限りなく懐かしい、「イタリア的」なもの。

 

 我が家からほど近い映画館「下高井戸シネマ」にて、イタリアの名匠パオロ・ソレンティーノ監督Paolo Sorrentinoの最新作『Hand of God -神の手が触れた日-』(英題:The Hand of God、イタリア語原題:È stata la mano di Dio)を観た。

 米国アカデミー外国語映画賞を受賞した『グレート・ビューティー/追憶のローマ』"La Grande Bellezza"を観て深く感銘を受けて以来、それ以前の作品も含めソレンティーノ作品は欠かさず観てきた私だ。前作『LORO 欲望のイタリア』の時は試写会を観るという僥倖を得たのだが、それについては2019年10月31日の日記に記した通りだ。

 

studio-unicorn.hatenablog.com

 

 そのソレンティーノ監督の最新作ということで当然観る気満々だった私だが、今回の作品は少々事情が違う。ネットフリックスによる配信主体で公開され、映画館での上映は限定的にとどまるという、最近よく見かける公開パターンの作品だったのだ。

https://www.netflix.com/jp/title/8115632

 

 私はどうもサブスクというのに馴染めないせいか、まだいかなる映像配信サービスを利用したことがない。さらには目の力が大いに弱ってしまったせいで、端末やテレビの画面で長時間映画を観ることがより少なくなりそうな昨今の状況では、今後もサブスクに登録することがあるか疑問だ。不思議と映画館で観る分には目の疲れはかなり少ないので(おそらく目の凝らし方が少ないからだと思う)、映画館ではこれからも大いに観たいものだが。それに、そもそも映画館の大スクリーンと素晴らしい音響は、容易には家庭では手に入らない。この日記でも何度も書いたが、やはり映画は映画館で観てこそ、という思いは今も変わらず強い。

 それでもよくしたもので、とてもありがたいことに、この下高井戸シネマではそういうネット配信主体の話題作がよく上映される。この『The Hand of God』ももしかしたら……と思っていたら、ほんの一週間だけだが上映してくれたので、めでたく見逃さずに済んだというわけだ。

 長尺ものが多い印象のソレンティーノ作品の中では、比較的短め?の2時間10分という上映時間。しかも毎回全編にわたって古楽やクラシックからクラブミュージックまでジャンル無用で音の洪水の如くバンバン音楽を使いまくるソレンティーノ監督にしては極めて珍しく、劇中で使われる音楽が非常に少ないという、ある意味「異色づくし」の作品だ。

 異色といえば今作の題材そのものが非常に異色なのかもしれない。これまであまり表立ってパーソナルな作品を作ったことがないソレンティーノ監督が初めて自らの少年時代を、1980年代(特に1986年)の生まれ故郷・ナポリを舞台に描いた作品だからだ。16歳の主人公ファビエットは名前こそ変えているが、その人物像は監督自身の少年時代を色濃く投影し、彼が見舞われる家族の痛ましい悲劇は監督自身の16歳の時の体験だという。

 この映画の魅力と複雑さについて語っている、二つの優れたレビュー記事を見つけたので、以下に貼っておきます。作品の概要もつかめるので、未見の方はぜひお読みください。もしかしたら、観ずにはいられない気分になるかも!?

 

cinemore.jp

realsound.jp


 さらに、以下のリンクは、ソレンティーノ監督と主演のフィリッポ・スコッティFilippo Scottiへのインタビューを掲載した記事。監督がこの作品の制作に込めた思いを語っていて興味深い。また、監督の近作では珍しい若者の主人公(監督の少年時代を基にした話だから当然と言えば当然だが)を演じたスコッティが語る、撮影での微笑ましいエピソードも読める。

 

www.banger.jp

 

 

 私個人の感想としては、極めてパーソナルな内容の作品で、中には痛ましい悲劇に目を背けたくなる場面があってさえも、ソレンティーノ監督らしい映像美が健在であったことが、何より嬉しかった。何しろオープニング映像の、海側からグーンとゆっくり迫って、やがて画面いっぱいに広がるナポリの街並みの全景描写からさっそく圧倒される。それに続くのは聖ジェンナーロ(San Gennaro、ナポリ守護聖人。この聖人のまるで成金のおっさんのような俗っぽい出で立ちと描き方は、まさにソレンティーノ節炸裂。本領発揮だ)と精霊ムナシエロmunacielloにまつわる、幻想的で絢爛たるエピソードだ(打ち捨てられた貴族の館の暗い部屋の中で、傾いで置かれた輝く小山のような巨大なシャンデリアの、神聖さと俗悪さの両面にまみれた美しさといったら!)。冒頭から目眩くソレンティーノ一流の映像美に眩惑され、その「マジック」のおかげで、その後から始まる「現実的」な物語の映像が、まるであらかじめヴェールを透かして見ているような錯覚すら覚えてしまう。

