朝ごはんにハムエッグ

 この頃は、武田百合子の有名な『富士日記』を、ことの合間を見てはつらつらと読み進めている。

富士日記(上) 新版 (中公文庫 (た15-10))

富士日記(上) 新版 (中公文庫 (た15-10))

 

 

 小説家・武田泰淳の妻だった著者が、富士山麓で夫と過ごした13年間を綴ったこの日記は、日ごとに朝・昼・晩と食べたものが事細かく書かれているのがひとつの大きな特徴だ。その中のある日の記述で、朝食の欄に「ハムエッグ」と書いてあったのを見て、無性にハムエッグを朝ごはんに食べたくなってしまった(笑)。

 なので、ハムエッグを妻にリクエストしたら、今朝の朝食で作ってくれた(下の写真)。

f:id:studio_unicorn:20200923094752j:plain

 

 私たちは塩胡椒をかけていただく。

 なんというか、「懐かしくて美味しい」味がした。

 ハムエッグというと、自分の中では、なんだか昔ながらの旅館の朝ごはんに出てきそうなイメージだ。正直いうと、実際にハムエッグを旅館の朝食で食べたというはっきりした記憶はない。が、「そんな感じ」というか、ある種の世代的な共通意識なのかもしれない。個々人の経験の有無はともかく、その世代に属する人すべてに共通する「記憶」として。

 世代といえば、『富士日記』は昭和39年=1964年に始まっている。私が生まれる数年前だ。そのせいか、読むたびに、幼い頃の朧げな記憶が少しずつ呼び覚まされるような、不思議な感覚を覚えている。これが、『富士日記』の文章そのものによるものなのか、日記が描き出す当時の風物の描写によるものなのか、あるいは自分の年齢によるものなのかは、定かには分からないのだけれども。

 

富士日記を読む (中公文庫)

富士日記を読む (中公文庫)

  • 発売日: 2019/10/18
  • メディア: 文庫
 

 (2020年9月23日投稿)

【映画記録】名探偵と本格推理

 レンタルしたDVDで、映画『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』"Knives Out"(2019年)を観る。

 名探偵が登場する本格推理ものなので、ちょっと期待して観たのだが。

ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密 [DVD]

ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密 [DVD]

  • 発売日: 2020/07/22
  • メディア: DVD
 

 

 う〜ん……。

 途中で犯人(というか黒幕)の目星がついてしまった……。

 トリックの要もなんとなく見えてしまった……。

 それに、観終わってなんともすっきりしない映画だったなあ……。後味を最重視する私には、これは大きなマイナス。

 ライアン・ジョンソン監督Rian Johnsonは本当に心から「アガサ・クリスティのような本格推理もの」がやりたかったのだなあというのは、実によく伝わった。いかにも事件が起こりそうな豪壮な館に屍体とごっそりの容疑者だし、いかにもな名探偵が登場して捜査する。その辺のお膳立ては、本格ミステリの王道を押さえているように思った。

 だからこその難しさ。本格ものを志向して作り込んだこの作品のプロットは、小説の本格ミステリであればよく見かける程度の複雑さなのだが、これを映画でやると「やりすぎ」になってしまうのだ。だから解決してもカタルシスを感じない。

 ネタバレしてしまうので詳細には書かないが、この映画を観て、つくづく本格推ミステリを映像化することの難しさを感じだ。オリジナルの脚本であってもだ。本格推理ものを表現するのは、やはり文字を連ねる「小説」こそが最も相応しい形だな、と。それをそのまま映像のフォーマットにのせると、どうしてもある種の歪みが出てきてしまう。映像化に適するように「変換」が必要になる。ケネス・ブラナーが手がけた『オリエント急行殺人事件』のリメイク(2017年)を観たときにも、同じような感想を抱いてしまった(1974年版のほうはその点上手く扱っていて、まことに傑作なのだが)。本格推理小説が大好きなだけに、つくづく残念なことではあるのだが。

 むしろ、アナ・デ・アルマスAna de Armas演じる主人公マルタが「嘘をつくと必ず吐いてしまう」という、いかにも映画ならではの設定が、物語の中で巧妙に機能していたのが印象的だった。この手の設定は小説でやるとすごく嘘くさくなってしまいがちなので、映画だからこそ上手くいったというべきか。ただ、この設定そのものがこの映画の本格ミステリらしさ=純粋な謎解き要素を最終的に邪魔してしまったのは、まさに「諸刃の剣」。実に皮肉なことだ。

 ただ、米国が抱える深刻な移民問題を物語に絡めているのは、注目したいところだ。松本清張らの「社会派推理小説」を持ち出すまでもなく、もともとミステリ作品は社会問題を扱いやすい性質を持っている。その移民問題での上下関係が、結末で皮肉な逆転を見せているのは象徴的だ。

f:id:studio_unicorn:20190901154819j:plain

(写真は2019年9月1日に、東京の駒場公園内・旧前田侯爵邸にて撮影)

