【読了記録】いつでもどこでも始められる

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 荒木優太編著『在野研究ビギナーズ』(明石書店)を読了。

 副題は「勝手にはじめる研究生活」。大学や研究機関に属さずに研究活動や、研究支援など周辺の活動をおこなっている14人が執筆した活動の記録に、3件のインタビュー記事が収録されている。

 新聞の書評欄で売れている本を紹介する記事でこの本の存在を知り、私にとっても今後の参考になるかもしれないと思い、読んでみた。

  一読した感想は、「いろいろな研究の取り組み方=生き方があるなあ」というもの。考えてみれば、研究活動は(特に人文系の研究は)時と場所を選ばずに始められるはず。「研究」などと硬い(?)言葉で表現しなくたって、何か疑問や関心があって「知りたい」という気持ちが湧いたときに、本を読んだりして調べて「学び」を得ること、その積み重ねこそがひいては「研究」と呼ぶことのできる活動なのだと思う。

 であれば、何も大学や研究機関に属さなくても、たとえ働きながらの「余技」であっても、人は「学び」を続けることができるはずだ。2020年5月10日の日記にも書いた通り、本を読むこと=学びを止めてしまった人は、生きるのを辞めてしまうに等しい。人は生ある限り、知り、学び、自分の「世界」を常に広げ続けるのだ。

 そして、人の生き方に定められたレールなど存在しない。この本で語られる様々な人の様々な形の生き方、自分の満足のいくように生きたいと模索する方法の多様さは、そのことを痛感させてくれる。制度化された生き方は、本当は存在しないはず。学びの形も、学校という制度に頼ることができなくても、意志と実行力があれば実践することができるはず。いや、できますよ、と、この本は最終的にそれを訴えているのだと思う。

 ところが、自由であるはずの「学び」を制度の中に押し込んで窮屈なものにしてしまっているのは、我々人々=社会の方だったりする。この本が出版されたのは昨年の9月なので、いわゆる「新型コロナウイルス禍」より前だった。だが、この異常事態で既存のパラダイムがあちこちで崩れて、大変なことも実に多いがある種「奇貨」と呼ぶべきこともあった、つまりこの本で語られるように「当たり前を疑う」ことができる人が増えてきたように思うのは、大変いいことだ。

 学び、研究することも、これを機に、当たり前だと思い込んでいた「枷」を外してそのハードルが下がるといいと思う。地位や制度や肩書きは、役に立つこともあるが「枷」にもなる。ましてや表面的な、あるいは見せかけだけの「社会に役にたつかどうか」の線引きはなんの意味もない。だって人間は皆いつか死ぬから。それよりも、その人にとって最も生きたい生き方はなんなの?を、もっと自由に軽やかに、世間体とかクソみたいなものは気にせずに、思ったようにできるようになるといい。その意味では、大いに刺激になった一冊であった。

 何が何でも「働くか大学に入るか」ではなく、人によっては「二足のわらじ」だろうし、人によっては人生の中で一足ずつ順番に異なるわらじを履くこともあろう。私などは二足履けるほどの器用さがなかったので、不器用にゆっくりと一足ずつ履く生き方しかできないのだが、それもまた誰にも指図されない、ひとつの「生き方」なのだと思う。思いたい。

 ところで、この本を読んで気づいたことのひとつは、研究活動の「成果」を、論文を書くこと、ないしそれに等しい(類する)行為に求めている人が多いということ。自分の「学び」の成果を人に伝わる形にまとめること、それを人に伝えることは、ある意味でひとりの人の「生き方」を他の人に伝え、残すということなのだなあ、と強く感じたのである。

(写真は2020年6月16日、東京の清澄白河で撮影)

(2020年6月28日投稿)