 私自身は、イタリアへは何度も行ったことがあるにもかかわらず、ナポリへはまだ一度も足を踏み入れたことがない。だが、この映画を観たあとでは、そのことに忸怩たる思いを抱いてしまう。それほどにこの作品に映し出されたナポリの映像は、実に甘美で美しく、監督自身の回想のヴェールに包まれてさらに幻想的に、どこまでも尽きせぬ郷愁に満ちて胸に迫る。これまでのソレンティーノ作品と同じくこの映画でも多用されている、手前からゆっくりとカメラが奥に進んで風景がおもむろに広がってゆく、あの悠然とした画面の展開ぶりに目を、心を大きく揺さぶられながら。

 

 

 そしてこの映画を観て私は初めて気づく。なぜソレンティーノ作品に映し出されるイタリアの風景が、これほど私の胸に迫るのか。この物語の主な舞台は1986年。私が大学時代の交換留学で英国で一年間暮らしたのがそのわずか4年後、ほぼ同時期といえる1989−90年。私はその一年間のうちで、休暇などを利用して西ヨーロッパの各地に放浪のような旅を繰り返したのだが、その中で英国・ノルウェー・イタリアの3か国はとりわけ印象深く私の中に残った。

 『Hand of God -神の手が触れた日-』の中で再現された1986年のイタリアは、そしてナポリは、ソレンティーノ監督にとっては幼少期より親しんだ、彼の原風景ともいえるものだ。おそらく、彼がこれまでに作ったすべてのイタリアを舞台にした作品の根幹をなしているといってもいい。そしてそれは、私にとっても決して無縁の風景ではなかったのだ。

 先述の通りナポリそのものには行ったことがないものの、あの時訪れたフィレンツェシエナヴェネツィア、ローマやラヴェンナやその他の街並みや通りの風景、人々の佇まいはまさにあの画面に映し出されたものと(同じく回想のヴェールに包まれながら)寸部違わぬものとして私の目の奥に映っている。もちろん、イタリアの各地方や各都市を一括りにしてしまうことの愚かしさを今の私は重々承知してはいるが、それでもなお、自分にとっての「イタリア」の映像的な原点を鑑みるとき、かの国の様々な街や地方はある種の共通性を持って浮かび上がってくる。

 スクリーンに映る実際に見たことのない景色が、私の中ではすでに記憶の中で見た風景として、限りない懐かしさを湛えて目の前に広がっている。そんな錯覚のような、不思議な感覚を呼び起こしてくれるのが、私にとってのソレンティーノ作品に出てくるイタリアの風景なのだ、と思う。だからソレンティーノ作品に出てくるイタリアの風景を、より一層のエモーショナルな高まりとともに味わうことになるのだ、と。陽光に照らされたナポリの街角の強烈な陰影や、ファビエットの家族や親族たちが集う海辺の断崖の上に建つ古い館の玄関ポーチの暗がりや、彼らが暮らすアパートのキッチンやバルコニーの佇まいを、いつまでも眺めていたいと思うのだ。

 

 

 ファビエットの周りに登場するエキセントリックな人々や、この映画にもてんこ盛りで雑多に入っている(ソレンティーノ作品ではお馴染みの)「謎」なシーンのこと。そしてマラドーナに関連して「神の手」に込められた二重三重の意味(念のために書くと、これはサッカー映画ではない)や、エンド・クレジットで流れる「自然音」のことなど、この映画について思いつくことを書き出すとキリがない。なので、またいつか、気が向いた折にでも。目がゴリゴリでしんどいので、書けるか分かりませんが。

 

 

(写真は全て、2013年6月26日にイタリア・シチリア島モツィアMozia、およびトラーパニTrapaniにて撮影)

(2022年4月26日投稿。こんな程度の長さの文章を、書き始めてからアップするまでに5日もかけてはいけません。でもちょっと画面に目を凝らすとたちまちゴリゴリと痛みがしんどくなってしまい、進み具合が亀の歩みの如し、なのです)