静謐の世界、再び

 

 満を持して、上野の東京都美術館で開かれている企画展「ハマスホイとデンマーク絵画」を観てきた。会期初めの比較的空いている時期だったのでそれほど混んでおらず、ゆっくりと観られたのはよかった。

 1987年に、今は亡きセゾン美術館で開かれた「北欧の美術」展で初めてその作品を観て一目惚れして以来ずっと、ヴィルヘルム・ハマスホイ(ヴィルヘルム・ハンマースホイ)Vilhelm Hammershøi (Vilhelm Hammershoi)が描いた室内画・風景画の独特で静謐な絵画世界に魅了され続けてきた。12年前の2008年に、ロンドンのロイヤル・アカデミーThe Royal Academy of Londonと東京の国立西洋美術館において過去に類を見ない大規模なハマスホイの回顧展が開かれた時には、文字通り狂喜乱舞したなあ。わざわざロンドンまで行ってロイヤル・アカデミーの展覧会を観て(2008年9月7日の日記参照)、帰国してから今度は国立西洋美術館での展覧会に複数回通って(2008年11月2日の日記2008年12月7日の日記参照)、あの静謐な絵画世界を深く深く堪能したものだ。

 今回の展覧会ももちろん、とても楽しみにしていた。が、2008年の時とは違い、今回のはハマスホイ作品だけでなく他の19世紀デンマーク絵画とともに出品される展覧会につき、出展全86点のうちハマスホイ作品は半分弱の37点にとどまる。であるから、2008年の展覧会を観た身としては、ハマスホイ作品に限っていうと正直やや物足りない印象だった。

 それも仕方ないか。今回の展覧会に出ているハマスホイ作品はたった37点。そのほとんどが2008年の時にも展示されていた作品だったし、その内訳でも、ハマスホイの真髄ともいうべき室内画が多くなかったのはとても残念。そして作品の全てがデンマークスウェーデンのいくつか限られた数の主要美術館からの出品である。

 対して2008年の展覧会の時は、ほぼハマスホイ単独といってもいい展覧会だったので当たり前だが、出展のハマスホイ作品数はその倍以上の86点。しかも出品元もデンマークスウェーデンの美術館はもとより、ロンドンのテートやフランスのオルセー美術館フィレンツェのウフィツィにニューヨークやオスロの美術館からと幅広く世界中から集められ、さらにかなり数多くの個人所有作品も出品されていた。まさに執念で集めまくった、という感じ。しかもその中でも室内画の割合が非常に高く、画面に背を向けた女性のいる室内画や誰もいない室内画がこれでもかと会場内に並んでいる様は、「壮観」という他ない充実ぶり。ハマスホイの特異な静謐な世界をこの上なく味わえる、おそらく世界でも類を見ない貴重な機会であったのは間違いない。展覧会を企画した、国立西洋美術館学芸員であった佐藤直樹氏(現東京藝術大学准教授)と、ドイツのハマスホイ研究家フェリックス・クラマー氏の功績であったのはいうまでもないだろう。

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 それでも、代表作のひとつであり、私が1987年に初めて観てハマスホイ世界の虜になったきっかけの作品である「背を向けた若い女性のいる室内」(今回の図録=上の写真=の表紙や、展覧会のメインヴィジュアルに使われている作品です)を再び間近で実物を見られたのは素直に嬉しいし、他にも素晴らしい室内画や風景画を堪能することができた。何より、ハマスホイ作品をまとめて日本で見られる機会が再び得られたことが喜ばしい。これもひとえに、2008年の展覧会が大成功を収めたという実績あればこそ、である。敢えて下世話な言い方をすれば、あの展覧会が、無名のデンマークの画家の作品が日本で「企画として成功する=稼げる」ことを証明したので、ハマスホイが再び企画の俎上に上がる機会を得たといっても過言ではないように思う。残念なことでもあるが、現代の日本では、展覧会はお金を稼いで独立採算する必要に常に迫られている。ハマスホイはその点でも「合格」だったのである。

 そんなわけで、2008年の展覧会をご覧になったことにない方には、この展覧会はハマスホイの稀有な絵画世界をまとめて堪能できる貴重な機会なのは間違いない。気になっている人は、今すぐ上野へ急ぎましょう!

 今回の展覧会でハマスホイ作品を眺めていて気づいたのは、ハマスホイの作品は明るさの幅がとても狭いというか、中間的な明るさにこだわって描かれていることだ。正確な数値を測ったわけでなくあくまで印象で語るのだが、仮に明るさの幅を最も明るい真っ白を0、最も暗い真っ黒を100として、例えば強烈な明暗の対比で知られるカラヴァッジオの絵画では0から100までの明るさが表現されているとすると、ハマスホイの作品では30から70くらいの明るさの幅で収まっている印象だ。それをあくまで0から100の尺度で表現しているので、中間的な明るさの差異が実に微妙に、実に繊細に描き分けられることになる。まさに微細で豊かなヴァリエーションに彩られたグレイのニュアンス・カラーがキャンバスを覆う。

 そして、今回の展覧会の最も顕著な特色は、他の19世紀デンマーク絵画のあとにハマスホイ作品が展示されていること。そのことで、ハマスホイ作品が19世紀末当時に受け継がれたデンマーク絵画の伝統や潮流を継承しつつも、その枠組みを超えて独自性を育んでいったことが、実によく体感できる。それほどに、他の作家たちの風景画や室内画と、ハマスホイのそれらとは実に「異質」に、不調和すら感じられる。ハマスホイ作品を観た後では、それまでに観た他の作家の作品の多くが「ごく普通」に、実にありふれたものにしか見えなくなってしまうほどに。逆に、ハマスホイ作品が「地味」に見えてしまう可能性も秘めているのだけれど(笑)。

