明」の代表として描かれている。彼が孤島の雄大な風景の中でフィドルを弾く姿は、大自然に押し包まれながらも人間文明を守る小さなともしびを灯す姿であるかのように映る。コルムの家の中は壁に絵画が飾られ、世界各地から集められた仮面があちこちにぶら下がっており、家主の幅広い文化的関心を物語る。ともすれば家畜で犇くパードリックの家とは対照的だ。そしてもちろん、コルムの職業であり主たる関心=音楽。演じるグリーソン氏は実際にフィドルの名手だそうで、その手腕は映画の中で遺憾無く発揮されている。彼の服装も他の島人よりはやや「文明的」だ。「進歩的」と呼ぶ人もいるかもしれない(これまた私自身は使いたくない言葉であるのだが)。

 大地に這いつくばって生きるのに精一杯で食べる手段が全ての「農民=自然=原初」と、より文化的である種クリエイティヴな「文化民=文化・文明=進歩」との対比、そのせめぎ合いと断絶。もともとその立場の違いを超えて気のおけない親友だった二人が、ある時にその違いが明らかになって先鋭化する。その過程が、この物語の中に込められているように思われるのだ。

 実はこの島にはコルムの他にもう一人、彼よりさらに「文化的」な人物がいる。ケリー・コンドン氏Kerry Condonが演じる、パードリックの妹シボーンだ。彼女の知性と教養の高さは、彼女が本を読んでいる場面がとても多いことからも直感的に窺われる。それと、兄が家の中にロバや家畜を入れることをひどく嫌うことも、彼女が「文明」の側に属していることを指し示している。それでも兄思いのシボーンは島にとどまって兄と暮らしている。だがもちろん彼女の「文明」性は本人が最もよく認識していて、本心はアイルランド本土に渡ってより「文化的な」仕事をしたいと熱望しており、実際に映画の終盤で島を出ることになる。この、物語の中で最も「先進的」な存在が女性として設定されているのは、もちろん偶然ではあるまい。ここにも映画の作者たるマーティン・マクドナー氏のある「意図」が込められているような気がする。

 「原初的」な農民ばかりで閉鎖的な孤島の中で、シボーンとコルムだけが「文化」を理解している。コルムにもそれが分かっており、彼女の言葉には冷静に耳を傾ける態度を見せる。「自然」と「文明」の橋渡し。彼女の存在がコルムとパードリックの間の「かすがい」の役を果たしているわけだが、彼女が島を去ることで二人の関係は破滅的事態に向かうことになる。

 

 

 全く話が変わるが、この映画は「ブラック・コメディ」という種類の映画だそうだ。寡聞にして初めて聞く言葉だ。どうも頭の固い私は、この物語に「コメディ」という言葉を当てはめることに躊躇を感じてしまう。といって主人公二人がカタストロフィの末に死ぬわけでもないので(むしろ一歩引いてみれば、物語そのものがいい大人同士の他愛もない喧嘩に過ぎない)、悲劇とも違うのかな。まあジャンル分け自体がそもそも無意味なことだと思っている私なので、どうでもいいといえばどうでもいいけれども。9月6日の日記で記したように、抽象的寓意を物語全体に滲むイヤ〜な雰囲気とともに描き出すことを目指した作品だということを踏まえておけば、ジャンル分けなどどうでもよろしい、と私は思う。

 それにしても、散々二度と観ないとかいっておきながら、映画の舞台や背景に論考まで収録した秀逸なパンフレットまで買って、これだけああだこうだと論考したのだから、ある意味「元は取った」というべきか。

 というか、益田ミリさんが「好きじゃない映画でも、好きなところがひとつもない映画はない」(朝日新聞2023年6月3日朝刊コラム「オトナになった女子たちへ」より)と仰っているのが、本当にその通りだと深く共感する。まさに至言。

 

(これ以外の写真は、2014年7月にアイルランド西部沖合のイニシュモア島にて撮影)

(前回日記の翌日くらいに大部分を書いたのですが、例によって目のゴリゴリに悩まされてしまい……。ネット上に上げるのが遅くなってしまいました)