(2020年9月24日投稿)

重力は時間を超える

https://www.instagram.com/p/CFPKldMjiTe/

 

 109シネマズ二子玉川にて、クリストファー・ノーラン監督Christopher Nolanの名作『インターステラー』"Interstellar"(2014年)を、IMAXレーザーでの特別上映にて鑑賞してきた。同監督の最新作『テネット』"Tenet"に関連した企画だったらしい。

 我が家から自転車で気軽に行ける二子玉川の109シネマズも、3月にIMAXシアターを鮮明な映像がウリのIMAXレーザー仕様にアップグレードしていたのを初めて知った。そのおかげで、二子玉川でも『インターステラー』の特別上映が可能になったらしい。

 『インターステラー』は、2014年の公開当時に映画館で観て(その時はたまたま観た映画館が、これまた特別限定のフィルム上映だった)、その後もブルーレイを購入して何度も観ている。ノーラン作品では『インセプション』『ダンケルク』と並ぶ大好きな映画だが、2時間50分超の長尺ゆえ観るにはまとまった時間が必要になり、そのため鑑賞回数はさすがに二桁には届いてないか。伏線回収なども含めほぼ中身を知り尽くしたと言っていい作品だが、IMAXの大スクリーンでこれを観ることができる機会は滅多にない。いいチャンスだ。家から近いし。

 また、この新型コロナウイルス禍のせいで今年の1月を最後に8か月近くもシネコンで映画を観ておらず、早く「シネコン復活」したい気持ちもあった。

 というわけで観てきたのだが……。

 いやあ、すごかったです。

 まさに、「最高の映像体験」だった。

 何度も観た同じ作品なのに、ここまで「新しい」体験ができるとは。滅多にないだけに、見逃さないで本当によかったと、心の底から実感。映画を観るのも、演劇やライブと同じで、本当に「一期一会」なものだと改めて思う。

 私たちの席が4列目と、少々前寄りの席だったのもよかった。IMAXは天井から床までの巨大スクリーンだけに、その辺の席で観ると視界全体が画面に占領されて、それ以外のものは全く目に入らない。そこにIMAXレーザーの鮮明な映像なので、特に宇宙空間の映像などは、臨場感がハンパない。加えて腹の底まで響く素晴らしい音響が、映画のリアルさを更にかきたてる。本当に自分も宇宙空間の中にいて、巨大な窓から直に宇宙を眺めているかのような錯覚に陥るほどだ。もともと私は映画館では前寄りの席に座るのを好むのだが、『インターステラー』は何度も観ている作品だけに画面全体を俯瞰する必要はさらになく、むしろ映画の中にいかに「没入」できるかが重要だったので、前寄りの席で大正解だった。

 

f:id:studio_unicorn:20200915162707j:plain

 

 IMAXシアターをここまで堪能したのは、2017年の『ダンケルク』以来だったかも。いや、映像の美しさに圧倒されたという意味では、あの時を超えていた気がする。『ダンケルク』を観たのは同じ二子玉川のIMAXシアターだったが、当時はまだIMAXレーザーに改良される前だったので。ノーラン監督のIMAX好きは有名らしいが、そう言われるほどに、手がける作品が「IMAX向き」に作られているということでもあろう。ただ闇雲に大作だからIMAXで〜としてしまうその辺の「大作」と違い、ノーラン作品の場合は、IMAXの特性を理解してそれを最大限に生かした映像を作るという、職人芸のようなものを感じる気がする。その最たるものが『インターステラー』なのだろう。その分、追加料金は通常のIMAXより200円高いのだが、「特別な体験」のために余計に払っただけの価値は十分にあった、と心底思う。まあそんなところでケチる程度なら、初めから観ない方がよいのだが(笑)。

 クリストファー・ノーランという人は、決して映像美を追求するタイプの、いわゆる「映像派」の作家ではない、と私は思う。むしろ、美しい絵と音が物語の効果を高めることに注力して、その意味での「凝った」映像を作る人なのだという印象を抱いてきた。だから、物語の進行と映像効果のシンクロが狙い通りに発揮されたときに、観客の感情がものすごく高められ、その中で映像と音楽が最も「美しく」印象づけられるように仕掛けられている。IMAXシアターのシステムもきっと、彼にとってはその手段のひとつなのだ。そうまでして彼の作品が訴えているのは愛とか親子の絆とか人類の正義とかごく普遍的なものごとなのだが、それが高められた効果によって私たちの心にずっしりと刻み付けられ、言葉にならない切なさと想いが溢れかえってしまう。その最高峰たる『インターステラー』『インセプション』には、だからこそ何度も観たくなるほどの忘れ難い印象をいだき続けるのだろう。少なくとも私はそうだ。

