二つの「世田谷代田」、あるいは二重写しの風景

 

 昨日の日記の続きを。というか、昨日書きそびれたことを書いておかねば。

 現在放送中のテレビドラマ「silent」(サイレント)と、我が地元の馴染みの場所にして「自分ちの庭」こと小田急線・世田谷代田駅周辺のことだ。

 それはそうと、偶然にも昨日の朝日新聞の夕刊(東京版)で、社会面のトップに当の世田谷代田駅と「silent」にまつわる記事が載っていた。

 

www.asahi.com

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(上記2点のリンク先の記事は、朝日新聞デジタルの有料会員のみが全文を読めるようです。ご注意ください)

 

 記事の見出しは「地味駅 突然の活況」。まあそりゃあ地味な駅ですけどね。2022年11月14日の日記にも書いたが、駅舎を改築して綺麗になる前の世田谷代田駅とその周辺といったら、「閑散」という言葉そのものだったもの。その閑散な世田谷代田が「silent」の重要な場面に駅名を出して登場したおかげで、この周辺がロケ地を巡る「聖地巡礼」の人々で賑わっている、という内容の記事だった。「silent」の仕掛け人たるプロデューサーへのインタビューや、小田急電鉄のこうした方面への取り組みも併せて紹介している。

 

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 かくして私たちが暮らすご近所の馴染みの場所が、大新聞も注目する人気ドラマの「聖地」となったワケだが、これってけっこう不思議な感覚だ。「聖地」の近辺に実際に暮らしている地元民であり、かつ、実際に「silent」を観ている私たちのような人にとっては。

 つまり、地元民としては、この代田・北沢地域の街並みは、日々の暮らしの中の風景として映っている。実に何気ない、日々繰り返し見ている馴染みの景色だ。ところが、その同じ風景を、ドラマを観てわざわざ「聖地巡礼」のためにやってくる人々は、それとは全く異なる、物語という虚構の世界の舞台として同じ風景を眺めているのだ。代田も北沢もリアルに存在している(だって私たちはその中で暮らしているんだもの)街で、その意味では彼らは初めて訪れる「訪問者」もしくは「よそ者」である。だが、テレビで観るドラマの舞台としてはとてもよく知っている場所で、むしろ物語の世界へ彼ら自身を引き入れてくれる触媒もしくは「入り口」として見ているのだ。世田谷代田の駅前に立てば、「silent」の中で青羽紬と佐倉想とが再会したあのとき、あの空間に自分を重ねることができる。そうやってドラマの世界を反芻しつつより身近に感じられ、物語を追体験できる、特別な場所。夢とうつつを繋ぐ、聖なる空間。「ナルニア国物語」での、あの衣装箪笥のように。あるいは「ハリー・ポッター」シリーズでの、キングズ・クロス駅の9と4分の3番線のように。

 だから、私たちのような、地元民の視点とドラマの鑑賞者=「巡礼者」の視点を両方持ってしまった存在にとっては、この場所はそれらの両方の意味を持ち、ひとつの風景の中に、日常生活のリアルと物語中の虚構の二つの世界が重なって映っているのだ。
 今や私たちにとって世田谷代田の駅前は、日々の散歩で通る場所であり、晴れた日には富士山の眺めが素晴らしい場所である一方で、確かに紬と想とが出会って物語を紡いだ場所でもあるのだ。この二重写しの風景、夢とうつつの境界が曖昧な、不確かな世界に踏み込むこと。そのギャップを肌で感じながら、世田谷代田や下北沢の空間で日々を過ごすこと。これがなかなか面白い。

 

 

 どっちにしろ世界というのはとても不確かで、私たちが世界を認識するやり方もとても曖昧で移ろいやすい、不安定なものなのだ。ほんとうに今見ている「それ」だけが、唯一の「現実」なのか? おそらく違う。世界はもっと曖昧で複雑だ。ひとつの風景、ひとつの場所にいろいろなリアルや虚構が紐付けられて、何重もの意味を孕んでゆくこと。そうして「新しい顔」に更新し続けること。私たちが暮らす世界というのは、案外そうしたものだという気がする。

 

 

(写真は全て、本日の私たちの聖地巡礼、もとい世田谷代田〜下北沢の夕方の散歩の写真から。最後の富士山のシルエットは世田谷代田駅前から撮影。今日のような空気が澄んで雲のない晴天の日は、駅前から富士山がよく見えます)