この国の「夏」の終わり

 この国の「夏」は、確かに終わろうとしていた。白いワンピースと麦わら帽子の少女の姿は、間違いなくこの国が常に上向きで、「暑かった」時代をノスタルジックに象徴しているのだろう。

 

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 先日読了した、恩田陸氏の最新長編小説『スキマワラシ』。8月28日の日記に書いたように、現代日本文明の深層に切り込んでいくような側面も窺えて、非常に読み応えのある小説であった。

 東北の民間伝承に出てくる座敷童子現代日本にアップデートして現れた物語、といえば話が早いのかもしれないが、恩田陸氏は、そのようにひとことで言い表せるような物語は、作らない。そんな「分かりやすい」ことは決してしないのだ。むしろ、単純な言葉では言い表せないような、それこそ「隙間」のようなモノを、言葉を積み重ね「なんとなく」、でも実態を徐々に持つように形づくってゆくのを得意としている。音階でいうなら、ドとかファとか半音とか名前を持ち誰でも分かる音ではなく、半音と半音との間の、一般的な12音階では明確に表現できない「音階のゆらぎ」を表現しようとするかのような、そんな作風を、私は恩田氏の小説から常に感じてきた。

 この『スキマワラシ』でも恩田氏はその本領を発揮していて、450ページ超に渡る言葉と文章の積み重ねの果てに、まさに「アレ」としか呼び得ないものごとが現前するのを、私たちは立ち会うことになる。

 そして、恩田陸氏の小説上のもうひとつの「得意技」は、誰もが「普通」と思って当たり前に存在すると思っているものごとを、人々が考えもしなかった側面から照らして、その意外な姿を浮かび上がらせるというものだ。この長編では、大胆にも(?)その対象が、現代日本の文明そのものに向けられていることが目を惹く。物語の中盤、第8章のほぼ全部と第9章の一部において、恩田作品としては異例なほどかなり意図的に、主人公の兄弟二人に現代文明について議論させているのである。

 もちろん恩田作品はこれまでも、どこか文明批評的な要素を含んではいるのだが、それらは物語展開の中で滲み出すように現れていたように思う。小説の中で、もちろん登場人物の口を借りてではあるが、ここまで正面切って現代日本文明を「論じる」形で出たのは初めてかもしれない。それほどまでに作者の、現代日本に対する危機感が強まっている表れか?とも思えてしまう。折しも、この小説を読了したあとで読んだ京極夏彦著『今昔百鬼拾遺 月』でも、現代日本のあり方に通じる問題を登場人物が論じる場面が、以前の京極作品に比べてかなり多い印象を受けていたところだ。今年の新型コロナウイルス禍によって、現代日本が抱える様々な歪みや問題が一気に顕在化したが、どちらの作品も初出はそれ以前だ。問題は昨日今日始まったものではなく、この異常事態で「見えてきた」だけなのだ。

 『スキマワラシ』での、この現代日本文明論の中で、特に慧眼だ私が思ったところがある。それは、今の日本の置かれている状況を第二次世界大戦の「ダンケルクの戦い」になぞらえている、以下の箇所。

 日本てさ、今まさに「ダンケルクの戦い」を実行しなきゃならないし、実行しつつあるんじゃないかって思うわけ。
(本文249ページより)

 ダンケルクの戦いは、言うまでもなく第二次世界大戦で最も重要な戦いのひとつだが、これが「撤退戦」であることがポイント。つまり、これからの日本は、よく考えて冷静にうまくダウンサイズして、まさにダンケルクの戦いのような見事な戦略的撤退をおこなう必要がある、と。多くの人が感じている日本の閉塞的状況を打開するのは、闇雲に「前に進む」ことではないと訴えているのだ。これまで「前」だと信じて進んできた方向が、果たしてまだ「前」であるのかどうか、も含めて。

 これは明らかに、現代日本に生きる私たちに向けた、警鐘である。この例え方はさすがに恩田陸氏ならでは、とすごく印象に残ったのと同時に、ここまで明確に「これからの日本の進むべき道」を語っているのは、恩田陸氏らしくないやり方だとも思った。「らしくない」ことをするほどに、現代の日本人に「警告」せねばならないという切迫した意識が高まっているのだろうか。この警鐘は、非常に重く響く。

 ただ、『スキマワラシ』の物語そのものは、あくまでも古道具屋を営むタロウとサンタ兄弟と、後半で二人に関わる現代アーティスト・ハナコのパーソナルなストーリーとして語られる。だが、それと並行して、三人が最終的に遭遇する「それ」が、実は多くの日本人の共時体験として語られ、ある種の都市伝説と化して世の中に拡散していく様も描かれるのだ。ここにおいて、主人公たちが語った現代日本文明論が、物語の骨子と密接に結びつく。主人公たちの個人的な物語であった彼らのルーツ(根源)を辿る軌跡は、日本社会全体が昭和・平成という「過去」をノスタルジックに見つめる視線と重なってくる。もう、日本社会の「夏」の盛りは終わったのだ。そして、この社会が「ダンケルクの戦い」のごとき見事な撤退戦をおこなうために必要な「萌芽」を、物語の終わりにて、主人公たちが私たち日本人全体に差し出してくるのだ。