 この「不調和」のような感覚はどこから来るのか。少し考えて、ハマスホイの作品には他のデンマーク作家のような「デンマークらしさ」が欠如していることに気づいた。欠如しているというよりも、そもそも彼の作品には特定の国や地域を感じさせる要素が存在しないのではないか。室内画はもちろん、明らかにデンマークらしい風景を描いた風景画でさえも。ハマスホイがその独自性を最も発揮した室内画は、19世紀末当時のデンマークでとても隆盛した絵画のジャンルだったという。ハマスホイもその伝統に拠って室内画を手がけたのだが、他の画家たちはあくまで「デンマークらしさ」の中にとどまって、この国で最も尊重される「ヒュゲ(ヒュッゲ)」の安逸を描くことに専念したのに対し、ハマスホイは同じ室内画に独自の作品世界を築くことで「デンマークらしさ」の呪縛から一歩抜きん出て、より高く普遍的な芸術性を獲得できたのだろう。

 展覧会場のキャプションなどにおいてハマスホイを「都市の画家」と呼んだのは、その意味で実に正鵠を得ている。ハマスホイが描く自宅の室内は、まさにコペンハーゲンという「都市」の室内であって、そこからさらに徹底的に余計な要素を排除して研ぎ澄ました結果、実にのっぺりと無国籍でアノニマスな「都市の室内」が画面の中に広がったのである。彼が暮らしたのがコペンハーゲンでなくロンドンかパリであっても、きっとハマスホイは同じようなアノニマスな室内と背を向けた女性たちの絵を描き、同じような繊細なグレイのグラデーションの薄明の風景を描いたことだろう。実際に、ロンドンの風景を描いた風景画が数点存在するが、彼がコペンハーゲン市内の風景を描いた作品となんら特徴的な違いは見出せないし、ましてやそのどちらにも国籍を明らかにする要素は見当たらない。ハマスホイの作品は、特定の時代や国籍を超越して存在して、現代の私たちにもその独自の芸術性を訴えかけてくる。これこそ「名作」であることの条件のひとつだろう。ある種、ハマスホイは具象絵画の中に抽象性を確立したとさえ言ってもいい。

 とはいえ、私は他の19世紀デンマークの画家たちの風景画や室内画を、大いに楽しんで鑑賞した。もともと私は風景画や室内画が大好きで人物画いらない人なので、当たり前といえば当たり前だが(笑)。北欧ならではといっていいのかどうかわからないが、その清々しいまでの透明な空気感や光と影の扱い方がとても好ましく、絵の中の空間にいつまでも入り込んでいたい気持ちにさせる作品が実に多かった。見ているだけで、その世界や物語が感じられるような作品たち。クプゲやポウルスン、ローゼやスケーイン派の画家たち。そしてハマスホイの同胞イルステズとホルスーウ。そのため風景画や室内画を一点一点かなりじっくりと鑑賞したので、ハマスホイ作品のセクション(展覧会の最後に置かれている)に到達する頃には、いい意味でかなりお腹いっぱいになっていた(笑)。なんとも幸福な絵画体験である。

 書き出すと実にキリがなく、もっともっと書くべきことが山のようにあるが、他の機会に譲ることにしよう。だが、最後にひとつ。この展覧会、展覧会グッズのデザインのレヴェルが非常に高いのだ。ここ数年のメジャーな企画展の中でもダントツに高い、とさえ言えるかもしれない。力の入った大規模な展覧会であっても、商品数を増やすために作品のヴィジュアルを商品にはめ込んだだけという感じのとても残念なグッズや、明らかにウケ狙いだけのグッズを見かけることもあった。だがこの展覧会は本気でグッズを「デザイン」している。ポスターやトートバッグなどでの作品の大胆なトリミングや、ハマスホイ作品の特有なモチーフだけを抜き出してあしらったグッズもさることながら、キャンドルやマグカップなどはハマスホイの絵で使われるようなグレー一色の地に展覧会名をシンプルに入れただけ、そのグレーの微妙な色味の差異でカラバリ3種、というデザインのものまである。絵のモチーフを使わなくても、このグレーこそがハマスホイらしさを雄弁に語っているというわけ。実に粋だ。実に久々に「うっかりすると財布が軽くなってしまいそうな危うさ」を感じて焦った(笑)。

 それほどまでに、ハマスホイの作品に現在の人々は「デザイン性」を感じ取っているのだろう。今では当たり前に「シンプル&モダンのデザインがいい」なんていうけれども、19世紀末のヨーロッパでは存在すらしなかった概念だ。当時は優雅に装飾された家具調度品をより多く持つことが、豊かさの証だった時代である。ハマスホイはもしかしたら自らの室内画において、それまでにない全く新しい美意識を持つ室内空間の提案を(意識していたか否かに関わらず)していたのかもしれない。高度な抽象性は良質のデザイン性に通じる。その意味では、ハマスホイの室内画の世界を受け継ぐ正統な後継者は、後世のハイ・アートの作家たちではなく、至上のグッドデザインと賞賛されることになる北欧デザインをはじめとするモダン・デザインを生み出した人々なのかもしれない。

artexhibition.jp

(2020年2月15日投稿。もっと早く書き終えるつもりが、体調を崩してしまい遅れまくってしまいました…)