指輪の旅へ 大いなる旅へ

 実に久しぶりに、J・R・R・トールキン著『指輪物語』の再読を始めた。

 「うんと長い休暇」に、大いなる旅の物語、その分厚い書物を繙く。

https://www.instagram.com/p/BtH5OlBhnDS/

心ある方には、もちろんこの印が意味するところをご存じでしょう(^_^)。Of course, you know what this sign means:)) ..#tolkien #jrrtolkien #thelordoftherings #lordoftherings #book #sign #anagram #signature #fantasy #novel #tokyo #japan #sunday #home #reading #readingtime #books #trilogy #nofilter #igers #instapic #instadaily #instagood #instagramers #instabook #本 #指輪物語 #トールキン

 まだ第1部『旅の仲間』の前半を読んでいるところだが、瀬田貞二氏の訳による、たゆたうような語り口の文章に、さりげない甘みを味わいつつ文字を辿る。

指輪物語 第1部 旅の仲間

指輪物語 第1部 旅の仲間

 

 (2019年1月31日投稿)

あのクマは。

 我が家のブルーレイで、映画『テッド』"Ted"を観る。もう10回以上は観ただろうか、この映画。本当に、何度観ても面白い。カワイイ(でもくたびれた)外見だけれど中身は中年オヤジのテッドが巻き起こす、かなり(非常に)アブナイギャグ満載のハチャメチャぶりが、本当に笑える。(以下、ネタバレです)

   改めて観ると、マーク・ウォールバーグ演ずるジョン・ベネットのダメっぷりというか意志の弱さというか、「のび太」っぷりが目立つ(笑)。

(最初に観てからずっと思っているのですが、この映画のエッセンスは要するに「ドラえもん」なのですよ。のび太の成長物語。)

 でも、その意志の弱さはテッドとの友情の面において特に発揮(?)されていて、物語のカナメが「テッドを取るか恋人を取るか」の選択をジョンに迫っている形になっているのが興味深い。そのカワイイ外見やはちゃめちゃな言動というオブラートに包まれてはいるが、テッドの存在は要するに、「人を堕落させようとする誘惑の象徴」=人を「のび太化」させる存在としても描かれている訳だな、と。ジョンと子供の頃からの固い友情で結ばれている一方で、彼を「堕落」させる存在でもあるという、実にアンビヴァレントな存在。でも、人間って、大抵皆そんな両義性を備えているわけなのだけれど。テッドはそんな、誰もが持つ両義性をカリカチュアライズした存在だと言える。

 ところで、この映画のひとつの「カギ」として、サム・ジョーンズSam Jonesと映画『フラッシュ・ゴードン』"Flash Gordon"が登場する。『フラッシュ・ゴードン』といえば、音楽はもちろんクイーンQUEEN。お馴染みの主題歌"Flash's Theme"は勿論のこと、地味な劇伴曲も全てクイーンが手がけている。ブライアン・メイのギター演奏によるウェディングマーチなども聴ける。B級SF扱いされる『フラッシュ・ゴードン』だが(実際B級なのだけれども)、音楽的にはクオリティが非常に高い映画だったのだ。主題歌"Flash's Theme"は残念ながら、かの映画『ボヘミアン・ラプソディー』には出てこなかったけれども、『テッド』ではかなりたっぷり聴くことができる。この曲もクイーンのベストには必ず収録される代表曲のひとつだしね。

Flash Gordon: 2011 Remaster

Flash Gordon: 2011 Remaster

 

 ちなみに、この『テッド』と対になる映画は『宇宙人ポール』"Paul"であって『テッド2』ではありません。 『テッド』は明らかにこの一作で完結しており、『テッド2』は単なる蛇足。個人的には無かったことになっている。それより『宇宙人ポール』のほうが、明らかに『テッド』と共通する要素が多く、公開時期もほぼ同じ。『テッド』と一緒に観るなら絶対こっちがオススメだ。

