28年の月日を超えて

f:id:studio_unicorn:20090714122243j:plain

 

 2月27日の日記で言及した、1994年リレハンメルオリンピックフィギュアスケート女子シングル金メダリストにして、ウクライナ初のオリンピック金メダリストであるオクサナ・バイウルOksana Baiulについて、少々追記を。

 まず、オクサナ・バイウルさんご本人によるツイッターアカウントが存在していました。

twitter.com

 2月27日の日記には「バイウル自身のコメントは未だ私の耳には届いていない」と書いたけれども、実際にはバイウルさんはずっと以前から祖国ウクライナへの想いをツイッター上で表明していた。寡聞にして存じず、失礼いたしました。

 この他にバイウルさんはインスタグラムのアカウントもお持ちで、そちらでも同様に祖国への愛を表明なさっている。

 

f:id:studio_unicorn:20090714121038j:plain

 

 それから、1994年2月25日におこなわれたリレハンメルオリンピックフィギュアスケート・女子シングルフリープログラムの動画が、ネットのどこかで公開されているのではないかと思って検索してみたところ、なんのことはない本家本元オリンピックの公式サイトで無料公開されていた(笑)。

olympics.com

 

 考えてみれば当たり前の話か。オリンピックを運営する当事者なのだから、できるだけ完全なアーカイブを持とうとするのは、至極当然なことだ。この時ばかりは、オリンピック委員会の徹底したアーカイブ主義に感謝だ。

 しかもこの動画、リンク先をご覧になればお判りのように、全選手の演技はもちろん、競技開始から終了後のメダル授与のセレモニーまで省略は一切なし。流しっぱなしの4時間15分完全収録である。ただしテレビ局の放送分ではないので、実況中継や解説などは一切なし。もちろん日本語吹き替えではありません(笑)。

 2006年1月16日の日記に少し書いたように、当時の私の職業上の要請もあり、28年前のあの日私は夜通し編集部のテレビにかじりついて、このフリー競技を最初から最後まで通して観た(その時はもちろん、NHKの放送分なので日本語解説付きだった)。そのあまりにドラマチックな展開に、競技が終わってテレビ中継が終わった後も呆然と椅子の中にへたり込んでしまい、しばらく動けなかったくらいだ。

 このリレハンメル大会女子シングルフリーの日本でのテレビ中継は、やはり仕事上の必要から同時に自宅のビデオデッキ(!)で録画しておいた。ええ、あの頃はVHSのビデオデッキでしたねえ。そのおかげで、その後も何度か録画を再生して競技の一部始終を鑑賞することができたのは幸いだった。私にとって、あのフリー競技はそれほどまでに印象深かった。スポーツ競技全体にあまり思い入れが強くない自分としては、極めて珍しいのだが。そのVHSもずいぶん前に処分してしまったので、もう通して観る機会はないだろうと思っていたのだ。ネットで探せばすぐに見つかるところにあるとは知らずに(笑)。

 さっそく上記リンク先の動画で、競技の様子を拝見。変に編集されていないナマの映像なので、却って28年前の臨場感が時を超えて甦ってくる。観ているだけで感慨深い。

 といっても4時間ぶっ通しで観るのは、すっかり衰えきった私の目にはとても耐えられないので、とりあえず肝心の二人=ケリガン(この動画では2時間58分辺り)と直後のバイウル(同じく3時間6分辺り)の演技を観た。

 28年後の視点で改めて観ても、ナンシー・ケリガンのミスひとつなく高いテクニックに支えられた演技は、確かに正確なことこの上ない。現行の採点方法だったら確実にケリガンが優勝していただろう。それでも「与えられた課題を模範的にこなす優等生」の印象が拭えない。つまり、やっぱり全然面白くないのだ。

