『方丈記』の精神

 鴨長明作・蜂飼耳現代語訳による、光文社古典新訳文庫版の『方丈記』を、本日読了。1日で読了してしまったが、まあ『方丈記』の本文は短いからね。ページあたりの行数がかなり少なめのゆったりした行組で、訳文が30ページに原文が20ページ。詩人・蜂飼耳氏によるエッセイ・解説・あとがきに加え鴨長明の和歌10首などを入れても、すぐに読めちゃう。

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

 

 もちろん、『方丈記』というものは一度だけ読了してもその内容を「ものにした」わけではなく、むしろ何度でも読み返して、その都度認識や解釈や感想を新たにしてゆくべき古典だろう。蜂飼耳氏の解説に「800年の時を越えていまも生きている」「言葉による建物を建てた」と書かれているのが、実に強く印象に残った。人は消え、棲家も朽ち果ててゆく中、「永遠に生きる」とはどういうことなのかを、この本の中に見る。

 『方丈記』を最初に読んだのは高校生の頃か。その時には簗瀬一雄氏が訳注を施した角川文庫版を読んだ。下の写真の右側にある、すっかり古ぼけて味わいが滲み出た(笑)本だ。

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 私の亡き父も、生涯『方丈記』を繰り返し愛読していた。おそらく何度目かに買い直した、比較的新しい岩波文庫版が手元にある(上の写真の左側)。他にも何冊か蔵書に遺されていたから、父は『方丈記』には相当思い入れが強かったようだ。堀田善衛氏の『方丈記私記』も当然のように蔵書に混じっていたし。私にしても数十年ぶり?の再読なのだが、最初に現代語訳を読んで頭に残っていたせいか、その直後に読んだ原文がかなりすらすら追えてしまう。こんなに読みやすかったっけ?と少々驚くくらい。こんなに短かったっけ?とも。

 無常の世の中で達観してしまった人の書、と捉えられがちな『方丈記』だが、蜂飼氏が指摘しているように、むしろ俗社会への未練のようなものをひしひしと感じるところもある。特に「すみか」へのこだわりが強く、自分の自由な現在の暮らしをことさらに強調するように書いているのは、中央社会で出世や世渡りに縁がなかった自分を恥じる気持ちの裏返し=「強がり」にも思えてしまう。現代のSNSに例えるならば「リア充」ぶりを強調して強がっているさまに似ていると言えようか。蜂飼氏の訳文も、その葛藤のようなものを垣間見えるような解釈で、鴨長明の「人間臭さ」を感じさせる文章だ。

(2019年1月31日投稿)