映画の大衆性と芸術性

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 周知の通り、日本時間で2022年3月28日に開かれた第94回米国アカデミー賞の授賞式において、濱口竜介さんが監督した日本制作映画『ドライブ・マイ・カー』が国際長編映画賞(以前の外国語映画賞)を受賞した。2022年3月17日の日記に書いた通り、この映画を大変面白く観た私としては、なんとも喜ばしい限りである。

 

 これまで世の中では、「ジャンル映画と女性監督の映画はアカデミー賞に縁がない」というようなことが言われていた、とどこかで目にしたことがある。私ならそこに、「文学性・芸術性の高い映画」つまり一般に「アート系」と呼ばれる類の映画も付け加えたい。

 それは、いわゆる「文芸大作」とかベストセラー小説を映画化した作品を指しているのではない。そのあたりの作品はむしろアカデミー賞の賞レースで「厚遇」される傾向にあるように思う。私がいうのは、この『ドライブ・マイ・カー』が内包しているある種の明快さを拒絶する要素や(2022年3月17日の日記参照)、作品内の各要素やモチーフに対して多様な解釈を許容する、「一筋縄でいかない」内容を持つ作品のことだ。もっと簡単にいうと一部の(多くの?)人が「よく分からない」で片付けてしまう類の作品だ。

 もちろん『ドライブ・マイ・カー』がそうした「アート的な」というか文学性の強い部分だけで出来上がっている作品ではないのは、この作品を観た人であれば説明不要だ。そして、この作品がいわゆる「アート系」作品を敬遠するタイプの「一部の(多くの?)人」にもアピールできる明快さを備えた、あるいは備えているように見える作品であるからこそ、米国アカデミー賞の作品賞にノミネートされたのだと思う。なぜなら米国アカデミー賞は世界でも最も「大衆的」な映画賞だから。

 映画とは元々、大衆のための娯楽として大きく発展した「産業」であるのは確かで、特にそれが米国において顕著であった。米国のアカデミー賞は、映画のその娯楽「産業」としての側面を強く反映しているのだ。まあ『ドライブ・マイ・カー』は作品賞は逃したので、そこは正直「やっぱり、そこまでは深く大衆に浸透できなかったか」というのが正直な感想でしたが。

 それでも、今作のような非英語圏制作、かつ非英語を主言語に採用した作品が、作品賞や脚色賞に当たり前のようにノミネートされること自体が、米国アカデミー賞の大きな進歩だな、とは素直に思う。この賞の持つ「大衆性」が、米国の社会動向をヴィヴィッドに取り入れる度量と柔軟性にある程度繋がっているのは確かだ。大衆の志向や社会動向にいち早く応えることは、娯楽「産業」である映画業界が発展するためには必要欠くべからざる姿勢のひとつなのである。だがもちろん、それと同時に、例の「平手打ち事件」に象徴されるように、かの国の社会動向の「限界」をも同じようにヴィヴィッドに映し出しているのだけれども。

 それはともかく、今回のアカデミー賞での最多受賞作品は、6部門を受賞した『DUNE/デューン 砂の惑星』だったことは、何度でも明記しておくべきだろう。私個人としては、実は『ドライブ・マイ・カー』の受賞よりさらにこっちの方が嬉しかった。それほどに『DUNE』は圧倒的な印象を持つ作品だったのだ。

 

 

 だが現在のところ、この事実はあまり大きな話題になっていないように感じる。『DUNE』が先述した「ジャンル映画」ど真ん中の作品であることで、アカデミー賞の「壁」に直面したようにも見えるし。これについてもまた、大いに書きたいことがあるのだが、それは次回の日記にて。

(写真は、2022年3月24日に、東京・日本橋にて撮影)