「寓話を物語る」ということ

 

 昨日の日記に続き、マーティン・マクドナー氏の脚本・監督による映画『イニシェリン島の精霊』"The Banshees of Inisherin"について書く。本日の文章は結末などのネタバレに触れておりますので、映画を未見の方はご注意ください。

 

 

 様々な捉え方が可能な作品だと思うが、私はある種の「寓話」である、と思った。単に寓意性の高い物語というだけでなく、寓話=ある抽象的な意味や教訓を寓意で表現するのを最大の目的として創作された物語。よく物語の中で、止むを得ず悪いことに手を染めようとする人物の内面の葛藤として、その人の良心を表す天使と悪い心を表す悪魔とが争う場面が出てくるが、あれが抽象概念の擬人化という寓意表現の分かりやすい一例だと思う。この映画はそのような単純な寓意の表象ではないが、物語中の登場人物や事件などすべての事象は、ある抽象的(教訓的?)寓意を物語の形で提示するために作られているように思われるのだ。登場人物はそれぞれある種の人間の典型をベースに創造されているし、物語はどう転んでも作家が意図する方向(ここでは主人公二人の仲違いがエスカレートしてゆくこと)へ向かってゆくように展開する。そのためには、現実世界での人間や出来事だったらあり得ないようなことも起き得る(例えば、草食動物であるはずのロバが人間の指を食べたり、とか)。それを「現実と違うじゃん」と問い詰めるのは、もちろん間違っている。これは寓話なのだから。

 映画の時代を今から100年ほど前の1923年にしたのも、物語が寓話として機能する上で絶妙な設定だと思う。ひとつは、この時代はアイルランド内戦の真っ最中で、まさにこの物語の寓意を向ける先である「戦争」が目の前で起こっている状況だったこと。もうひとつは、100年ほど遡れば現在とほどよい距離が生まれて、物語がある種の「説話」的要素を強めるので、寓話として描きやすくなることだ。あまりに現在に近い時代設定だと、配慮すべき要素が過多になりリアリティのハードルが上がりすぎて、物語が寓話として機能しにくくなる恐れがある。

 ただ、マクドナー氏は主要な登場人物を、単なる寓話的典型を超えてとびっきり人間味ある存在として描き出している。それはインタビューの中でマクドナー氏ご本人も言及しているように、主人公二人をそれぞれコリン・ファレル氏とブレンダン・グリーソン氏に当て書きしていることが大きい。さらに映画の中でその二人の名優が実際に演ずることによって、さらに人間臭い存在へと息を吹き込まれているのだ。だから私たちがスクリーンに目撃する彼ら登場人物たちは、本当に存在してもおかしくないリアルな人物として私たちの眼に映ることになり、その「リアルさ」が逆に寓話としての説話めいたストーリーとのギャップを広げる。そしてそれ故に観客たる私たちは、物語のゆくえにおののくことになる。

 実際、この「人間的肉付け」のリアルさといったらない。まさにマクドナー氏の手腕というべきなのだろう。グリーソン氏演ずる音楽家のコルムが、ファレル氏演じる長年の親友パードリックに絶縁を宣言するその理由が「これからは作曲と思索に人生を使いたいので、お前のつまらない無駄話に時間を取られたくない」というもの。これって、私などにはすごく身につまされる思いがする。自分もだらだらと人生の大切な時間の無駄遣いをしていないだろうか?と。もちろん、自分の時間の使い方がまるで上手くないのは重々承知ではあるが、それはともかく残された時間の長さを数えるような年齢になればなるほど、この命題はより一層に切実に響くのではないか。それに対して、パードリックの気のおけない人々と過ごす時間を大事にしたい心情や、己が本当につまらない人間なのかと徐々に不安に陥るさまも、すごく心に染みてよく分かる心地だ。

 マクドナー氏は、コロナ禍を契機として「世界中の人々が感じていること」で、「観客がコルムとパードリックのどちらに共感するのかには、とても興味が」あるという。私から見ると、全ての人の中に(程度の差はそれぞれあれど)二つの心情が共存しているように思われる。

 

 

 で、この物語が描こうとする「寓意」とは何か。それは島の対岸の「本土」で起きているアイルランド内戦とこの物語が照応していることからも明らかなように、「いかに人と人は分かり合えないか」だ。「人は他者を本当に理解しているのか」と言い換えてもいい。どんなに深い友情の二人であっても、互いの全てを知るわけではないし、お互いの心の裡を全て理解しあっているわけでもない。実際には、些細なところで互いにすれ違ったり、ふとしたことで相手の心に「跡」を刻みつけることも多い。その些細なすれ違いや押し殺した互いへの不信・不満が長い年月の中で積み上がり、積み上がった果てにそれが露呈した時には、もう戻れないところまで来てしまっている。修復しようという努力が無駄なあがきになって、事態をさらに悪化させる。それは「戦争」という不条理を寓意的に表象してもいる。二人の不毛な争いは、「戦争はこうやって起きる」ことのメタファーなのだ。

 そしてさらに重要なのは、マクドナー氏が提示した結末が「それでもなお、人と人は繋がり合える」と説いていることだ。完全に理解し合えなくても、対話によってお互いを繋ぎ続けようと努めることができる、その努めるさまを互いに認め合うこともできる、と。なぜなら「それでも人生は続く」のだから。二人はこれからも、同じ世界の中で顔をつきあわせて生きてゆくのだから。

 だからパードリックに口を聞かないと誓うコルムは、彼への深い友情そのものは抱き続けていて、苦境に立ったパードリックを助けることになる。そしてパードリックが可愛がっていたミニロバのジェニーが自分のせいで死んでしまった際には、彼に深い喪失の悲しみを味わわせてしまったことを深く後悔する。そのためパードリックがコルムの家に火をつけた時は、コルムは彼への償いのために家の中に留まるのだ。もちろん、そのまま焼け死んではパードリックをさらに深い悲嘆に落とすことになるので、家が焼け落ちる前にコルムは脱出するのだが。

 そしてラストの場面、二人の海辺での横並びで互いを見ない対話の場面では、愛犬を預かってくれたことに礼を言うコルムに、パードリックは"Anytime."(いつでもどうぞ)と返す。これは彼の「いつまでもお前の友達でいるぞ」宣言であり、友情の「再確認」である。そしてこれが映画の最後の台詞になる。口をきかなくても争いに発展しても、以前と全く同じ形でなくても、それでもなお消すことができない友情があること。これがこの映画のラストにマクドナー氏が託した「希望」である。まさかここで「この結末で、これまでのアレコレは一体何だったのか?」とか問うトンチンカンはいないよね? この物語の道筋があったからこそ、友情のある部分が損なわれずに残ったことが活きるのだから。

 

 

 互いの最も大切なものを犠牲にしてまで争った二人が、かけがえのないものを失って初めて「我に帰る」。喪失を受け入れた上での、より深い相互理解と歩み寄り。そして残った友情のかけらという「希望」。これこそが、この物語のメタファーが向けられている「戦争」をも終わらせることができるかもしれない、とマクドナー氏は説いているように思うのだ。

 ラストの場面において二人の背後で炎上するコルムの家は、これまでの二人のすれ違いや諍いのゴタゴタを浄化する「みそぎの炎」のようにも見え、浜辺に並んで佇む二人の表情は憑き物(ある種の「精霊」のようなものか)が落ちて呆然と、あるいはせいせいした表情になっていた気がする。そして二人は、昨日までとは少し違う形ではあるが、日常に立ち返って「人生」を続けてゆくのだろう。

 

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(写真は全て、2014年7月にアイルランド西部およびイニシュモア島にて撮影)