 だから、いくらでも深読みができる『インターステラー』は、見た目は物理理論がガンガン投入されて、小説ならバリバリのハードSFに分類されるような側面を持つのだが、その芯はとてもシンプルで普遍的な、人類を救うために奮闘する人々を描いた冒険物語だったりする。難解な物理理論を行動に反映させて、観客の理解レヴェルに下げてくれる役割を果たしているのが、マシュー・マコノヒーMatthew McConaughey演じる主人公クーパーの存在。私たち観客は、クーパーの行動をひたすら追ってゆけばいいのだ。

 けれども、そうした物理理論は物語に不可欠な要素であって、決して単なる目くらましや余計な「飾り」ではない。私たちは、少なくとも「重力は時間を超える」という理論だけは押さえておかねばならない。私の大雑把な理解では要するに、重力を制すると時間を操れるようになるということだが、コレが物語の構造にダイレクトに関わっている。この理論のおかげで、愛だの親子の絆だのといった普遍的なテーマが、他の映画では真似できないような、実に意外な形で私たちの前に立ち現れるのだ。そして私たちは深く涙する。(あ、コレはネタバレになるのか? 知っていても物語の面白さを何ひとつスポイルしないと思うので、大丈夫か)

 

f:id:studio_unicorn:20200915152416j:plain

 

 それにしてもこの作品が公開された2014年当時には、まさか6年後の2020年に新型コロナウイルスがこの地球上を席巻するなどと、私たちはどれほど予想していたか。映画の中で滅びに瀕している地球人たちが、ウイルスの拡散防止ではなく砂嵐を避けるためだがマスクを着けて暮らしているさまをこの2020年に改めて見ると、その予言的な光景に、その奇妙な暗合に慄然とする。よく考えると当たり前のことだが、地球そのものが人類のため環境を整えてくれているわけでは、ない。全ては変転するのだから、いつか地球の環境が人類の生存に適さない形に変化してしまうことも、十分にあり得るのだ。科学的に捉えると、今の地球の環境は「たまたま」今の形で存在しているに過ぎないし、人類もまた、その星の上に「たまたま」現れ出たに過ぎない。この映画の中で起きている「人類の未来」は、決してあり得ない未来ではない。映画のことばを借りれば、「起こり得ることは起こる」のだ。(映画の中ではポジティブに使われているが、元々はニュートラルな意味合いの表現かと思う)

 最後に、キャストについて少々。アン・ハサウェイAnne Hathawayは私の大好きな俳優さんの一人だが、この人って何を演じても「アン・ハサウェイ」になっちゃうんだよね〜。いや、別に演技が下手なわけでは全然なくて、ポジティブな意味合いで言っているのですが。地球を救おうと奮闘する科学者の役でも、鬼編集長にイビられるアシスタントを演じても、キャットウーマンを演っても、その役柄に埋没してしまうのではなくて「アン・ハサウェイ」という個人がはっきりと出てくるなあ、と感じるのだ。

 それから、今を時めく若手スター俳優ティモシー・シャラメTimothée Chalametが、クーパーの息子トムの子供時代の役でこの映画に出演していたことは、意外に知られていないように思う。まだ全くの無名時代で、クレジット表記もとても小さいので無理からぬことだが。この6年でこんなに有名になるとは。才能と運があるならば、6年あれば十分か。 

インターステラー [Blu-ray]

インターステラー [Blu-ray]

  • 発売日: 2015/11/03
  • メディア: Blu-ray
 

 

 ノーラン監督の最新作『テネット』も、すごく楽しみ。『インターステラー』上映前に、『テネット』のかなり長い(10分くらいはあったか)、おそらく冒頭部分かと思われる特別映像が流れたが、その緊迫した物語にすっかり引き込まれてしまった。この新型コロナウイルス禍にもめげずに、ノーランは映画館に客を呼び戻したいと、公開予定をできるだけ延期せずに済むよう頑張ったと聞く。その意気やよし。早く映画館で観たいなあ。

https://wwws.warnerbros.co.jp/tenetmovie/index.html

www.youtube.com

 

(写真は全て2020年9月15日に、二子玉川にて撮影)

(2020年9月22日投稿)

さらに、夏の終わり。

 まさに今、この国は、いろいろな意味での「夏の終わり」に差し掛かっているようだ。

 そのことを改めて認識する、この頃である。

f:id:studio_unicorn:20200911152100j:plain
 

 2020年9月7日の日記に書いた経緯で、予定から一週延期で本日放映された大河ドラマ麒麟がくる」第23話を観たときのこと。

 ドラマの中で、向井理演じる孤高の将軍・足利義輝が、長谷川博己演じる明智十兵衛(明智光秀)に、「夏は終わった……。わしの夏は……」と語りかける。麒麟がくるに相応しい平和な世の中を築けず、その気力も失い、盛りを過ぎてしまった己の無力さを嘆く台詞だ。自分が理想と希望に燃えて最も精力的に活動していた時期を、「夏」という季節になぞらえている。

mantan-web.jp

 