宇宙人ポール [Blu-ray]

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(2019年1月31日投稿)

「はてなダイアリー」から「はてなブログ」へ

 先日はてなから「はてなダイアリー終了のお知らせ」というメールが来て、放置しておくと「はてなダイアリー」にあるブログの内容は強制的に「はてなブログ」へ移動させられるとのこと。もう長いこと放置していたこのブログを、ようやく再始動させようかと意気が上がってきたタイミングだっただけに、かなり出鼻をくじかれた気分だ。

 だが、まあ、仕方がないので、本日「はてなブログ」でブログを開設し(いま書いているコレだ)、今までの「はてなダイアリー」の自分のブログのコンテンツを全てこちらにインポートした。

 こちらの「はてなブログ」は、まだ使い始めなのでいまひとつ勝手がわからないが、まあ新しい家に引っ越した気分で徐々に慣れてゆくでしょう。これを機に、本格的にブログを再始動したいものです。

https://www.instagram.com/p/BswYOMXBHI5/

Taken with Canon EOS Kiss X5. 街角の背比べ。A impression on the wall with a straight line :)) ..#tokyo #japan #latergram #city #street #wall #grass #straight #line #impressive #scenery #art #design #minimalism #canon #eoskissx5 #nofilter #igers #instapic #instadaily #instagood #instagramers #omotesando #表参道 #街角

 とりあえず、インスタグラムで自分がアップした画像を貼り付けられることがわかったので、さっそくやってみた。おおお、なかなかいいですね。楽しそう。

『方丈記』の精神

 鴨長明作・蜂飼耳現代語訳による、光文社古典新訳文庫版の『方丈記』を、本日読了。1日で読了してしまったが、まあ『方丈記』の本文は短いからね。ページあたりの行数がかなり少なめのゆったりした行組で、訳文が30ページに原文が20ページ。詩人・蜂飼耳氏によるエッセイ・解説・あとがきに加え鴨長明の和歌10首などを入れても、すぐに読めちゃう。

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

 

 もちろん、『方丈記』というものは一度だけ読了してもその内容を「ものにした」わけではなく、むしろ何度でも読み返して、その都度認識や解釈や感想を新たにしてゆくべき古典だろう。蜂飼耳氏の解説に「800年の時を越えていまも生きている」「言葉による建物を建てた」と書かれているのが、実に強く印象に残った。人は消え、棲家も朽ち果ててゆく中、「永遠に生きる」とはどういうことなのかを、この本の中に見る。

 『方丈記』を最初に読んだのは高校生の頃か。その時には簗瀬一雄氏が訳注を施した角川文庫版を読んだ。下の写真の右側にある、すっかり古ぼけて味わいが滲み出た(笑)本だ。

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 私の亡き父も、生涯『方丈記』を繰り返し愛読していた。おそらく何度目かに買い直した、比較的新しい岩波文庫版が手元にある(上の写真の左側)。他にも何冊か蔵書に遺されていたから、父は『方丈記』には相当思い入れが強かったようだ。堀田善衛氏の『方丈記私記』も当然のように蔵書に混じっていたし。私にしても数十年ぶり?の再読なのだが、最初に現代語訳を読んで頭に残っていたせいか、その直後に読んだ原文がかなりすらすら追えてしまう。こんなに読みやすかったっけ?と少々驚くくらい。こんなに短かったっけ?とも。

 無常の世の中で達観してしまった人の書、と捉えられがちな『方丈記』だが、蜂飼氏が指摘しているように、むしろ俗社会への未練のようなものをひしひしと感じるところもある。特に「すみか」へのこだわりが強く、自分の自由な現在の暮らしをことさらに強調するように書いているのは、中央社会で出世や世渡りに縁がなかった自分を恥じる気持ちの裏返し=「強がり」にも思えてしまう。現代のSNSに例えるならば「リア充」ぶりを強調して強がっているさまに似ていると言えようか。蜂飼氏の訳文も、その葛藤のようなものを垣間見えるような解釈で、鴨長明の「人間臭さ」を感じさせる文章だ。