 実際彼らの生業そのものが、そのための萌芽そのものと言ってもいいだろう。タロウとサンタは古道具屋を営んでいる。いわゆる骨董品ではなく、あくまで「古道具」なのがミソ。アンティーク(antique)ではなくてブロカント(brocante)の方ですね。大量生産品であっても古いものなら対象になりうる。そんな古いものに、特に「古き佳き時代」の忘れられた「遺物」に、新しい価値を見出して人々に提示する仕事である。それは、これまでの価値観や秩序に疑問を投げかけ、新しい視点や新しい価値観を持ち込むことに他ならない。弟のサンタ(この物語の語り手)にはさらに、触れた古い物体の「記憶のようなもの」が見えてしまう体質まで備わっている。そして、物語の中盤から登場して二人に深く関わるハナコは、現代アートを制作している。アーティストもまた、作品を通して既存の秩序への疑問符や新しい価値観を提示する存在だ。この三人が物語の終盤に、あるイベントで協業して、ひとつの作品を作り出す。

 これの意味することは明らかだ。「古き佳き時代の遺物」を現代アートに繋げ、新しい表現と価値観を生み出すこと。まさに「古きものから、新しいものを創り出す」ことだ。これこそが、恩田陸氏がこの小説を綴ることで提示する、私たちが取り得る「撤退戦」のひとつのかたちなのだろう。

 「ノスタルジーの魔術師」の異名をとる恩田陸氏が、そのノスタルジックな視線を日本社会そのものに向けたときに、この『スキマワラシ』が誕生した。この物語は、過ぎ去ったこの国の「夏」への鎮魂歌、レクイエムなのである。その上で恩田氏は、消え去ろうとする古い価値観や体制や秩序にしがみつくのはもう終わりにして、しなやかに変化のタネを萌芽させて新しい未来への一歩を踏み出そう--そう、私たちに呼びかけているように思えてならないのである。

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(写真は、2020年9月8日に撮影)

 

 最後に、小説技法上の「仕掛け」について一言。恩田陸氏はこれまでも、ある種の効果を狙って、小説技法上の「仕掛け」をいろいろ盛り込んできた。中にはとても奇抜なものもあって、長編の前半を二人称で書いたり、明らかに物語の舞台がどこか判定できるのに、地名を始終イニシャル表記して匿名性を通したりしている。

 『スキマワラシ』でのそういう「仕掛け」は、会話の科白の表記方法にある。あるひとつの状況を除き、ほとんど全ての会話の科白に、現在の日本語小説で一般的なカギカッコの括りがないのだ。ただし、地の文に組み込まれた短い台詞だけは、さすがに分かりにくさを避けたのか、カギカッコ付きになっている。これは何を狙ったのだろうか。カギカッコを使わずに、地の文と同じように会話を表現することによって、作者は、何か現実離れした、説話っぽい雰囲気をこの小説に持ち込もうとしたのではないだろうか。現代日本の日常的な現実社会から「リアルさ」を剥ぎ取って、フラットに眺めるために。

 そして、終盤近くの例外的なひとつの状況=タロウとハナコとサンタが三人揃って、作品の制作によって物語の核心=「スキマワラシ」に近づいてゆくいくつかの場面のみで、会話が一般の小説と同じくカギカッコ付きで表記されているのである。まるで、この物語のそこだけがリアルだ、と言いたいかのように。実際には、客観的にそれらの部分を見ると、むしろ最も現実離れして、まさに彼らが「異界」へと踏み込もうとするかのような場面になっているのだが、会話文でのカギカッコの変則的な使い方が、それを逆転させているのが面白い。この「仕掛け」によって、作者が提示したかったものの効果が高まっているように感じるのだ。

 それにしても、実在か架空かわからないがレトロ建築や「昭和」な建物はわんさと出るし、いにしえのタイルや建具など古道具や現代アートもたくさん出てくるしで、私の好きなものばかり登場する小説であった。だから、読んでいて非常に楽しかったし、またレトロ建築巡りや古道具屋巡りなんかに出かけたくなってしまった。この異常事態が早く落ち着いて、そんなことを気兼ねなくできる日を楽しみに待っている。

スキマワラシ

スキマワラシ

  • 作者:恩田 陸
  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: 単行本
 

 (2020年9月10日投稿)