花はどこへ行った

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 ウクライナという国名を聞いて私が真っ先に思い浮かべる人は、1994年リレハンメル冬季オリンピック大会のフィギュアスケート・女子シングルで金メダルを獲得したオクサナ・バイウルOksana Baiulだ。

オクサナ・バイウル - Wikipedia

 あの時、女子シングルのショートプログラムで首位に立ったのは米国のナンシー・ケリガン。彼女がフリープログラムで正確無比だが人間味の欠片もない、まるで機械のようなクソつまらない演技を貼り付けた笑顔で滑るのを見て、私たちは画面のこちら側で大ブーイングを浴びせかけたものだ。

 そして、その直後に出てきたSP2位のバイウルが、まさに「魅せる」演技と呼ぶべき圧倒的で素晴らしい4分間を披露。会場の観客を引き込んで味方につけたのは勿論、画面の前の私たちまで大いに魅了したのを昨日のことのように思い出す。このドラマチックなフリーの演技で、バイウルは大逆転の金メダルを射止めた。

 現在はプロのスケーターとして米国に在住しているようだが、彼女は今まさにロシア軍の侵攻にさらされている祖国ウクライナの苦難をいかに嘆き悲しんでいるか、察するに余りある。バイウル自身のコメントは未だ私の耳には届いていないが、彼女と同じくウクライナをルーツに持つ多くのスポーツ選手や著名人たち、そしてロシアの側でも、多くの人々がこの侵略に抗議の声を挙げている。

 戦争は絶対にいけない。

 どのような理由であれ、どのような状況下であれ。

 その暴力的手段を取った段階で、取り返しのつかない過ちを犯しているのだ。

 戦争の最もいけないことは、国家という体制の「都合」によって、そこに暮らす個人のささやかな人生や幸せが蹂躙されてしまうことだ。戦争という「大義」を振りかざす国家という体制は、特定の個人の顔をしてない。その体制に属する政治家も役人も兵士たちも全て人間であることを失い、体制の一部を成す「部品」と化す。勿論、次から次へと代替の効く部品だ。元首でさえも例外ではない。ロシアのプーチン氏もまた。

 そんな体制が引き起こすもの=戦争には「人」は存在しないのだ。戦争が非人道的なのは当たり前なのだ。「人間」が存在しないのだから。顔のある個々の「人間」たちは戦争という「大義」に蹂躙されるしかないのだ。戦争は個人を抹殺すると言ってもいい。勿論、個々人の持つダイバーシティとか多様性とかを尊重することはまずあり得ない。

 くだんのリレハンメル大会の、女子シングルフリー最終滑走者はドイツのカタリナ・ヴィット(カタリーナ・ビット)Katarina Wittだった。彼女が演技で使用した曲は、反戦歌『花はどこへ行った』"Where have all the flowers gone?"。彼女がかつて金メダルを獲得した1984冬季オリンピック大会の開催地で、あの当時ユーゴスラヴィア内戦で大きく破壊されたサラエヴォへの、平和の祈りを込めての選曲・演技であった。

 平和への祈りは、いつの時代にも、変わらず。

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 花はどこへ行った。

 花はここにある。

 花は世界の全てを覆うほどに在る。

 武器の代わりに花を戦場に持ち込もう。

 銃口を花束で塞ごう。

 大地を花で埋め尽くそう。

 

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(写真は全て、2022年2月26日に東京・世田谷区の羽根木公園にて撮影)