セーヌの貴婦人よ

 朝起きて、パリのノートルダム大聖堂が火災で深刻な被害に遭ったという知らせに接し、暗澹たる悲しみに包まれた。なんという悲劇。13世紀に建造されて以来700年以上の間、数度の革命も二度の世界大戦も乗り越えてパリの市民と苦楽を共にしてきた、ゴシックの優美な貴婦人。本当に、言葉がない。

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 大学時代に中世ヨーロッパの美術史を専攻して以来、中世ヨーロッパの美術や建築をこよなく愛し続けてきた私には、あのセーヌ川に映る優美な大聖堂の佇まいはこの上ない喜びだった。700年の間パリの人々、いや世界の人々にとってのモニュメントであり続け、幾世代にわたる人々の祈りや想いを、喜びや哀しみを、数え切れない人生を見つめ続け、包んできた歴史の証人。その歳月がこの火災と共に大きく損なわれるという悲劇。どんなに言葉を尽くしても伝えられない気がしてもどかしい。13世紀にこの大聖堂を建造した人々の想いが、700年の歳月と人々の想いの積み重ねが、ほんの数時間の火災で失われてしまうことの恐ろしさ。我々が先人から託されたものは、それほどに重いのだ。

 東京でノートルダム大聖堂に匹敵する建物があるだろうか? 700年という圧倒的な歳月を想うと、ないような気がする。

 京都だったらどうだろうか。とここまで書いて、京都でもかつて、金閣寺が消失するという悲劇があったのを思い出した。

 なんということだろうか。京都の街はすでにこの哀しみを経験していたのだ。

 ただ、ノートルダム大聖堂のような、位置的にも精神的にも街の中心にあるほどの圧倒的な「中心性」までは、さすがの金閣寺でも持ち合わせていなかったようにも思う。

 私が最後にパリを訪れて、ノートルダム大聖堂を見たのは2006年の7月だった。妻と母と今は亡き父と4人で、あの堂々たるファサードを見上げたことを憶えている。

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(2006年7月9日撮影)

 金閣寺は再建された。ノートルダム大聖堂も、きっと甦る。あの優美な佇まいやこの世の美を超越してしまったかのような薔薇窓は、これまでと全く同じようには再現できないかもしれないが、それでも、信ある人々の手によって不死鳥のごとく甦ってくれるに違いない。

 高村光太郎の詩「雨にうたるるカテドラル」を、ここに引用する。

 パリのノートルダム大聖堂をうたった、有名な詩だ。

おう又吹きつのるあめかぜ。

外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、

あなたを見上げてゐるのはわたくしです。

毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。

あの日本人です。

けさ、

夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、

今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。

わたくしにはまだこの土地の方角がわかりません。

イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを

向いてゐるかさへ知りません。

ただわたくしは今日も此処に立つて、

ノオトルダム ド パリのカテドラル、

あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、

あなたにさはりたいばかりに、

あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

もう朝のカフエの時間だのに

さつきポン ヌウフから見れば、

セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べり繋がれたままです、

秋の色にかがやく河岸の並木のやさしいプラタンの葉は、

鷹に追はれた頬白の群のやう、

きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。

あなたのうしろのマロニエは、

ひろげた枝のあたまをもまれるたびに

むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。

逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた

矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。

広場はいちめん、模様のやうに

流れる銀の水と金焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。

そして毛あなにひびく土砂降の音です。

何かの吼える音きしむ音です。

人間が声をひそめると

巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。

外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら

わたくしはその中に立つてゐます。

嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。

ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。

 

おうノオトルダム、ノオトルダム、

岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、

気(かうき)の中の暗礁、

巴里の角柱、

目つぶしの雨のつぶてに密封され、

平手打の雨の息吹をまともにうけて、

おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、

あなたを見上げてゐるのはわたくしです。

あの日本人です。

わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。

あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、

はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。

何の故かまるで知らず心の高鳴りは

空中の叫喚にただをののくばかりに響きます。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

出来ることならあなたの存在を吹き消して

もとの虚空に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。

けぶつて燐光を発する乱立。

あなたのいただきを斑らにかすめて飛ぶ雲の鱗。

鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念(しゆうね)くからみつく旋風のあふり。

薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ。

しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、

飛びかはすエルフの群を引きうけて、

前足を上げ首をのばし、

歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。

不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互いにうなづき、

横手の巨大な支壁(アルプウタン)はいつもながらの二の腕を見せてゐます。

その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に

おう何といふあめかぜの集中。

ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。

あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。

はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました。

その中にあなたは立つ。

 

おう又吹きつのるあめかぜ。

その中で

八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、

昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。

真理と誠実との永遠への大足場。

あなたはただ黙つて立つ、

吹きあてる嵐の力をぢつと受けて立つ。

あなたは天然の力の強さを知つてゐる、

しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる。

おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、

それにさはるわたくしの手は

まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。

そのエスメラルダにつながる怪物
嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭に潜んでゐます。

あの醜いむくろに盛られた正義の魂、

堅靭な力、

傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者

ましてけちな人の口の端を黙つて背にうけ

おのれを微塵にして神につかへる、

おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。

せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、

あなたの荘厳なしかも掩(おお)ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育まれて、

あれからどれくらゐ生まれた事でせう。

 

おう雨にうたるるカテドラル。

息をついて吹きつのるあめかぜの急調に

俄然とおろした一瞬の指揮棒、

天空のすべての楽器は混乱して

今そのまはりに旋回する乱舞曲。

おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、

嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、

今此処で、

あなたの角石に両手をあてて熱い頬を

あなたのはだにぴつたりと寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、

酔へる者なるわたくしです。

あの日本人です。

 

 パリの貴婦人よ。

 セーヌ川に佇む、優美ないにしえの貴婦人よ。

 

(2019年4月15日投稿)