 この台詞を聞いて、私は少々びっくりした。

 なんと、ここでも「夏が終わる」のか、と。

 というのも、この日記のつい先日の記事で、恩田陸氏の『スキマワラシ』がこの国の「夏の終わり」を語る小説であると書いたばかりだったので。もちろん偶然の一致ではあるのだが、たとえ具体的な意図は無くとも、時代を覆う空気感は無意識に伝わるもの。なんというか、確かにこの国が(あるいは「この世界は」なのかもしれないが)今置かれている「夏の終わり」を、私たちはきちんと見つめなくてはならないのだ。そしてその下り坂をいかに上手く進むのか、がすごく重要だと改めて思う。そもそも「下り坂」という表現自体が、従来の価値観を踏襲した言い方に過ぎないのだが。

スキマワラシ (集英社文芸単行本)

スキマワラシ (集英社文芸単行本)

 

 こう書くと、「麒麟がくる」は室町時代の物語だから現代のことを言うのはお門違いだという的外れな批判が聞こえてきそうだ。だが、考えるまでもなくすぐ分かることだが、たとえ物語の舞台は16世紀であっても、ドラマそのものは2020年の日本人(と日本語を理解する人々)に向けて制作されたものである。これを観る「現代の私たち」が娯楽として楽しみ、「現代の私たち」が知識や教養を得る一助、あるいは「現代の私たち」の生き方を考える一助とするものだ。義輝のいう「夏の終わり」は、2020年の私たちにも向けたことばではないだろうか。

 今回の「麒麟がくる」は、2020年1月19日の日記でも少し書いたが、物語の時代考証は最新の研究成果を踏まえており、実に素晴らしい。物語の背景で展開される農村や街の風景、市場の活気などは室町時代を再現したかのような作り込みようで、観ているだけであの時代に入り込んだような気分になる。だが、その時代考証は物語をリアルに再現するためのいわば「道具」なのであって(だから軽視していい訳ではないので誤解なきよう)、物語の本質部分があくまでも2020年の日本に生きる私たちに向けて作られていることとは別である。「歴史は鏡だ」とは、あちこちで繰り返し言われることである。未来へ進むために私たちは、過去から、歴史から(その過ちも含めて)学ぶしかないのだ。

 己の無力さを嘆く義輝の姿は、決して過去に消えたひとりの「他人」の人間像だけではなく、現代の私たちにも繋がっている。2020年の私たちが直面する様々な問題やものごとも、同時に映し出しているのだ。そう思うが故に、義輝の呟く「夏は終わった」は、彼個人の単なる感慨を超えて私たちの心に響いてくる、そんな気がしてならない。

 この回のサブタイトルも、ずばり「義輝、夏の終わりに」。放映時期もまさに9月中旬で、実際の季節も本当に涼しい日が増えてきた夏の終わりだ。だがこれは、あくまで新型コロナウイルス禍による中断のせいで延期された結果なので、本来なら6月に放映される内容だったはず。もしかしたら放映を9月に延ばした時点で、実際の季節に合わせようとサブタイトルをこの、いつになくリリカルな題名に変更したのかもしれない。ここでも、意識してか無意識かにかかわらず、「夏の終わり」へのこだわりを感じるぞ。かの義輝と十兵衛の対面場面も、実にリリカルな演出だ。御所の庭に響く蝉の声が夕陽の日差しとともに胸に沁みいり、実に切ない。

 

f:id:studio_unicorn:20200911151722j:plain

 

 リリカルといえば、サブタイトルも含めてこの回全体がとてもリリカルで繊細な印象を受けたのだが、それに関してひとつ気づいたことがある。いくつかある対話の場面(例えば十兵衛と妻・煕子の対話)で、台詞を話す人を背後から写すカットがとても多いのだ。

 通常の映画やドラマの対話シーンであれば、カメラは話す側の人の顔を捉えて写すことが多い。時折聴く側の人の顔が短く差し込まれて対話感を盛り上げることはあるが、メインで映すのは話す側の人の顔だ。ところが、この回の「麒麟がくる」では、かなり長い台詞(ほぼ「決め台詞」といっていい)を話している人を敢えて背後から写し、聴く側の人の正面顔をその肩越しに捉えているカットが、実に多かった。今回の「聴く側の人」はほとんどが主役たる十兵衛その人なので、私たち視聴者は相手の話を聴く彼の、話の内容によって微妙に変化する表情をじっくりと見ることになる。長谷川博己さんの演技力の確かさもあり、彼の「受けの演技」をある種のフィルターとして、相手の話すことばが一枚柔らかい布に包んだような印象で、私たちに届くのだ。

 だからリリカルな印象を受けるのだな、なかなか凝った演出だなと感心したのだが、突然ハッと気づいた。

 そうか、これもまた新型コロナウイルス感染対策のための、苦心の演出のひとつなのかも、と。

 要するに、近づいて正面から喋って飛沫が相手にかかる状況を、できるだけ避けているのだ。だから話す側の人を敢えて後頭部から写しているのか〜。もしかしたら話す側の人はマスクをして台詞を喋っているかもしれない(だから正面から写せない)。あるいは、その場では台詞を発さずアフレコで対処している可能性もある。その場合は、カメラ外からADとかが台詞を代読して、それを聴きながら「受け」の演技だけを長谷川博己さんが「エア対話」でおこなっているということになるか? それだけに聴く側の長谷川さんの演技力が、より一層重要になってくるなあ。さすがに実績のある、優れた役者さんだ。