(2019年1月31日投稿)

歴史は作られる

 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』"Star Wars: The Force Awakens" 、ついに4度目の鑑賞。前回同様、109シネマズ二子玉川IMAX 3Dにて鑑賞。さすがにこれで最後かな。(今回もネタバレありです。ご注意ください)
 109シネマズでは、毎月22日は「夫婦の日&カップルデイ」ということで一人当たり700円も安くなるので、仕事を休んで妻と観たのだが、いやあ4回目ですよ。1999年にエピソード1『ファントム・メナス』を観たときと同じ回数に到達したよ。しかも今回は、私だけでなく妻も4回観ているわけで(笑)。
 それにしても「スター・ウォーズ」という、6本の映画作品と関連する大量のメディア作品やスピンオフとして30年以上の歳月に培われたのち、造物主ジョージ・ルーカスの手は離れたけれども正統な続編として作られた今作『フォースの覚醒』。正確には「続編」というよりは「歴史の続き」と呼ぶべきだろう。それほどまでにこの「スター・ウォーズ」の世界には一つの「歴史」が揺るぎなく形づくられており、実に多数かつ多彩な登場人物(キャストの紹介順序を見よ。誰か一人が「主人公」だと特定できようか?)が物語を彩る「群像劇」に膨れ上がっているのだから。すでに「歴史」として刻まれてしまったがゆえに、物語上・歴史上の「制約」として設定されてしまい容易に改変することができない数々の要素や、30年以上の間に積み上がったファン・観客・受け手の期待・予想・「こうあるべき」という思い込みもまた、他のいかなる(原作のない)映画でも考えられないくらいにとてつもない大きさに膨れ上がっている。それだけに『フォースの覚醒』で語られる物語は、その「歴史」を踏まえて2時間15分の画面に実に多種多様な要素が詰め込まれているのは必然である。これまで積み上がった全てを背負い込んで、さらに先へと「歴史の続き」を語らねばならないのだから。
 また、『フォースの覚醒』では、まさに現実に歴史の流れの中で起こっているのと同じく、ある時に起こった「事実」が次の時代・次の世代では神話や伝説の彼方へ埋もれてしまい、そして当の次の時代で起こった「事実」も、さらにその次の時代・世代には「伝説」としてヴェールを纏って語られてゆくということが窺えて、実に興味深い。この「神話・伝説化して曖昧になってゆく過去の事実」こそが、「スター・ウォーズ」を現実味のある「歴史」たらしめていると言っても過言ではないように思う。
 あの若者たちルークがハンが、そしてダース・ヴェイダーまでもが『フォースの覚醒』では「伝説」と化し、エピソード1ではあれほどまでに興隆し確立されたジェダイの技もフォースについての知識も、ここでは変容して(あるいは「劣化」と言ってもいいかもしれない)伝えられている。あたかも古代ギリシャ・ローマの文化がヨーロッパ中世において、あるいは途切れ途切れに、あるいは歪曲化や断片化や形式化して伝わったために、当初の姿から変容して継承され、当初の姿を誰もわからなくなってしまったのと同じように。フォースの存在を知らないフィンがライトセーバーを手にして戦っても、彼はジェダイライトセーバーを持って戦うことの意味や本質を知らないのである。またクライマックスでレイとカイロ・レンがライトセーバーを持って戦うさまも、エピソード1〜3で繰り広げられるジェダイの武芸華やかなりし頃の全盛期のライトセーバー戦に比べれば、技もなく拙いこと甚だしい。しかし、レイはもちろん、訓練を受けた経験のあるカイロ・レンでさえも、かつて全盛だった頃の「正しいジェダイの(あるいはシスの)教え」はもはや得ることができず、歴史の流れの中で歪められ断片化して伝わったやり方でしか身につけられなかったのだから仕方ない。それこそが「歴史」というものの重要な役割である。「いまに伝えられたこと」しか残らないのである。次作で披露されると予想されるルークの「教え」もまた然り、であろう。ルーク自身が体得したものそれ自体が、その本質は同じであっても、方法としては、おそらくエピソード1〜3に出てくる、システムとして確立されたジェダイの組織的教育法とは無縁に教えを受けたのだから。
 だがそれでも、ジェダイやシスの存在が歴史の彼方に完全に埋もれて消えてゆくのかどうかは、「いま」の人々がいかに伝えてゆくかにかかっているのもまた事実である。伝えられる限りは、たとえ歪められ断片化してもなお、「失われる」ことではないのだ。「存在し続ける」のだ。受け継がれた「歴史」は、新たに作られてゆかねばならないのだ。30年以上の長きにわたってひとつの世界の物語が作られ続けるということは、「歴史」を作ることに等しいのだ。
(2018年1月11日投稿。2015年12月19日の日記2015年12月27日の日記、そして2016年1月4日の日記同様、エピソード8『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』公開に際し、2年前に『フォースの覚醒』を4回観た中で感じ考察して書き留めておいたことをどうしてもブログにも記録しておきたくて、今更ながら書きました。『最後のジェダイ』は既に観ましたが、この文章の中身は当時のメモから変えていません)

