「サステナブル」なアートの在り方

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  6月16日に、木場にある東京都現代美術館に行き、企画展「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」"Olafur Eliasson: Sometimes the river is the bridge"を観てきた。

www.mot-art-museum.jp

 当初は今年の3月から開催される予定だったが、新型コロナウイルス禍のせいで開催が延期され、ようやく今月から始まった展覧会だ。私自身、美術館に来るのも展覧会を観るのも2月20日に行った二度目の「ハマスホイとデンマーク絵画」展以来(2020年2月20日の日記参照)なので、ほぼ4か月ぶり。こんなに長いこと美術館や展覧会に行かなかったのは、大人になってからは本当に初めてのような気がする。ちなみにオラファー・エリアソンアイスランドデンマーク人。この長いブランクの直前と直後がいずれもデンマーク人による展覧会だとは、面白い偶然の一致だ。

 何しろ、2019年に東京で開かれた中での最重要展覧会がクリスチャン・ボルタンスキーなら、2020年の最重要展覧会はエリアソンだ!とすごく期待していて、昨年のうちからとても楽しみにしていた展覧会である。新型コロナウイルス禍による自粛や開催延期の嵐に呑まれてしまったときには、もう観られないものと半ば諦めていたが、単独のアーティストによる現代美術の展覧会であることが幸いしたのか。たとえ延期であっても、これだけ重要な展覧会が当初の予定通りに開かれたのは、何より喜ばしいことである。

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 初期の代表作のひとつ、「ビューティー」"Beauty"。暗い部屋に、光が当てられた水飛沫が噴き上がる。見る高さや方角から色が刻々と変わり、ひとつとして同じ瞬間がない。そして、「見る人」たる観客がいないことには「作品」が存在しない。

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 最も楽しかった「あなたに今起きていること、起きたこと、これから起きること」"Your happening, has happened, will happen"。シルエットで映っているのは私たち夫婦です(笑)。ちなみにこの展覧会は、会場内の全作品が撮影可能である。

 これもまた、空っぽの部屋の隅に、色分けされて並んだ照明が置かれるのみ。その照らす光に投影されて、幾重にも重なった美しいシルエットを描き出すのは、他ならぬ観客である「私たち」である。そしてここにも、人がこの部屋に足を踏み入れる限りは、一瞬たりとも同じ瞬間が存在せず、人、つまり観客がこの部屋に入らないと「作品」として成立しない。

 この二作だけ見てしまうと、エリアソンはいわゆる「観客参加型」で「空間型」のアーティストだと思い込まれてしまうかもしれないが、決してそうではない。彼はそういう作品「だけ」を作ってきたわけではない。この展覧会には、いわゆる平面的な作品も多数出展されている。その都度において彼が目指す最適な作品の形態を、シンプルに選んでいるだけだと思う。

 彼が非常に関心を持っているのは、主体である個人=「私」と、それを様々な意味で何重にも取り巻く外の「世界」との関わり方・繋がり方ではないだろうか。その関わり方を様々に体験して、「私」と「世界」がいかに不定形に繋がっているか、いかに不安定に繋がっているか、いかに多様な繋がり方をしているか、そして何よりそれらがいかに多様な美しさを湛えているかを実感してもらえるように、作品の形で「仕掛け」ているのではないだろうか。

 エリアソンがその繋がりの最大のひとつとして重視し、普遍的な「私」という主体にとっても人間社会全体にとっても非常に大きな繋がりの相手であるのが、「自然」だ。水や氷や光など、作品の材料に自然由来の物質そのものを使用することが非常に多い。それら「自然」と人間が向き合うことで醸し出される様々なテーマと思惟が、ひとつの作品のコンテクストに込められ、私たち観客は、作品を「体感」しながら、自然と文明のあり方や、自然の中での人の一生の循環(「死生観」のようなものと捉えたい)などに思いを巡らすことになる。

 また、エリアソンの文脈の中では「自然」は、私たちを取り巻くという意味では、「地球」と言い換えてもいいと思う。この展覧会は、エリアソン自身と彼のスタジオのメンバーにとって、地球環境に向けたサステナビリティの手法を、展覧会の開催における全ての要素に全面的に適用して実践した、初めての本格的な展覧会だという。

