3年ぶりの梅まつり

 

 亡き父の誕生日であった2月22日。

 我が家の近所にある羽根木公園に、名物の梅林の梅の花を観に行く。

 折しも羽根木公園ではこの時季恒例の行事、第44回「せたがや梅まつり」が開催中。恒例といっても、コロナ禍でここ2年中止を余儀なくされたために、3年ぶりの開催である。

 

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 「まつり」といっても平日は近隣の商店街による出店もなく、ひたすら紅白にさまざまに咲き並ぶ梅の花々を愛でるのみ。本来の目的にかなったシンプルさが潔い。

 この近くで生まれ育った私にとっては、羽根木公園は幼い頃からの遊び場のひとつ。勝手知ったるなんとやらだが、長い年月の間に少しずつ変わってきた物事も多い。この「せたがや梅まつり」も、第1回の開催は1978年の2月で私が小学校4年生の時。十分に私の記憶の範囲内だ。

 

 

 気持ち良いくらいに雲ひとつなくすっきりと広がる青空のもと、梅林の中や遊歩道沿いに並んだ、花の色も樹勢もひとつひとつ異なる梅の樹々を眺め、写真を撮りつつそぞろ歩く。

 

 

 梅の花には、近づいて花のひとつひとつの表情をじっくりと眺めたくなる風情があるように思う。早咲きの河津桜オカメザクラも同じ。だがソメイヨシノにはそうした風情はあまり感じない。この感じ方の違いはなんだろうか。

 そう思っていたら、この数日後、2月25日の朝日新聞朝刊の「天声人語」に、

樹(き)全体でいっせいに咲き誇る感のあるソメイヨシノと違い、梅には一輪一輪をめでる楽しみがある。小さな姿で、春の訪れの近いことを精いっぱい告げているのだろう。

 という一節が載っていた。なるほど言い得て妙である。

 これはきっと、梅の花が本来的に持つ慎ましやかな風情の所以。そうではないだろうか。あるいは私たちの心情が、梅の花の佇まいに慎ましやかな美を投影するのかもしれないが。

 それに対して、ソメイヨシノの花の、時に数にものをいわせるような咲き方には、時として目に見えない「圧」のようなものを感じて辟易してしまうこともなくはない。そもそも「桜といえばソメイヨシノ以外なし」的な捉え方がはびこっているこの現代日本での、毎年3月中旬以降に日本の社会と文化にのしかかるその「圧」の、異論を許さぬかのような、有無を言わせぬ大きさよ。

 梅の花を見るとホッとしてしまうのは、その違いのせいか。

 

 

 この2月22日は、最近ではすっかり「猫の日」として定着しているようだ。だが、私にとっては、それよりずっと以前から「自分の父親の誕生日」であった。

 そういえば、今年84歳になる私の母は3月5日生まれで、かつ父よりひとつ年上であった。

 ということは父の生前には、毎年2月22日を過ぎると、私の両親は3月4日までの11〜12日間だけ夫婦同い年になっていたということだ。今更ながら気づいて少々驚く。

 というのも、偶然にも私たち夫婦も同じ状況だからだ。こちらは私の方がひとつ上なのだが、私の誕生日が5月17日なのに対し、ひとつ下の妻は5月12日。つまり5月12〜16日の5日間だけ、夫婦同い年になる。

 親子の間で、面白い偶然の一致をみたものだ。

 

 

(2023年2月27日投稿)