三回忌/きさらぎは凶

 

 2月13日は、私の父の命日である。

 今年もその日が巡ってきた。父が亡くなってから、丸2年が経過したことになる。昨年もこの日記に父の命日のことを書いた(2019年2月13日の日記参照)。

 奇しくも、2020年1月30日の日記で紹介したヴィルヘルム・ハマスホイ(ヴィルヘルム・ハンマースホイ)Vilhelm Hammershøi (Vilhelm Hammershoi)の命日も、父と同じ2月13日である(ハマスホイは1916年2月13日没)。ハマスホイの絵画世界は私にものすごく影響を与えたので、偶然の一致とは言いながらもなお奇縁を感じる。

 父の三回忌の法要は、この命日の数日前に、母と私たち夫婦の三人だけでこぢんまりと済ませたばかり。法要を終えてから、近所の公園で咲き誇る梅の花を眺めて、厳粛に沈んだ心を和ませた(上の写真)。時間が経てば……と人は言うけれども、ほんの2年やそこらでは、喪失感はなかなか癒えるものではない。

 昨年の同じ頃の日記に、2月は一年の中で忌むべき「気」が最も濃厚になる悪しき月だと感じると書いたが(2019年2月14日の日記参照)、そこで作家の瀬戸内寂聴さんが、同じように2月を悪しき月だと書いていらっしゃることを紹介した。今年もまた、瀬戸内さんは同じように「きさらぎは凶」と題して、2月は「凶の月」だと朝日新聞の連載エッセイで書いておられる。それも、まさに私の父の命日たる2月13日の新聞で。まあ単に曜日が合致しただけなのだが(朝日新聞の瀬戸内さんのエッセイ「残された日々」は、毎月第2木曜日の掲載)。それでも、偶然の一致とはいえ私たちには重い記憶の日に2月という月の禍々しさについて読むのは、やはり何かただならぬものをを感じざるを得ない。

 実際のところ、今年も2月は、世の中でもその禍々しき力を撒き散らしているとしか思えない。世界を恐怖に陥れているコロナウイルスによる新型肺炎の猛威は言うに及ばず、真冬とは思えぬ暖かい日々の連続が地球温暖化の切迫化を告げている。そして日本の国会では疑惑や醜聞が渦巻き、言い訳にならぬような答弁をこの国の首相や大臣や議員たちがが繰り返す。見るも無残な醜態を演じて人々の心をささくれ立たせる。もちろん、これらは2月より前から続いていることなのだが、今月に入ってより一層悪しき様相を呈してきた感がある。まさに2月の「悪しき力」が、事態をさらに悪い方へ後押ししているようにすら思えてしまう。

 私自身も、このところの暇な生活に慣れてすっかりだらけきっていたのが、今年に入ってから妙に周辺が騒がしくなっていた。そのため、私自身がいろいろ動き回らざるを得ない日々が年明けから続き、バタバタしたまま2月に突入。この勢いで2月の悪しき「気」を押し流してうやむやにしてしまおうと目論んでいたのだが、さすがに甘かった(笑)。この禍々しい2月が、そう簡単に見逃してくれるはずがない。

 2月に入って一週間も経たずに、慣れない忙しさに疲労が溜まったせいで見事に体調を崩してしまい、風邪を引いてしまった。風邪自体はそれほど大したものではないのだが、私は薬疹なのでいわゆる普通の風邪薬(PLとかロキソニンとか)が一切飲めない。ついでに頭痛薬や痛み止めも飲めない。抗生物質だけは大丈夫なのだが、軽い風邪程度でいちいち抗生物質を飲んでいたら、鼠同士の喧嘩に巨大爆弾を持ち出すようなものなので、肝心の時に効かなくなるから飲まないようにと医者に釘を刺されている。つまりはうがい薬程度しか使えず、ほぼ自然治癒で治さねばならないのだ(涙)。いきおい、軽い風邪でも治るのにとても時間がかかることになる。やれやれだが薬疹は深刻なので仕方ない。ずるずると治らない風邪を引きずって、2月の大半を消費してしまった。ようやくこのブログを書けるくらいには快復してきたが、今年も結局のところ、2月の悪しき「気」にやられてしまった。

 こうなってくると、あとは3月まで駆け抜けたい気分、あるいは3月までじっと潜んでやり過ごしたい気分だ。毎年2月の28日になると、それだけで心が浮き立ってくる(笑)。

 春の足音が、待ち遠しくて。

(2020年2月20日投稿)。