叔父の訃報に接する。
大好きだった叔父への手向けに、久々に花束を買ってダイニングテーブルに飾る。
気がつけば、彼岸を過ぎてすっかり秋が深まり、菊の花がほんのりと開く季節だ。
ほんのりと丸い菊の花々が、輪郭を震わせながら暗闇の中に浮かび上がる。
その花々を見つめながら、故人を想う。
私の亡き父の、ただひとりのきょうだいだった叔父は、父より6歳年下だった。
私が幼い頃は、社会人になりたてだった叔父もまだ私の両親と祖母と同居していたので、ずいぶんと可愛がってもらった記憶がうっすらとある。
幼い頃の記憶といえば、まさについ半日前に書いた日記に、「幼い頃の朧げな記憶が少しずつ呼び覚まされ」などと書いたばかりである。そうした過去の思い出の断片が、さらに多くの意識下の記憶も呼び起こしてしまったのだろうか。などと錯覚してしまう。彼岸と此岸の境界が曖昧になるという、黄昏時のまやかしだろうか。
ほんの2年と少々前、亡き父を偲ぶ会の席上では家族を代表して、350人以上もの人々の前で元気な挨拶をしていたのに。
「それ」はいつでも、すぐそばにいるのだ。
そのことに想いを馳せる。「無常」であることに。
夕暮れのほんのいっとき、普段は日常に紛れて見えない彼岸の姿を垣間見せようと、菊の花々はふんわりと私たちに誘いかける。
(2020年9月24日投稿)