「生きている人間」の物語

 

 テレビドラマ「silent」(サイレント)の話、しつこく続きます(笑)。

 このドラマの人気がなんだかものすごく社会現象化してきて、世田谷代田や下北沢といった「自分ちの庭」がすっかり賑やかになったので、これはもっと書いておかないと、という気持ちになりました。

 ドラマ自体のほうは既放送分の第10話までは鑑賞済みで、いよいよ明日放送の最終話を残すのみ。先日の日記にも書いたが、明日12月22日は私たち夫婦の26回目の結婚記念日。毎年この日は恒例行事のブッシュ・ド・ノエル作りをしてから、妻が腕によりをかけたご馳走ディナーをゆっくりワインを飲みながら二人でいただくことにしている。だから、放送当日に最終話を観られるかどうかはやや微妙。録画をその翌日に観ることになりそう。

 

 

 世間での「silent」人気は、もはやとどまるところを知らず。そう思うのは、やはり私たちがその「聖地」のお膝元で暮らしているから、この辺りではその人気ぶりが余計に増幅されて感じるのかしらん。

 第10話放送の翌日(12月16日)の夕方、散歩と買い物で下北沢駅南西口前の広場を通りかかったら、広場がものすごい数の人で埋め尽くされていてびっくり。よく見ると、広場の中央に真っ白いクリスマスツリーが立っている(下の写真)。さらに目を凝らすと、ツリーの白く丸く輝くオーナメントの表面に「silent」とドラマのロゴが印刷されている(冒頭の写真)。これはドラマの最終回を宣伝するツリーだったのだ。ドラマ最終回を予告する映像を流すモニターも設置されており、Official髭男dismが歌うドラマの主題歌「Subtitle」も流れている。

 

 


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www.shimokitazawa.info

 

 それにしてもこの人だかりの数は尋常ではない。その場で人員整理をしているスタッフの人に訊くと、みな午後6時(あと10分くらいだった)のツリー点灯を待っているのだとか。特にキャストの誰かが来たりセレモニーがあるわけではないそうで、「ホントにただ点灯するだけなんですよ」とその人は言っていた。それだけなのに、この人だかり。ドラマに関係することなら小さなイベントでさえも関わりたいと思うほど、この物語の世界に浸っていたい気持ちが、人垣の中から静かな波となって伝わってくる。先日の日記で書いた(2022年12月8日の日記参照)、私たちが世田谷代田や下北沢で見る「二つの風景」が、ここまで大きく広がってくるとは。幼い頃から、変わりつつも馴染んできた風景が、こんなに多くの人々に特別な感情を抱かせるとは。人間が作り出すものも時には捨てたものではないな、と不思議な高揚感と多幸感に包まれた夕刻のひと時であった。

 世田谷代田と下北沢という、私にとっては「自分ちの庭」みたいな場所との縁で観始めたドラマ「silent」。最終回の放送日が私たち夫婦の結婚記念日だというのも何か「縁」のようなものを感じる。そういえば「silent」が普段ドラマを観ない人たちも惹きつけている、という内容の記事を読んだ(以下のリンク先の記事です)。

 

realsound.jp

 

 これって、まさに私たちのことじゃないですか。NHK大河ドラマ以外ではここ10年近くも、テレビの連続ドラマを観たことがない私たちの。ただ、記事中で「ドラマをあまり観ない人の理由」として挙げられている、「『ドラマ作品の完結までが長いこと』と『(リアルタイムの場合)決まった時間に毎週観ること』のハードルの高さ」は、私には当てはまらないか。私は物語が長ければ長いほど喜ぶ人だし。それに決まった時間も何も、そもそも観ると決めた作品は予約録画してしまうので。そして録画したら放置せず必ず観る。放送1年後か2年後かもしれないが、ちゃんと観てます。それよりむしろ、観たい気になるドラマが少ないことと、テレビを観るより本を読んだり音楽を聴いたり映画を観るほうが好きなので、そっちの方が理由としては大きいか。それ故に、「silent」はわざわざ初回まで遡ってまで観るに値するドラマだった、ということだ。

 もうひとつ書いておくと、私たちにとっては「silent」は、この先の展開がどうなるか気になる、というのはあまりなくて(多少はあるけれど)、それよりもこのドラマの世界を、物語に登場する人たちをずっと見ていたいという気持ちが強いような気がする。いつまでもこの物語の世界を見続けていられたら、という感じ。それは、題材の新奇さや内容の衝撃性ばかりに目を奪われるのではなく、登場する人々の気持ちの流れや感情の動きを愚直なまでに丁寧に掘り下げて、リアルに存在感のある「生きている人間」として画面上に描き出していることによるのではないだろうか。生きている人間同士が混じり合うことで、物語は自然と動き出す。恋愛ドラマであることも、聴覚障害を題材のひとつに扱うことも、このドラマではあくまで生きた人間同士の物語を語るためのツールとして扱われている。

 それでいいと思う。そういう「生きている人間」たちを身近に感じながら、観る私たちがその心の動きや気持ちの流れに感情移入して物語に没入し、一喜一憂するドラマ。そういう創作物を私たちは「文学」とか「文芸」と呼んでいたのではなかったか。

 

 

 明日の最終回、楽しみに観ることにしよう。

(写真は2枚とも、12月20日に現地を再訪した際に撮影した写真です)