紙の本の「効用」

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 朝日新聞の毎週木曜日夕刊に掲載されている脚本家・三谷幸喜氏のコラム「三谷幸喜のありふれた生活」。毎週楽しみにして欠かさず読んでいるのだが、先日(12月2日)のエッセイ(第1064回)に、思わず我が意を得たりと膝を打った。

 前週のコラムでは三谷氏は、現在執筆中の来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の脚本で壁に突き当たってしまい、筆が進まなくなったごく最近の経験を書いていらした。今回はその続きで、停滞からの脱出について書いている。払暁の書斎で悶々とするうちに、ふと書棚で目についた『向田邦子全集』別巻の対談集を手にとって読み始めると、そこには向田氏の語る苦境への対処法が。「まるで今の僕」と驚き、思わぬ先輩脚本家からのアドヴァイスに心を明るくした三谷氏は再びパソコンに向かう、という主旨の内容だった。

 私がピピッときたのは勿論、「自分の書棚の本に救われる」という部分。ふと目にした書棚の本を何気なく手にとって開き、読むことにより、思わぬ活路が開かれるという体験。三谷氏のみならず、本を持つ身であれば誰でも一度は経験したことがあるに違いない。私にも勿論ある。その「本の効用」を、三谷氏が他でもない多くの人が目にする新聞コラムに書いてくれたことが、同じく本を愛する者としてすごく嬉しく感じたのだ。

 ここでものすごく大切なのは、紙の本でなければその「効用」が発揮できないということだ。電子書籍では絶対に発揮できない類の「効用」であり、私が紙の本は電子書籍より遥かに勝ると考えているたくさんの理由のひとつでもある。

 特に重要なのは、三谷氏が書く以下の部分。

 毎日背表紙は目にしているのに、なぜその時に限ってそうしたのかは分からない。吸い寄せられるように本を摑み、ぱらぱらとめくってみる。(中略)読んだはずだが、どんな内容だったか忘れている。

(「三谷幸喜のありふれた生活」第1064回 朝日新聞2021年12月2日夕刊掲載)

 これである。

 この「毎日背表紙は目にしている」というのがキモなのだ。

 何気なく本棚に並ぶ「向田邦子全集」別巻の背表紙を眺めるという日常の中の無意識の行為。それは意図せずにその本の存在を、その中身を(既読か未読かを問わず)認識する行為でもある。意識の上では内容を全く覚えていなくても、その行為が日々繰り返されることで、氏の意識下では「向田邦子全集」別巻の存在感が、内容も含めてしっかり蓄積されている。そしてその積み重ねがあるからこそ、まさにこの時にその本に手が伸びたのだ。他人の頭の中のことなので定かには言えないが、私はそのように想像するのだ。

 読んですぐ手放した本ではこういうことはまったくできないし、そもそも物理的に存在する紙の本でなければ起こり得ない。電子書籍でも蔵書一覧を画面上に表示できるのかどうか、使用経験のない私は知らない。だが、仮にできたとしても、毎日生活の中で何気なく本の背表紙を目にする=なんの意思も意図もなく目を向けるだけで、自分が持つ本の背表紙が目に入る=「自分の日常の中に本が存在している」ことは、逆立ちしたって電子書籍にはできない。

(もし仮に電子書籍でそれができる人がいるとしたら、つまりなんの意思も意図もなく画面の中に目を向けるのが当たり前の日常になっている人がいるとしたら、それは決して人としてありうべき「日常」ではなく、むしろなんらかの異常を自分の中に疑うべきだ、と私は思う)

 

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 もしかしたら、このコラムの三谷氏と同じ種類の行為があって初めて、人は一冊の本を「自分のものにした」と言えるのかもしれない。本当の意味で。もちろん本を読むこと自体はとても重要だ。だが、一回読了したことは実はその本への「最初の挨拶」程度に過ぎず、本当に「血となり肉となる」ためには、その後にその本とともに過ごす長い「日常」の年月が必要なのではないか。真に大事なものごとは長い時間をかけてのみ行われる、と私は考えるのだが、いかがであろうか。

 これは、よく言われる「積ん読」効果にも通ずることだろうか。そちらも私は大いに賛成かつ言いたいことがたくさんあるのだが、このことはまた稿を改めて書かねばならないだろう。少なくとも、ここで言いたいのは、「それは紙の本でなければならない」ということだ。三谷氏の今回のコラムは、それをはっきりと示しているように、私には思える。

(写真は12月6日に、代官山T-SITEにて撮影)

(2021年12月8日投稿。それにしても、ずいぶん久しぶりの投稿になってしまいました)