 それを踏まえて改めて思い返すと、先に挙げた義輝と十兵衛の場面でも、二人が立ち位置や向き合い方を工夫して、近々と顔を向き合うのを避けるように(内容的にはそうすべきくらいなのに)動いていることが分かる。他の場面でも同様な配慮がなされていることに気づく。先に書いた通り、ドラマ自体はあくまで現代の視聴者に向けて作られているのだから、登場人物たちが率先して感染対策やソーシャル・ディスタンスの「模範」を私たちに示している、とも取れるな(笑)。

 これらは私の想像に過ぎないので、実際のところは分からない。だが「麒麟がくる」の撮影再開以後の現場では、かなり厳重な感染防止対策が取られていると聞くので、あながち全くあり得ないこととも思われない。合戦シーンを極力少なくするなど、非常に多くの制約があるとも聞く。その制約を逆手にとって、今回の印象的な対話場面のような効果を引き出せたのだとしたら、今回の事態を「奇貨」として生かしたが故、とも言えなくもない。

 

  そういえば、サントラ盤第2弾が出たんですね。ジョン・グラム氏John Grahamの音楽は、2020年1月19日の日記でも書いたようにとても気に入っていて最初のサントラもすごくいいので、第2弾も買っちゃうかも。

 「麒麟がくる」そのものについても、テレビ番組をほとんど観ない私にしては実に珍しく、これだけ毎回欠かさず観ているのだから、ちゃんと書かないと。とは思いつつ、なかなか果たせない……。

 

(写真は2枚とも、2020年9月11日に世田谷区立・次大夫堀公園民家園にて撮影。使用カメラはCanon EOS Kiss M)

(2020年9月16日投稿)

【映画記録】名曲なくして名画なし

f:id:studio_unicorn:20200909163910j:plain

 

 ずっと気になっていたドキュメンタリー映画『すばらしき映画音楽たち』"Score: A Film Music Documentary"(2016年)を、レンタルのDVDでようやく観ることができた。

score-filmmusic.com

 

 小さい頃から映画音楽が大好きだった私。それも主題歌とかではなくて、れっきとした劇伴音楽、この映画の原題である「スコア」が。映画自体のソフトは持っていなくてもサントラ盤だけ持っている作品が、我が家になんと多いことか。

 この作品はまさに、映画の劇伴音楽がどう作られてきたかを描いたドキュメンタリーなので、それだけで私には興味津々。それを明らかにするために、作曲家や映画作家や関係者たちへのインタビューや現場映像・資料映像を駆使して製作され、加えて米国の映画音楽の歴史も俯瞰できる構成になっている。心理学者による映画での音楽の効用の解説も入っていて、なかなか秀逸な作品だった。いやー楽しめました。まさに「名曲なくして名画なし」だ。

 映画音楽のドキュメンタリーだけに、音楽が劇的な役割を果たす様々な名作映画の、いろいろな名場面ももちろん多数登場。観ているだけでかなり「胸アツ」な映像も多数。何しろプロローグのあとのタイトル・バックで、のっけから流れるのが「ロッキーのテーマ」だし。

すばらしき映画音楽たち [Blu-ray]

すばらしき映画音楽たち [Blu-ray]

  • 発売日: 2017/11/22
  • メディア: Blu-ray

 

 それにしても、米国映画音楽の歴史においてジョン・ウィリアムズJohn Williamsの存在がいかに巨大なものか、改めて実感する。現代の映画音楽を語るときに、特に米国においては、彼の影響を抜きにすることはできないだろう。そして、それに続く大きな存在として、今まさにハンス・ジマーHans Zimmerがこの世界に君臨していることも。

 最前線で活躍する数多くの作曲家たちへのインタビューや、彼らのリアルな製作現場映像がふんだんに盛り込まれているのも、この作品の大きな魅力だ。あまりに大勢出てくるので、アレクサンドル・デスプラAlexandre Desplatやマイケル・ダナMychael Dannaのような有名どころがほんのワンカットしか出てこなかったりして、ちょっと残念だったりする(笑)。特に私の印象に残ったのは、収録の際に自らオケを指揮することにこだわるジョン・デブニーJohn Debneyと、自ら映画館に赴いて観客のナマの音楽への反応をチェックするブライアン・タイラーBrian Tylerの二人だった。両人とも手がけた映画のサントラ盤を一枚ずつ持っているという親近感もあるかも。

(写真は、2020年9月9日に二子玉川にて撮影)

(2020年9月30日投稿)