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 20年の間隔をおいて同じ位置から撮影されたアイスランドの氷河の写真を「20年前/20年後」と並べて展示し、気候変動による20年間の氷河の後退を一目瞭然の形で見せつけられる、ある意味衝撃の写真連作「溶ける氷河のシリーズ 1999/2019」"The glacier melt series 1999/2019"。

 この作品は、地球環境が直面している危機をかなり直接的に表現しており、エリアソンのこの分野への関心がそのキャリアのかなり早い段階から始まっていたことを示している。それでも、エリアソンはサステナビリティを社会に問題提起することを作品作りの主目的にしてきたアーティストではないと思う。この作品のように、近年は特にこの問題を作品の主題をするケースも増えたが、彼にとってサステナブルな手法は、まずは「手段」なのだ。サステナビリティを主張する「活動家」である以前に、彼は自らの作品を作って人々に提示する「アーティスト」であるのだ。

 だから、彼とスタッフたちは、あくまでアーティストとしての活動を実践する中で、これまでと違ったどのような工夫をすれば地球環境のサステナビリティに貢献できるか、それを試行錯誤してきたのではないだろうか。他の様々な職業や立場の人々が、その同じ課題に取り組むのに、それぞれに合ったやり方を実践しようとするように。その試行錯誤のひとつの「結果」が、この展覧会ではないだろうか。アートがサステナビリティに向き合ったときに、どのような様相を見せるのかを。論を築くだけでなく、自らの活動の中で実践して現前させたのだ。あくまで「手を動かす人」として。

 このような展覧会を開くに至ったオラファー・エリアソンのアーティストとしての思考や作品制作の軌跡を知りたくなって、この展覧会の図録を会場のショップで購入。この記事の投稿表題日に読了した。

 展覧会に出展した作品の図像も収録されてはいるが、この本でむしろ重要なのは作品の成立過程をかなり詳細に窺うことができるテキスト群である。そこには、まさにエリアソンとスタッフたちがどのような思考の軌跡を描き、実践の航跡を残しながらここまで歩んできたかを、じっくりと「体感」することができる。展覧会で見た・体験した作品群とのエモーショナルな出会いに、知的な奥行きを与えてくれるとも言える。この本を読了して初めて、今回のエリアソンの展覧会を完全に俯瞰したと言っても過言ではないような気がする。言葉にならないものを「ことば」を用いて思考するための、橋渡しをしてくれるというか。

 展覧会で既に強く実感していたことだが、図録を読んでさらに大きく印象付けられたことのひとつは、エリアソンは地球環境の問題に向き合う際に、非常に理性的で科学的なアプローチを取っていることだ。というより、彼はアーティストとしての活動のそもそもの始まりから、「自然」に向き合うための手段として、科学的手段やテクノロジーを積極的に利用しているように思う。まずは感情を排して、自然現象から科学的・理性的に働きかけてエレメントのみを純度を高めて抽出し、そこに「感情」に訴える「ゆらぎ」のようなものを加えて作品に仕上げてゆく、そのような方法論が見えてくるような気がするのだ。エリアソンの作品の多くが、極めてシンプルな確固とした幾何学的・数学的形態と、偶然の作用によって常に変化する「ゆらぎ」と、その両方を常に内包しているように見えることは指摘に値する。これこそエリアソンが捉える「自然」の姿なのではないか。幾何学形態と「ゆらぎ」を同時に持つという、ある種の矛盾を自らの中に抱えて、それゆえに常に同じ「相」を見せずに絶えず変化する、そのような姿を、私たちを取り巻く「外の世界」に見て、作品として私たちに示し続けてきたのではなかったか。そのようなことを思うのだ。

 もしアートが感情だけの産物であって、理性が司る科学や幾何学や数字などと全く関係のないものだと思っている人がいるとしたら、その人はエリアソンの作品を「体感」するといい。そのような間違った思い込みは、彼の作品によってあっという間に崩されてゆくだろう。

(2020年7月7日投稿。また途中まで書いて放置してしまっていました…。不覚)