さらに、夏の終わり。

 まさに今、この国は、いろいろな意味での「夏の終わり」に差し掛かっているようだ。

 そのことを改めて認識する、この頃である。

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 2020年9月7日の日記に書いた経緯で、予定から一週延期で本日放映された大河ドラマ麒麟がくる」第23話を観たときのこと。

 ドラマの中で、向井理演じる孤高の将軍・足利義輝が、長谷川博己演じる明智十兵衛(明智光秀)に、「夏は終わった……。わしの夏は……」と語りかける。麒麟がくるに相応しい平和な世の中を築けず、その気力も失い、盛りを過ぎてしまった己の無力さを嘆く台詞だ。自分が理想と希望に燃えて最も精力的に活動していた時期を、「夏」という季節になぞらえている。

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 この台詞を聞いて、私は少々びっくりした。

 なんと、ここでも「夏が終わる」のか、と。

 というのも、この日記のつい先日の記事で、恩田陸氏の『スキマワラシ』がこの国の「夏の終わり」を語る小説であると書いたばかりだったので。もちろん偶然の一致ではあるのだが、たとえ具体的な意図は無くとも、時代を覆う空気感は無意識に伝わるもの。なんというか、確かにこの国が(あるいは「この世界は」なのかもしれないが)今置かれている「夏の終わり」を、私たちはきちんと見つめなくてはならないのだ。そしてその下り坂をいかに上手く進むのか、がすごく重要だと改めて思う。そもそも「下り坂」という表現自体が、従来の価値観を踏襲した言い方に過ぎないのだが。

スキマワラシ (集英社文芸単行本)

スキマワラシ (集英社文芸単行本)

 

 こう書くと、「麒麟がくる」は室町時代の物語だから現代のことを言うのはお門違いだという的外れな批判が聞こえてきそうだ。だが、考えるまでもなくすぐ分かることだが、たとえ物語の舞台は16世紀であっても、ドラマそのものは2020年の日本人(と日本語を理解する人々)に向けて制作されたものである。これを観る「現代の私たち」が娯楽として楽しみ、「現代の私たち」が知識や教養を得る一助、あるいは「現代の私たち」の生き方を考える一助とするものだ。義輝のいう「夏の終わり」は、2020年の私たちにも向けたことばではないだろうか。

 今回の「麒麟がくる」は、2020年1月19日の日記でも少し書いたが、物語の時代考証は最新の研究成果を踏まえており、実に素晴らしい。物語の背景で展開される農村や街の風景、市場の活気などは室町時代を再現したかのような作り込みようで、観ているだけであの時代に入り込んだような気分になる。だが、その時代考証は物語をリアルに再現するためのいわば「道具」なのであって(だから軽視していい訳ではないので誤解なきよう)、物語の本質部分があくまでも2020年の日本に生きる私たちに向けて作られていることとは別である。「歴史は鏡だ」とは、あちこちで繰り返し言われることである。未来へ進むために私たちは、過去から、歴史から(その過ちも含めて)学ぶしかないのだ。

 己の無力さを嘆く義輝の姿は、決して過去に消えたひとりの「他人」の人間像だけではなく、現代の私たちにも繋がっている。2020年の私たちが直面する様々な問題やものごとも、同時に映し出しているのだ。そう思うが故に、義輝の呟く「夏は終わった」は、彼個人の単なる感慨を超えて私たちの心に響いてくる、そんな気がしてならない。

 この回のサブタイトルも、ずばり「義輝、夏の終わりに」。放映時期もまさに9月中旬で、実際の季節も本当に涼しい日が増えてきた夏の終わりだ。だがこれは、あくまで新型コロナウイルス禍による中断のせいで延期された結果なので、本来なら6月に放映される内容だったはず。もしかしたら放映を9月に延ばした時点で、実際の季節に合わせようとサブタイトルをこの、いつになくリリカルな題名に変更したのかもしれない。ここでも、意識してか無意識かにかかわらず、「夏の終わり」へのこだわりを感じるぞ。かの義輝と十兵衛の対面場面も、実にリリカルな演出だ。御所の庭に響く蝉の声が夕陽の日差しとともに胸に沁みいり、実に切ない。