この世界のメタファー

 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』"Star Wars: The Force Awakens" 3度目の鑑賞は、年が明けて正月早々から妻とともに、109シネマズ二子玉川IMAX 3Dにて鑑賞。(今回もネタバレありです。ご注意を)
 IMAXで映画を見るのはこれが初めての体験。3Dはどうでもいいが、IMAXの画面の巨大さやクリアさと響き渡る音響の素晴らしさは想像以上で、いやあIMAXいいなあとすっかり感心。3DじゃないIMAX上映だったらもっといいのにな。2015年という、社会的にも個人的にも悲しく辛いことの続いた一年を綺麗に締めくくらせてくれたのが『フォースの覚醒』であれば、2016年を幸せに幕明けてくれるのも『フォースの覚醒』であるべきだなと思っていたので、このIMAX初体験は、3度目の鑑賞を新鮮な気持ちで体験することができて何よりだった。そして観終わってまた、胸がいっぱいになってしまった……。
 サントラをずいぶん聴き込んだので、どの場面でどの曲が使われているかだいたい把握できたし、台詞もけっこう身についてきた感じがする。なんといってもBB−8がカワイイ! あの丸みがイイ! 冒頭からマズ・カナタの酒場の場面までとラストシーンは何回でも観れるな〜。もちろん、ハン・ソロとチューバッカのツーショットも。ハンの"C'mon, Chewie!"の台詞が40年近く前のエピソード4『新たなる希望』と全く同じに聞こえて、その全然変わっていなさに本当に胸が熱くなったな。
 そして、12月27日の日記にも少し書いたが、「スター・ウォーズ」に出てくる様々な気候や環境の惑星は、この地球上の様々な土地や地域のメタファーである、ということに気づく。『フォースの覚醒』に登場する砂漠の惑星、森の惑星、氷の惑星などなど、ひとつの星が丸ごとひとつだけの気候というのは、実際にはきっとありえないような気する。まさに地球そのものがそうであるように、科学的に考えたら生物が住めるような惑星はある程度多様な気候や環境を備えているのではないかと。だから「スター・ウォーズ」シリーズの銀河系において、惑星から惑星へと旅することは、地球上の様々な地域を旅することのメタファーとして機能しているのだと思う。星と星との移動もハイパースペースを使ってあっという間だしね。まさに私たちが飛行機に乗って旅するが如し。
 それにしてもカイロ・レン(それともベン・ソロ?)のあの「橋のシーン」は、彼が父ハン・ソロに対して従順なふりの演技をしていたのか、それとも本当に「光の側」へ傾きかけていたのか。それまでの物語の中で、かなり抑制がきかない子供っぽい性格を強調して描かれた、ある意味かなり「現代的」な人物像だっただけに、あの場面での自分の行動に対して、どれだけ自覚的だったのか気になるところだ。ダークサイドに転向したものの、自分の中の“光”の存在によって葛藤していたのは間違いないわけで、祖父アナキン=ダース・ヴェイダーのように完全に「悪」へ振り切れていない自分に苦しんでいたのだろう(実際には『ジェダイの帰還』に描かれているとおりアナキンは「善」の心を取り戻して死んだのだが、そのことが後世に真実のまま伝わっているとは思いがたい)。レイへの惹かれ方も、もしかしたら最後の闘いの場面で地面が割れて離れ離れになっていなければ、その後の彼の行動はどうなっていたか気になるところだ。次作以降でカイロ・レンがライトサイドへ転向するかもしれないという予想もあり得ないことではない。これだけ要素が多いと、いろいろな可能性や選択肢がありうるな。「スター・ウォーズ」シリーズの制作者たちは、これからの物語において「どれ」を選んでいくのか。「思いがけなさ」を狙ってくるとは思うのだが。
(2017年12月19日投稿。2015年12月19日の日記2015年12月27日の日記同様、エピソード8『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』公開を前にして、2年前に『フォースの覚醒』を4回観た中で感じ考察して書き留めておいたことをどうしてもブログにも記録しておきたくて、今更ながら書きました。『最後のジェダイ』は観たけれども、この文章の中身は当時のメモから変えていません)