この国の「夏」の終わり

 この国の「夏」は、確かに終わろうとしていた。白いワンピースと麦わら帽子の少女の姿は、間違いなくこの国が常に上向きで、「暑かった」時代をノスタルジックに象徴しているのだろう。

 

f:id:studio_unicorn:20200907112224j:plain

 先日読了した、恩田陸氏の最新長編小説『スキマワラシ』。8月28日の日記に書いたように、現代日本文明の深層に切り込んでいくような側面も窺えて、非常に読み応えのある小説であった。

 東北の民間伝承に出てくる座敷童子現代日本にアップデートして現れた物語、といえば話が早いのかもしれないが、恩田陸氏は、そのようにひとことで言い表せるような物語は、作らない。そんな「分かりやすい」ことは決してしないのだ。むしろ、単純な言葉では言い表せないような、それこそ「隙間」のようなモノを、言葉を積み重ね「なんとなく」、でも実態を徐々に持つように形づくってゆくのを得意としている。音階でいうなら、ドとかファとか半音とか名前を持ち誰でも分かる音ではなく、半音と半音との間の、一般的な12音階では明確に表現できない「音階のゆらぎ」を表現しようとするかのような、そんな作風を、私は恩田氏の小説から常に感じてきた。

 この『スキマワラシ』でも恩田氏はその本領を発揮していて、450ページ超に渡る言葉と文章の積み重ねの果てに、まさに「アレ」としか呼び得ないものごとが現前するのを、私たちは立ち会うことになる。

 そして、恩田陸氏の小説上のもうひとつの「得意技」は、誰もが「普通」と思って当たり前に存在すると思っているものごとを、人々が考えもしなかった側面から照らして、その意外な姿を浮かび上がらせるというものだ。この長編では、大胆にも(?)その対象が、現代日本の文明そのものに向けられていることが目を惹く。物語の中盤、第8章のほぼ全部と第9章の一部において、恩田作品としては異例なほどかなり意図的に、主人公の兄弟二人に現代文明について議論させているのである。

 もちろん恩田作品はこれまでも、どこか文明批評的な要素を含んではいるのだが、それらは物語展開の中で滲み出すように現れていたように思う。小説の中で、もちろん登場人物の口を借りてではあるが、ここまで正面切って現代日本文明を「論じる」形で出たのは初めてかもしれない。それほどまでに作者の、現代日本に対する危機感が強まっている表れか?とも思えてしまう。折しも、この小説を読了したあとで読んだ京極夏彦著『今昔百鬼拾遺 月』でも、現代日本のあり方に通じる問題を登場人物が論じる場面が、以前の京極作品に比べてかなり多い印象を受けていたところだ。今年の新型コロナウイルス禍によって、現代日本が抱える様々な歪みや問題が一気に顕在化したが、どちらの作品も初出はそれ以前だ。問題は昨日今日始まったものではなく、この異常事態で「見えてきた」だけなのだ。

 『スキマワラシ』での、この現代日本文明論の中で、特に慧眼だ私が思ったところがある。それは、今の日本の置かれている状況を第二次世界大戦の「ダンケルクの戦い」になぞらえている、以下の箇所。

 日本てさ、今まさに「ダンケルクの戦い」を実行しなきゃならないし、実行しつつあるんじゃないかって思うわけ。
(本文249ページより)

 ダンケルクの戦いは、言うまでもなく第二次世界大戦で最も重要な戦いのひとつだが、これが「撤退戦」であることがポイント。つまり、これからの日本は、よく考えて冷静にうまくダウンサイズして、まさにダンケルクの戦いのような見事な戦略的撤退をおこなう必要がある、と。多くの人が感じている日本の閉塞的状況を打開するのは、闇雲に「前に進む」ことではないと訴えているのだ。これまで「前」だと信じて進んできた方向が、果たしてまだ「前」であるのかどうか、も含めて。

 これは明らかに、現代日本に生きる私たちに向けた、警鐘である。この例え方はさすがに恩田陸氏ならでは、とすごく印象に残ったのと同時に、ここまで明確に「これからの日本の進むべき道」を語っているのは、恩田陸氏らしくないやり方だとも思った。「らしくない」ことをするほどに、現代の日本人に「警告」せねばならないという切迫した意識が高まっているのだろうか。この警鐘は、非常に重く響く。

 ただ、『スキマワラシ』の物語そのものは、あくまでも古道具屋を営むタロウとサンタ兄弟と、後半で二人に関わる現代アーティスト・ハナコのパーソナルなストーリーとして語られる。だが、それと並行して、三人が最終的に遭遇する「それ」が、実は多くの日本人の共時体験として語られ、ある種の都市伝説と化して世の中に拡散していく様も描かれるのだ。ここにおいて、主人公たちが語った現代日本文明論が、物語の骨子と密接に結びつく。主人公たちの個人的な物語であった彼らのルーツ(根源)を辿る軌跡は、日本社会全体が昭和・平成という「過去」をノスタルジックに見つめる視線と重なってくる。もう、日本社会の「夏」の盛りは終わったのだ。そして、この社会が「ダンケルクの戦い」のごとき見事な撤退戦をおこなうために必要な「萌芽」を、物語の終わりにて、主人公たちが私たち日本人全体に差し出してくるのだ。