 

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 リリカルといえば、サブタイトルも含めてこの回全体がとてもリリカルで繊細な印象を受けたのだが、それに関してひとつ気づいたことがある。いくつかある対話の場面(例えば十兵衛と妻・煕子の対話)で、台詞を話す人を背後から写すカットがとても多いのだ。

 通常の映画やドラマの対話シーンであれば、カメラは話す側の人の顔を捉えて写すことが多い。時折聴く側の人の顔が短く差し込まれて対話感を盛り上げることはあるが、メインで映すのは話す側の人の顔だ。ところが、この回の「麒麟がくる」では、かなり長い台詞(ほぼ「決め台詞」といっていい)を話している人を敢えて背後から写し、聴く側の人の正面顔をその肩越しに捉えているカットが、実に多かった。今回の「聴く側の人」はほとんどが主役たる十兵衛その人なので、私たち視聴者は相手の話を聴く彼の、話の内容によって微妙に変化する表情をじっくりと見ることになる。長谷川博己さんの演技力の確かさもあり、彼の「受けの演技」をある種のフィルターとして、相手の話すことばが一枚柔らかい布に包んだような印象で、私たちに届くのだ。

 だからリリカルな印象を受けるのだな、なかなか凝った演出だなと感心したのだが、突然ハッと気づいた。

 そうか、これもまた新型コロナウイルス感染対策のための、苦心の演出のひとつなのかも、と。

 要するに、近づいて正面から喋って飛沫が相手にかかる状況を、できるだけ避けているのだ。だから話す側の人を敢えて後頭部から写しているのか〜。もしかしたら話す側の人はマスクをして台詞を喋っているかもしれない(だから正面から写せない)。あるいは、その場では台詞を発さずアフレコで対処している可能性もある。その場合は、カメラ外からADとかが台詞を代読して、それを聴きながら「受け」の演技だけを長谷川博己さんが「エア対話」でおこなっているということになるか? それだけに聴く側の長谷川さんの演技力が、より一層重要になってくるなあ。さすがに実績のある、優れた役者さんだ。

 それを踏まえて改めて思い返すと、先に挙げた義輝と十兵衛の場面でも、二人が立ち位置や向き合い方を工夫して、近々と顔を向き合うのを避けるように(内容的にはそうすべきくらいなのに)動いていることが分かる。他の場面でも同様な配慮がなされていることに気づく。先に書いた通り、ドラマ自体はあくまで現代の視聴者に向けて作られているのだから、登場人物たちが率先して感染対策やソーシャル・ディスタンスの「模範」を私たちに示している、とも取れるな(笑)。

 これらは私の想像に過ぎないので、実際のところは分からない。だが「麒麟がくる」の撮影再開以後の現場では、かなり厳重な感染防止対策が取られていると聞くので、あながち全くあり得ないこととも思われない。合戦シーンを極力少なくするなど、非常に多くの制約があるとも聞く。その制約を逆手にとって、今回の印象的な対話場面のような効果を引き出せたのだとしたら、今回の事態を「奇貨」として生かしたが故、とも言えなくもない。

 

  そういえば、サントラ盤第2弾が出たんですね。ジョン・グラム氏John Grahamの音楽は、2020年1月19日の日記でも書いたようにとても気に入っていて最初のサントラもすごくいいので、第2弾も買っちゃうかも。

 「麒麟がくる」そのものについても、テレビ番組をほとんど観ない私にしては実に珍しく、これだけ毎回欠かさず観ているのだから、ちゃんと書かないと。とは思いつつ、なかなか果たせない……。

 

(写真は2枚とも、2020年9月11日に世田谷区立・次大夫堀公園民家園にて撮影。使用カメラはCanon EOS Kiss M)

(2020年9月16日投稿)