 そこに来ると、直後に滑ったバイウルの演技は、観るものへ訴えてくる「何か」が根本的に違う。人々に見せる、いや「魅せる」ことに力を尽くす演技というか。さすが「氷上のバレリーナ」と評されただけあって、バレエで身につけた表現力がスケートのテクニックを大幅に押し上げて、何か「すごいもの」を私たちに届けようという意志がその演技から伝わってくる。今見てもケリガンの演技なんかよりこっちの方が断然面白い。もう後半なんか会場との一体感が、映像を通してもビンビンに伝わってくる。本人は前日の事故で二針縫った右足の激痛で、気が遠くなりそうだったはずなのに(痛み止めを打ったとはいえ、ジャンプの着地のほうの足ですから……)。それでも次々とジャンプを決めてもう後半はノリにノリまくって、ハリウッドミュージカルナンバーをエンジョイすらしているように見える。ダメ押しに、そんな怪我を抱えているのに、コンビネーションジャンプを最後に持ってくる度胸の大きさまで(コンビネーションは著しく体力を消耗するので、当時の女子選手はプログラムの前半に持ってくる選手が多かった)。今のネット世代の人なら「神演技」とか呼びそうな、一世一代の大舞台だった。

 人の心を強く動かすものが芸術であるならば、このバイウルの演技は、まさに「芸術」と呼ぶべきものであった。28年経って改めて観ても、その印象は厳然として揺るがなかった。

 映像の最後には、メダル授与のセレモニーが収録されていた。オリンピックのセレモニー史上で初めて流れたウクライナ国歌。今まさにあの国の無辜の人々も、この歌を心の中で口ずさみながら苦難に立ち向かっているのだろうか。それを思うと、28年の時を隔てて今この国歌を聴くことの重さを、ひしひしと感じて心が重くなる。

 そうそう、日本語実況中継付き(NHKで放送されたものと思われます)のバイウルさんのリレハンメル・フリー演技の映像を見つけたので、貼っておきます。

 


www.youtube.com

 

(写真は2点とも、2009年7月14日にノルウェーソグネフィヨルドSognefjordenにて撮影。リレハンメルオリンピックの話だったので、ノルウェーつながりで挙げてみました)

(2022年3月8日投稿)

河津桜の咲くころ

f:id:studio_unicorn:20220303142223j:plain

 

 東京・代官山の西郷山公園にて、河津桜の写真を撮る。

 3月に入ってようやく気候が春めいてきたので、そろそろ河津桜も花が咲き始めたかと思い、代官山に来たついでに様子を見に訪れた。

 

f:id:studio_unicorn:20220303142305j:plain

 

 西郷山公園の真ん中にある小高い丘の上に、すっくと一本だけ河津桜の木が立っているのだが、ご覧の通り、雲ひとつない青空をバックに、ピンク色の花々が鮮やかなコントラストを為してとても美しい。多くの人が訪れて、カメラを向けている。

 

f:id:studio_unicorn:20220303142506j:plain

 

 それでも、今年は2月のうちは非常に寒い日が多く、例年に増して春めくのが遅かったせいか、河津桜の咲きぶりもまだ三分から四分咲きという感じだ。

 一昨年にもこの日記に、同じ西郷山公園河津桜の写真を掲載した(2020年2月18日の日記参照)。その時の写真を見ると、まだ2月後半の段階であるにもかかわらず、3月に入ってから撮った今年の写真よりも多く花開いていたように見える。明らかに今年は開花が遅めだ。

 実際のところ、今日の写真をよく見ると、多くの花房がたくさんの蕾を抱えているのが分かる。満開はまだまだ先のようだ。

 

f:id:studio_unicorn:20220303142053j:plain

 

 花開くのを今か今かと待ち受けるそんな蕾たちも、この先両腕をいっぱいに広げるように咲き開く花びらをぎゅっと凝縮して内に秘め、身体を丸めて待機している。その色の濃いこと! ほとんど紅のような色で、これもまた目に眩しい。

 

f:id:studio_unicorn:20220303135945j:plain

 

 騒然とした世の中をよそに、むしろ宥めるかのように。

 私たちの心を慰め、いつまで見ても飽きない。

 美しき花々に、平和への祈りを込めて。

 武器の代わりに、戦場に花を持ち込もう。

(2022年3月4日投稿)

花はどこへ行った

f:id:studio_unicorn:20220226153730j:plain

 

 ウクライナという国名を聞いて私が真っ先に思い浮かべる人は、1994年リレハンメル冬季オリンピック大会のフィギュアスケート・女子シングルで金メダルを獲得したオクサナ・バイウルOksana Baiulだ。

オクサナ・バイウル - Wikipedia

 あの時、女子シングルのショートプログラムで首位に立ったのは米国のナンシー・ケリガン。彼女がフリープログラムで正確無比だが人間味の欠片もない、まるで機械のようなクソつまらない演技を貼り付けた笑顔で滑るのを見て、私たちは画面のこちら側で大ブーイングを浴びせかけたものだ。