 実際彼らの生業そのものが、そのための萌芽そのものと言ってもいいだろう。タロウとサンタは古道具屋を営んでいる。いわゆる骨董品ではなく、あくまで「古道具」なのがミソ。アンティーク(antique)ではなくてブロカント(brocante)の方ですね。大量生産品であっても古いものなら対象になりうる。そんな古いものに、特に「古き佳き時代」の忘れられた「遺物」に、新しい価値を見出して人々に提示する仕事である。それは、これまでの価値観や秩序に疑問を投げかけ、新しい視点や新しい価値観を持ち込むことに他ならない。弟のサンタ(この物語の語り手)にはさらに、触れた古い物体の「記憶のようなもの」が見えてしまう体質まで備わっている。そして、物語の中盤から登場して二人に深く関わるハナコは、現代アートを制作している。アーティストもまた、作品を通して既存の秩序への疑問符や新しい価値観を提示する存在だ。この三人が物語の終盤に、あるイベントで協業して、ひとつの作品を作り出す。

 これの意味することは明らかだ。「古き佳き時代の遺物」を現代アートに繋げ、新しい表現と価値観を生み出すこと。まさに「古きものから、新しいものを創り出す」ことだ。これこそが、恩田陸氏がこの小説を綴ることで提示する、私たちが取り得る「撤退戦」のひとつのかたちなのだろう。

 「ノスタルジーの魔術師」の異名をとる恩田陸氏が、そのノスタルジックな視線を日本社会そのものに向けたときに、この『スキマワラシ』が誕生した。この物語は、過ぎ去ったこの国の「夏」への鎮魂歌、レクイエムなのである。その上で恩田氏は、消え去ろうとする古い価値観や体制や秩序にしがみつくのはもう終わりにして、しなやかに変化のタネを萌芽させて新しい未来への一歩を踏み出そう--そう、私たちに呼びかけているように思えてならないのである。

f:id:studio_unicorn:20200908180321j:plain

(写真は、2020年9月8日に撮影)

 

 最後に、小説技法上の「仕掛け」について一言。恩田陸氏はこれまでも、ある種の効果を狙って、小説技法上の「仕掛け」をいろいろ盛り込んできた。中にはとても奇抜なものもあって、長編の前半を二人称で書いたり、明らかに物語の舞台がどこか判定できるのに、地名を始終イニシャル表記して匿名性を通したりしている。

 『スキマワラシ』でのそういう「仕掛け」は、会話の科白の表記方法にある。あるひとつの状況を除き、ほとんど全ての会話の科白に、現在の日本語小説で一般的なカギカッコの括りがないのだ。ただし、地の文に組み込まれた短い台詞だけは、さすがに分かりにくさを避けたのか、カギカッコ付きになっている。これは何を狙ったのだろうか。カギカッコを使わずに、地の文と同じように会話を表現することによって、作者は、何か現実離れした、説話っぽい雰囲気をこの小説に持ち込もうとしたのではないだろうか。現代日本の日常的な現実社会から「リアルさ」を剥ぎ取って、フラットに眺めるために。

 そして、終盤近くの例外的なひとつの状況=タロウとハナコとサンタが三人揃って、作品の制作によって物語の核心=「スキマワラシ」に近づいてゆくいくつかの場面のみで、会話が一般の小説と同じくカギカッコ付きで表記されているのである。まるで、この物語のそこだけがリアルだ、と言いたいかのように。実際には、客観的にそれらの部分を見ると、むしろ最も現実離れして、まさに彼らが「異界」へと踏み込もうとするかのような場面になっているのだが、会話文でのカギカッコの変則的な使い方が、それを逆転させているのが面白い。この「仕掛け」によって、作者が提示したかったものの効果が高まっているように感じるのだ。

 それにしても、実在か架空かわからないがレトロ建築や「昭和」な建物はわんさと出るし、いにしえのタイルや建具など古道具や現代アートもたくさん出てくるしで、私の好きなものばかり登場する小説であった。だから、読んでいて非常に楽しかったし、またレトロ建築巡りや古道具屋巡りなんかに出かけたくなってしまった。この異常事態が早く落ち着いて、そんなことを気兼ねなくできる日を楽しみに待っている。

スキマワラシ

スキマワラシ

  • 作者:恩田 陸
  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: 単行本
 

 (2020年9月10日投稿)

【映画記録】どんなに可愛くてもお子様はダメ

f:id:studio_unicorn:20200907200602j:plain

 夕食時に久々に赤ワインを飲んで(上の写真)、ちょっといい気分になったこの日の夜。

 食後にNHKで再放送中の「未来少年コナン」の昨夜放送分の録画を観ようとしたら、九州を席巻している超大型台風情報のために放送休止になり、一話分延期になっていた。当然、昨夜の分は録画はされておらず。前週に放送再開したばかりの「麒麟がくる」が休止なのはあらかじめ知っていたが、「コナン」も延期とは知らず、せっかくテレビの前にソファを移動して視聴体制を構えたのに、空振りになってしまった。

 何も観ずにテレビの前から撤退するのは気が引けたので、ワインを飲んだ余波も手伝って(笑)、手持ちのブルーレイから半ば勢いで映画『テッド』"Ted"(2012年)を選んで久々に鑑賞。相変わらずのおバカっぷりに大笑いしながら、楽しく観た。何度観ても面白い〜!