聖地にて。あるいは予型学としてのスター・ウォーズ

スター・ウォーズ/フォースの覚醒 オリジナル・サウンドトラック(初回スリーブ仕様)
 最初に観て(2015年12月19日の日記参照)から8日後、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』"Star Wars: The Force Awakens" の早くも2度目の鑑賞。2度目は1度目と同じく妻と、さらに今回は両親も連れて4人で、有楽町のTOHOシネマズ日劇で観た。(以後、最初の鑑賞日の日記と同じくネタバレありです)
 「スター・ウォーズ」にとっては“聖地”と呼ばれる「日劇」である。最初に観たTOHOシネマズ渋谷も私にとっては縁の深い映画館だが、この日劇も勿論、思い入れはひとしおだ。何しろこれまでエピソード1〜3は全てこの日劇で、両親と4人で観てきた映画館だ。それでなくても現在こそ“TOHOシネマズ”とシネコンぽい名前がついているが、実際の劇場自体は以前の千人規模の大映画館「日劇」そのままだ。さらに遡れば、現在のマリオンの建物が建つ前は、建物そのものが丸ごと「日劇」であって、日本で最高の映画館のひとつだったのは間違いない。その時その時の最高の話題作・大作は何をおいてもまず最高の映画館「日劇」で観るのが相応しい−−というのは、シネコンが一般的になる以前は当たり前の感情だったように思う。私もその例外ではなく、「スター・ウォーズ」シリーズは勿論、『タイタニック』級の超大作はわざわざ有楽町に出かけて行って「日劇」で観てきたものだ。本当に懐かしい。
 2度目の鑑賞なのでストーリーの流れが頭に入っており、前回気づかなかったものやより深く理解が及んだところなど、より掘り下げて映画に入り込んで観ることができた。前回は大ショックだったハン・ソロが死ぬシーンも、このシーンがあるのはもうわかっているのだから覚悟して見届けられた。とても悲しいしとても切ないのは変わらないが。このハンが死ぬ場面と、スターキラーから放たれた光線が星々を破壊する場面の音楽には、どちらも同じストリングによるとても穏やかな旋律が使われていた。40年近く前のエピソード4『新たなる希望』での、惑星オルデランの破壊のシーンやオビ=ワンの死の場面には、かなりカタストロフィックorエモーショナルな音楽がつけられていたことを考えると、同じジョン・ウィリアムズの音楽でもずいぶんと違う(まあ監督の考え方の違いもあるだろうが)。時代の違い、であろうか。
 40年という年月は実に長い。エピソード4〜6が公開された70〜80年代の単純な勧善懲悪がもう現代に通じなくなっているのは、エピソード1〜3の混沌を通り抜けてしまった我々にも同じだ。『フォースの覚醒』は物語の筋立てを始め様々な要素で『新たなる希望』をくどいくらいになぞりながらも、その実は「全く同じ」ではいられず、あの時の若者は既に老いて次の世代の、実に現代的な新たな人々が取って代わってゆく。前と悪は常に揺らぐ。敵の中心人物(と表面的には捉えられる)カイロ・レンは「光の誘惑」に抗するが、それがエピソード3『シスの復讐』でアナキンが「闇の誘惑」にさらされていったのとは対照的で興味深い。カイロ・レンは観る回数を増やすたびに印象が変わる人物像だ。レイとフィンの人物造形にも実に現代的な側面を感じながら、前の世代との橋渡しとしての役割もきちんと押さえているようで安心だ。