 そして、その直後に出てきたSP2位のバイウルが、まさに「魅せる」演技と呼ぶべき圧倒的で素晴らしい4分間を披露。会場の観客を引き込んで味方につけたのは勿論、画面の前の私たちまで大いに魅了したのを昨日のことのように思い出す。このドラマチックなフリーの演技で、バイウルは大逆転の金メダルを射止めた。

 現在はプロのスケーターとして米国に在住しているようだが、彼女は今まさにロシア軍の侵攻にさらされている祖国ウクライナの苦難をいかに嘆き悲しんでいるか、察するに余りある。バイウル自身のコメントは未だ私の耳には届いていないが、彼女と同じくウクライナをルーツに持つ多くのスポーツ選手や著名人たち、そしてロシアの側でも、多くの人々がこの侵略に抗議の声を挙げている。

 戦争は絶対にいけない。

 どのような理由であれ、どのような状況下であれ。

 その暴力的手段を取った段階で、取り返しのつかない過ちを犯しているのだ。

 戦争の最もいけないことは、国家という体制の「都合」によって、そこに暮らす個人のささやかな人生や幸せが蹂躙されてしまうことだ。戦争という「大義」を振りかざす国家という体制は、特定の個人の顔をしてない。その体制に属する政治家も役人も兵士たちも全て人間であることを失い、体制の一部を成す「部品」と化す。勿論、次から次へと代替の効く部品だ。元首でさえも例外ではない。ロシアのプーチン氏もまた。

 そんな体制が引き起こすもの=戦争には「人」は存在しないのだ。戦争が非人道的なのは当たり前なのだ。「人間」が存在しないのだから。顔のある個々の「人間」たちは戦争という「大義」に蹂躙されるしかないのだ。戦争は個人を抹殺すると言ってもいい。勿論、個々人の持つダイバーシティとか多様性とかを尊重することはまずあり得ない。

 くだんのリレハンメル大会の、女子シングルフリー最終滑走者はドイツのカタリナ・ヴィット(カタリーナ・ビット)Katarina Wittだった。彼女が演技で使用した曲は、反戦歌『花はどこへ行った』"Where have all the flowers gone?"。彼女がかつて金メダルを獲得した1984冬季オリンピック大会の開催地で、あの当時ユーゴスラヴィア内戦で大きく破壊されたサラエヴォへの、平和の祈りを込めての選曲・演技であった。

 平和への祈りは、いつの時代にも、変わらず。

f:id:studio_unicorn:20220226151523j:plain

 

 花はどこへ行った。

 花はここにある。

 花は世界の全てを覆うほどに在る。

 武器の代わりに花を戦場に持ち込もう。

 銃口を花束で塞ごう。

 大地を花で埋め尽くそう。

 

f:id:studio_unicorn:20220226153527j:plain

(写真は全て、2022年2月26日に東京・世田谷区の羽根木公園にて撮影)

【映画記録】挨拶ことばは「クー!」

f:id:studio_unicorn:20220113163108j:plain

 

 下高井戸シネマにて、映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』デジタルリマスター版(露語題"Кин-дза-дза!"、英題" Kin-dza-dza!")を観た。

www.pan-dora.co.jp

 

 映画の最初の公開は1986年、今から38年前だ(日本での初公開は1989年)。伝説のカルト映画(この言葉も最近あまり見かけなくなった気がする)として名前はしょっちゅう聞くほど有名で、ずっと気になっているがなかなか観る機会の得られない映画というのがいくつかあるが、この『不思議惑星キン・ザ・ザ』はまさにその代表格。ようやく観ることができた。

 

 映画の制作国はソビエト連邦。れっきとしたソ連製フィルムである。冷戦期のソ連は米国と並ぶSF大国で、文学でも映画でも大御所の作家を多数輩出しているが、そういう意味ではこの映画もソ連SF映画の系譜に連なる一級品といえよう。まさにソ連SFの面目躍如の作品でもある。