テッド [Blu-ray]

 >テッド [Blu-ray]

  • 発売日: 2014/03/05
  • メディア: Blu-ray
 

  『テッド』のアブないくらいの面白さについては、以前2019年1月26日の日記でも少し書いたことがあるが、今日久々に観て、この相当おバカで下品で安っぽい演出は、意識してそのように作っているんだな、と改めて気づく。敢えておバカで安っぽく見せているからこそ、この映画のコアにあるかなり「マジ」な、友情とか絆とかかけがえのない存在とかについて、観終わったときに心にずっしりと響くのだと思う。

 ということで、すごくおバカで下品でいて実はとても「まっとう」な映画なのだが、それでもコレはあくまでオトナ向き。お子様にはか・な・り刺激の強い、いろんな意味でとってもアブないギャグネタ満載なので、さすがに小さい子どもには見せられない(笑)。どんなにテッドの見た目が可愛くて、観たい観たいとしつこくねだられても、ある程度自分で判断できる年齢になるまではダメですよ〜。本国ではR15指定だそうだが、まあ中学に入ってしばらく経った子なら、ようやくOKかな。それまで楽しみにとっておけと声を大にして言いたい。お子様たちのあれしたいこれやりたいが、なんでも甘い顔ですぐに叶えられてしまいがちな昨今だからかそ、せめてこのひとつぐらい、もう少し大きくなるまで我慢しろ、と(笑)。ダメなのはダメ。

 何ひとつ我慢せずわがまま放題に育った子どもといえば、映画の中に登場するドニー父子が象徴的だろう。執拗にテッドを我が子に与えようと付け狙うドニーは、幼い頃「No」に囲まれて育った反動から(ドニーが言葉遣いの正しさに異様にこだわる様子には、幼い頃受けた「何か」のトラウマさえ感じさせる)、我が子には決して「No」を言わずなんでも希望を叶えてあげているために、息子はわがまま放題の自己中に育ってしまっている。 自分で良し悪しを判断して、自分の責任で行動できるようになるためには、理不尽でない「No」はある程度必要なのだ。ちなみに、「理不尽でない」の基準は、なぜそれが「No」なのかを子どもにきちんと説明できるかどうか、だと私は思う。

 まあそんなカタイ(?)話は置いといて、そのドニーの息子をぶっ飛ばす場面で、字幕では「誰かが星一徹にならなきゃ」と出てくる。愛の鞭ですな(笑)。もちろん、これは日本人向けに当てられた字幕で、マーク・ウォルバーグのオリジナルの科白は「誰かがジョーン・クロフォードにならなきゃ」という、米国人でないと通用しにくい往年のカルト映画ネタだったそうだ(もちろん私も知らなかった)。

 こんな感じで、この映画は初めから終いまで米国サブカルネタがてんこ盛り。2019年1月26日の日記で書いた『フラッシュ・ゴードン』を筆頭に、SWや『エイリアン』や『E.T.』やインディ・ジョーンズなど、大量の映画やテレビや芸能ネタのパロディやオマージュがこれでもかと詰め込んである(ネタが2012年基準であるのに注意)。それをひとつひとつチェックするのもまたとても楽しいのだが、さすがに日本人には分からないものもすごく多く、日本語字幕を監修した映画評論家の町山智浩さんも相当苦労なさったらしい。以下のリンクは、その町山さんが明かす、日本向け字幕の「元ネタ」集です。

tomomachi.hatenadiary.org

  パロディ以外にも、”Mr. フラッシュ・ゴードン”ことサム・ジョーンズはもちろん、トム・スケリットノラ・ジョーンズが本人役で出ているし(ノラは歌声だけでなくかなりキッツイ下品ネタを披露してる)、ライアン・レイノルズがひょっこり顔を出していたりと、画面を眺めているだけで本当に楽しい。

 このいまいましい新型コロナウイルス禍がなければ、若い友人たちを我が家に集めて『テッド』の上映会をしたいくらいだ。みんなで大騒ぎしながら見るのにピッタリ。観ていない人は今すぐ観るべし!  但し、おバカネタとお下品ネタに耐性のない方はご遠慮ください。あと、くれぐれもお子様はシャットアウトで!(笑)

(2020年9月9日投稿)