 私自身は、『フォースの覚醒』が実に多くの点で『新たなる希望』をなぞっていることを全く悪いと思わない。むしろ良いことだと思っている。これはオールド・ファンのノスタルジックな意見ではなく(少しはそれもあるにはあるが)、むしろ同じシリーズの新作としての「スター・ウォーズアイデンティティとでも呼ぶべきものを高める効果を出すために必要な作業だと思うのだ。
 聖書学の中には、タイポロジー(予型論的解釈)という聖書解釈の学問があり、それは要するに、旧約聖書のすべてのエピソードはイエス・キリストの行動つまり新約聖書のエピソードを予め告げるもの=「予型」として解釈しようとすることなのだ。それと同じ考え方を「スター・ウォーズ」に当てはめると、各三部作のサイクルは次の世代のサイクルに対する「予型」として、同じ、あるいは類似したエピソードを繰り返してゆくのが正しくなる。むしろ類似したエピソードを各世代の物語の中で繰り返してゆくことによって、物語の骨組みを太くしてゆくとこができると言ってもいい。ジョージ・ルーカスが傾倒して「スター・ウォーズ」の物語の原型にもなっているジョゼフ・キャンベルの物語論・神話論の強い影響も当然あろう。神話は繰り返すことが基本といってもいいほどだし。あるいは、それらの論を持ち出すまでもなく、「歴史は繰り返す」という金言を思い出すだけでもいい。前回も言及した「歴史がここにある」と私が感じたことの一因は、こういうところにもあるのだろう。
 それにしてもファースト・オーダーがどうも「帝国軍ファンクラブ」に見えてしまうのと、レイがずいぶんあっさりと短期間でいきなりフォースが使えるようになるのがさすがに苦笑か。レイはスカイウォーカーの家系に連なっているのかな。そのルークが登場するラストの場面は、ロケ地が西アイルランド沖合のスケリッグ・マイケル島(スケリグ・ヴィヒール)だとあからさまに分かってしまう。こんな絶海の孤島、しかも世界遺産でロケするとはすごいが、現実の場所とバレバレなロケーションを敢えて使ってしまうのも「スター・ウォーズ」ならではか。確かに、「スター・ウォーズ」に登場する惑星は、この地球上のさまざまな土地のメタファーではあるのだ。
 昨年アイルランドを旅行したときはさすがにスケリッグ島には行ってない(行くのがとても大変なのです)が、モハーの断崖やアラン諸島で目にした荒涼とした風景は、ちょっとあれと類似するものがあったなあ。またアイルランドに行きたい気持ちが掻き立てられてしまうのであった(笑)。
(2017年12月14日投稿。2015年12月19日の日記同様、エピソード8『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』公開を前にして、2年前に『フォースの覚醒』を4回観た中で感じ考察して書き留めておいたことをどうしてもブログにも記録しておきたくて、今更ながら書きました)