 異星人の会話がほとんど「クー!」で終わってしまうのを始め、この映画にはバカバカしいくらいのヘンテコなノリが全編に満ち溢れ、独特の味わいを醸し出している。その辺りがカルト映画として取り上げられやすい要素なのだろう。とはいうものの、映画を観終わった私の最初の感想は「フツーにおもしろかったな」。カルト映画っぽい要素ばかりが強調される傾向があるが、物語そのものは非常に大真面目できちんとストーリーテリングされており、奇を衒うあまり観客を突き放すようなことは一切していない。友情やラストのカタルシスも込められて、非常にまっとうな娯楽作品に仕上がっている。まぁ物語の作りそのものはけっこう「ユルい」感じなので、現代のちょっと厳しい映画作りの視点からするとツッコミどころ満載かもしれない。全体の「ユルさ」とヘンテコなノリのせいで「何でもあり」感を出しているので、私自身は観ていて全然違和感はなかったけれども(笑)。

 惑星間の移動シーンもありながら、実は画面に宇宙空間が一切出てこないのも特筆すべきだろう。まぁ「特撮」に関しては、かなりの技術上の制約もあって手作り感が満載かな。それがまたイイのだが。映画のメインヴィジュアルともいうべき釣鐘型宇宙船が砂漠の上空をホワホワ飛んできて、ちょこんと短い脚を出して着陸するシーンの愛らしいことといったら!

 それは別にしても、この映画は随所に美しい場面が出てきて、その映像美を堪能するだけでも観る価値があると思う。延々と続く砂漠の中で繰り広げられる少々狂気を孕んだヴィジュアルイメージの数々は、まるでシュールレアリズムの絵画が動き出したかのようだ。特に惑星の首都において、地平線の彼方に巨大な風船のようなものが漂っている場面などは、まさにサルヴァドール・ダリの絵画の中に迷い込んだ錯覚すら覚える。

 映画に登場するキン・ザ・ザ星雲の惑星プリュクが砂漠の星だというのは、巷では「スター・ウォーズ」シリーズの砂漠の惑星タトゥイーンからの影響だと言われているようだが、私はむしろフランク・ハーバートの『デューン砂の惑星』"Dune"からのイメージではないかと思った。これは昨年ドゥニ・ヴィルヌーヴがリメイクした映画版『DUNE/デューン 砂の惑星』を私が観てからそれほど時間が経っていないせいかもしれない。

 

f:id:studio_unicorn:20220113143056j:plain

 

 別の面でこれはソ連映画だなと思わせるのが、登場する地球人のひとりゲデヴァンがジョージアグルジア)出身なので、彼の思考はグルジア語とロシア語の二つの言語でおこなうので読み取りにくいと異星人が文句を言う場面だ(この映画では、異星人は地球人の思考を読み取ることができる)。ソ連がいかに多民族連邦国家であるかの証左なのだが、もうひとつ気づいたこと。それは、この映画は実質的にジョージアの映画だということだ。

 ソ連の映画界を支えてきたのはジョージア出身の映画人達だというのは非常に有名な話だが、この映画はまさにそれ。ソ連製映画のクオリティが非常に高いのは、つまるところジョージアの映画製作のクオリティの高さゆえなのだ。この映画の監督のゲオルギー・ダネリヤは国籍こそロシアだが生まれ育ったのはジョージアだし、共同脚本のレヴァズ・ガブリアゼとその息子でゲデヴァン役を演じたレヴァン・ガブリアゼもジョージア人。音楽担当の高名な作曲家ギヤ・カンチェリ(!)も勿論ジョージア人。この映画がもし今初公開されたとしたら、当然のようにジョージア映画として世に出てきただろう。

 私は数年前にジョージア文化に俄然興味が湧いた時期があり(今もその熱は衰えていない)、その頃に何本か新旧のジョージア映画を観たことがあるが、人口が400万人に満たない小さな国とは思えないほど映画人の層がものすごく厚いのにびっくりした記憶がある。それはとどのつまり、ソ連時代は彼らが作った映画がソ連の映画として公開されていたというだけで、ジョージア人の映画の系譜はその頃から脈々と続いていたのだ。

(写真は全て2022年1月13日に東京・代官山にて撮影)

(2022年1月27日投稿)

飛鳥山にて「栄一詣で」

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」が最終回を迎え、ドラマが終わった今頃になって「渋沢栄一巡り」をしたくなり居ても立ってもいられなくなった(2022年1月5日の日記参照)私。

 さっそく渋沢栄一ゆかりの地のひとつ、東京都北区の区立飛鳥山公園を訪れた。この公園は江戸中期に8代将軍徳川吉宗が桜の名所として整備したのが始まりだそうだが、公園内の一角に、栄一が後半生を過ごした自邸が建っていたのである。

 ドラマでも再三にわたり登場した邸宅そのものは、残念ながら第二次世界大戦中の空襲によって消失してしまったそうだが、その跡一帯は現在も「渋沢庭園」として一般に公開されており、たいそう立派な建造物の「渋沢史料館」がそのすぐ脇に建っている。

飛鳥山公園|東京都北区

飛鳥山公園 - Wikipedia

渋沢史料館|公益財団法人 渋沢栄一記念財団

 史料館の向かいにあった大河ドラマ館は、昨年12月26日の最終回放送日に終了してしまったが、私たちのような遅れ馳せの「巡礼者」たちがけっこう多いらしく、史料館や関連施設はなかなかの賑わいを見せていた。

 もとより飛鳥山公園そのものがJR王子駅のすぐ近くに位置する、地元の北区の人々の憩いの場である。この日は日曜日ということもあって、実に多くの幅広い年齢層の人々が公園内のあちこちで過ごしていた。その様子を見るにつけ、この飛鳥山公園がいかに地元の人々に愛され、親しまれてきたかを実感する。そしてそこに暮らした「渋沢翁」こと栄一も、また。

 

f:id:studio_unicorn:20220116140731j:plain

 渋沢史料館にてパネルと史料の展示にて栄一の生涯を辿った後に、渋沢庭園内に残る「青淵文庫」を訪れる(上の写真)。

 1925年(大正14年)に、栄一の傘寿と子爵昇進を祝って竜門社(現・渋沢栄一記念財団)から贈られたという、煉瓦及び鉄筋コンクリート造の建物である。田辺淳吉という建築家の設計によるもので、大正期の代表的な洋風建築のひとつだとか。こちらは戦災を免れて、現在までその姿をとどめている。

 「青淵文庫」はドラマの中には登場しなかったが、栄一の論語関係の書籍を収蔵する書庫として、また接客の場として大いに使用されたという。

 

f:id:studio_unicorn:20220116145902j:plain

 モザイクタイルやステンドグラスを使い、細部までこだわりを尽くした意匠が実に見事だ。

 

f:id:studio_unicorn:20220116150245j:plain

 内装にも随所に繊細で優美な意匠が施されていて、じっくり観ていても見飽きない。決して過剰な華美に走ってはいないが、滲み出るような豊かさに満ちた往時のセンスの良さが偲ばれる。

 

f:id:studio_unicorn:20220116150812j:plain

 

f:id:studio_unicorn:20220116151819j:plain

 

f:id:studio_unicorn:20220116151842j:plain

 

 飛鳥山で栄一の在りし日々の残影を堪能したあとは、好評につき延長開館中だった「渋沢×北区 飛鳥山おみやげ館」で買った栄一の故郷・血洗島(現・埼玉県深谷市)の名物「煮ぼうとう」を買い、翌日の夕ごはんにいただく。

 

f:id:studio_unicorn:20220117212110j:plain

 

 味噌仕立ての甲州山梨県)のほうとうと異なり、こちらは汁が醤油ベース。それでもほうとうの素朴な舌触りと味わいは変わらず、ほうとう大好きな私たち夫婦は大満足。大いに舌鼓を打ったのだった。

(2022年1月23日投稿)

 

 

みんながうれしいのが一番

 大丈夫だい。私が言いたいことはちっとも難しいことではありません。手を取り合いましょう。困っている人がいれば助け合いましょう。人は人を思いやる心を、誰かが苦しめば胸が痛み、誰かが救われれば温かくなる心を当たり前に持っている。助け合うんだ。仲良くすんべぇ。そうでねぇと、とっさまやかっさまに叱られる。みんなで手を取り合いましょう。みんながうれしいのが一番なんだで。

 吉沢亮さん演ずる91歳の渋沢栄一が、生涯を閉じるほんの少し前にラジオで発する最後のメッセージ。素朴な郷里のことばも交えながら語りかける。当たり前のことなんだけれど、私たちがなかなかできないこと。今日でも大いなる課題。それに向かって走り続けた栄一の生涯は、その生涯の軌跡そのものが私たちに向けた大いなるメッセージだったことに、最終回になってようやく気づく。

 

f:id:studio_unicorn:20220102164237j:plain

 

 大河ドラマ「青天を衝け」の最終回(第41回)の録画をこの日、ようやく観た。

 先述した通り昨年秋に新居への引っ越しに伴う前後のドタバタがあって、そのせいで録画したまま観ていない回が相当溜まって大幅に遅れてしまった。それでも頑張って消化して、最終回の本放送が流れた昨年12月26日の時点では残り4話まで追いついた。

 その一方でこの年越しの時期は、これも先述の通り住環境の著しい変化でプチ適応障害っぽくなって新しい暮らしに慣れるのに精一杯で、とても年末年始気分を味わう余裕もなくそれらしいことは何ひとつしなかった。このところ目の疲労度が再び悪化して画面を長時間見続けていられず、一日に観ることができるのはせいぜい1話分が限度なので、何もしなかったのが却って幸いして年末に連日まとまった時間を取れて数話分を続けて鑑賞できたのは大きく、残すは最終回のみ、というところで年を越した次第。

 

 昨年夏にこのテレビドラマについて書いて(2021年8月15日の日記参照)以来、もっと書こう書こうと思うだけで先述の通りのバタバタの渦中でもがくばかり。全く書けないうちに最終回を迎えてしまったのは非常に残念。それでも、幕末から明治への激動の時代をこれほどの新しい視点から描き切ったこのドラマを、最終回まで観ることができただけでも誠に幸いであった。それほどに、「青天を衝け」は、素直に「観てよかった」「一年近く付き合うことができて本当に幸せだった」ドラマだ。

 一年近くの期間を、週に一度とはいえひとつのドラマを観続けて「付き合う」ということは、ある意味ではそのドラマを生活の伴侶というか一部として、一年近くの期間を共に過ごすということでもある。勿論その人にとって、何らかの面で付き合い続けるに足るドラマでなければならないのはいうまでもない。「青天を衝け」は、まさにそれに値するドラマであった。

 唯一不満、というよりは本当に惜しかった&勿体無かったと悔しく思う点がある。それは、このドラマを高く評価するほぼ全ての人の意見として一致しているようだが、とにかく話数が少なすぎた(たったの41話!)、物語が短すぎたということだ。

 

 いやしかしそれにしても、今頃になって渋沢栄一の足跡を辿ってあちこち訪ねてみたくなってきたぞ。都内ですぐに行けそうなところでは、飛鳥山公園東京商工会議所は行くべきか。そして何より栄一の故郷・血洗島(埼玉県深谷市)に行きたくてたまらない。あの地平線に延々と畑が続く、日本人の原風景のような農村の景色は現代ではもう望めないのかもしれないが、東京で生活しているとまず感じることができない「武蔵野の地平線を眺める暮らし」に触れるだけでも、栄一たちの青春の息吹を感じ取ることができるような気がして。

 というより、これはきっと「青天ロス」「栄一ロス」の私なりの表れなのだろう。要するに、最終回を迎えてしまって、もうテレビではあの物語の世界を味わうことができないので、他の何かでその欠如を補填する必要がある、というか。そこでDVDなどでドラマをもう一度観返すという方向にはすぐにいかないのが、天邪鬼な私(笑)。小説版とかサントラとか活躍の舞台を訪問とか、微妙にドラマの周辺のものを当たることが多いのである。これはきっと、私がドラマそのものもさることながら、より以上にそのドラマの世界そのものに浸っていたいからなのだと思う。ドラマの中の世界に身を置いて、特に何もしないで佇んでいるだけでもいい、というか。

 ちなみに、これを書いている2022年1月13日の時点では、新しい大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第1話の録画は、まだ観ていない。今回の日記を書くまでは観ないつもりだった。うっかり観てしまうと、すっかり頭の中が「鎌倉殿」に占領されてしまってそっちのことばかり書きたくなって、今更「青天」のことを書く気が萎んでしまうかもしれないので……(笑)。

 うん、でも、最終回を終えて年が改まって、すっかり世の中が新しい大河ドラマ一色に染まってしまっている今こそ、私はむしろ「青天を衝け」についてもっともっと大いに語りたいのだ。今回はずいぶんと取り留めもなく書いてしまったが、それは書きながら「これも書かないと、あれも書かないと」と次々に浮かんでくるから(笑)。語りたいこと、語るべきことは山ほどある。毎回観るたびにメモを書いて、そのメモが全41話分でトラベラーズノートのリフィル一冊分に相当するくらいの分量はあるのだ。そうは言っても目の疲労が激しく画面を長時間見ていられないので、まあ大して書くことはできないとは思うけれども。何かの折に触れてでも、書く機会が持てれば何よりなのだが。とりあえず話数が短すぎたことについては書かないとな(怒)。

 

f:id:studio_unicorn:20220103155641j:plain

 

 「みんながうれしいのが一番」という、栄一が生涯胸に抱き続けて全ての行動の指標として掲げ続けたモットーは、今なお私たちに、私たちが向かう道が正しいのか問う時の指標であり続けていると思う。栄一たちが日本の近代に向かって開いた道は、私たちがこれまで歩いた道であり、これから歩んでゆく道に続いているのだから。

(写真は2022年1月2日と3日に撮影)

(2022年1月13日投稿)

住所が変わりました

f:id:studio_unicorn:20210907160003j:plain

 そんなわけで(どんなわけだ)、新しい家で暮らしている。

 私が生まれ育った東京は世田谷区代田にある実家を、独立型二世帯住宅に建て替える新築工事を今年(2021年)の頭から進めていた。私たち夫婦と私の母とが同じ屋根の下で個別に暮らせるようにとのことで、独立型の二世帯住宅にしたのである。その新居が9月に完成して引き渡しを受け、すぐに引っ越してから3か月半ほど経った。

 建物のプランそのものはいわゆる「コロナ以前」に出来上がっていたのだが、新型コロナ禍の影響による大幅な進行遅延に遭い、大きな障害を乗り越えて完成したので、ようやく、という感慨が強い。設計・監理をお願いした建築家さんとの最初の打ち合わせから数えると、完成までに2年以上かかったことになる。

 新居の場所はともかく家そのものは全くの新築なので、勿論3か月少々という短い期間ではとても新居での暮らしに慣れるはずもない。四季でいえばまだ季節ひとつ分だ。やはり一年通して暮らして、四季折々をひと通り体感してからでないと、「慣れる」ためのスタートラインにさえ立てないと思う。

 

f:id:studio_unicorn:20210907143914j:plain

 

 とはいえ、3か月経つとさすがに幾らかは新しい家に「落ち着いた」気分になるのは確かだ。引っ越して新居で暮らし始めた当初は、借り物感というか、どこかのホテルに長期滞在しているような錯覚にしょっちゅうとらわれていた。慣れていないのだから当たり前だが(笑)。

 だが、多少は落ち着いたといっても、現在でもけっこう心理的に負担を感じることもあるので、プチ適応障害になっているのかもしれない。

 そのせいもあるのだろうが、3か月半経っても今の自分の中に、クリスマスとか年の瀬とか新年とかを迎えられるだけの心の余裕が、1ミリもないのだ。今日が大晦日の前日だという実感が全くない(笑)。時間を流す人(そんな人はいないけれど)に向かって「ちょっと待って、ストップ! 年の瀬を迎える気持ちの余裕ができるまで止めておいて!」と叫びたいくらい。

 そんなわけで、今年はクリスマスも年末年始も、それらしいことは一切しません(笑)、というよりできません。私たち夫婦の結婚記念日だけはきちんと、二人だけで祝いましたが。年賀状もこれから作ります。出すのは年明けかしらん。

 

【2021年12月31日追記】

 その年賀状だが、元日に出すつもりで今日は気合を入れて作業したところ、我が家にある2台のプリンタが揃いも揃って不具合を起こす始末。用意したハガキ用紙の9割以上を印刷に失敗するという、自分史上前代未聞(?)の災難に見舞われてしまった。

 ほんの数枚だけなんとか見栄えがついたので今日投函したが、残りは年が明けてからプリンタを買い替えて、さらにハガキ用紙がなくなってしまったので買い足してからでないと作業できなくなった(泣)。波乱(?)の年の瀬になりました。やれやれ。

(写真は2枚とも2021年9月7日に撮影。まだ引っ越しの前なので、家具も何もなくてすっきりしています)