巡り巡って

 巡り巡って、妻の誕生日から5日後。

 5月17日は私の誕生日。

 何度も書いているが、5月17日はノルウェーでは最も重要な祝日だ。

 さらに昨年の同じ日の日記に書いたように、この日の東京は超個人的認定の「晴れの特異日」なのだ。が、今年の5月17日の東京の空はパッとしなかった。何もかもが早倒しに推移している今年の気候下のこと、例年より3週間以上先んじているほどの早すぎる「梅雨入りか?」攻勢には、さすがの私の誕生日効果(笑)も効き目は今ひとつか。

 と思っていたら、夕方ギリギリの日没間際に、僅かながら陽射しが……!

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 一日の締めくくりに、印象的で美しい夕焼け空を天が用意してくれていた。

 さすがは、私の誕生日である(笑)。

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 私の誕生日のために、今年も妻が苺のショートケーキを作ってくれた。

 彼女がショートケーキを作るのは昨年の私の誕生日以来、二度目。本当はもっと作りたいと意気込んでいたが、なかなか機会が得られず一年ぶりになってしまった。

 それでも、昨年の反省点をうまく生かして、今年はより見栄えのする仕上がりになった。作業を二日に分けて、前日にスポンジケーキを焼いておいたのも、作業に余裕が生まれて良かったようだ。

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 この日の夕食後にいただいたが、お味のほどももちろん素晴らしく美味しい。ホイップクリームの控えめな甘さと、苺の甘酸っぱさの相性が最高だ。

(2021年5月31日投稿)

ワイン・オルタナティヴ

 5月12日は、私の妻の誕生日。

 例年同じことを書いていて恐縮ですが、この日から私の誕生日(5月17日)までの5日間だけ、夫婦同い年になります。

 3月5日(私の母の誕生日)に母にご馳走したので、そのお返しにと母が、妻の誕生日を(と一緒に5日後の私の誕生日も)お祝いして、この日の夕食をご馳走してくれるという。

 そこで、下北沢一番街にあるイタリアン「ピッツァリーナ」を予約して、三人で久々にディナーに出かけた。

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 ひと皿ひと皿ごとにシェフの創意工夫が凝らされて、美味しい驚きの連続。とても素晴らしいディナーのひとときを味わった。

 スマートでフレンドリーな接客とあわせて、今いちばん人に薦めたい店だ。

pizzalina.jp

 この日はもちろん緊急事態宣言の真っ最中なので、お店ではアルコール類の提供ができない。

 代わりに、とお店が用意してくださったワイン・オルタナティヴの飲み物が、これまた実に素晴らしかった。(下の写真)

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 本物のワインに匹敵するどころか、かなり質のいいワインと比べても遜色のない飲みごたえ。

 すっかり気に入ってしまい、数日後に一本購入してしまった。

 このワイン・オルタナティヴのドリンクについては、また近いうちに書くとしよう。

(2021年5月16日投稿)

母の誕生日

 3月5日は、私の母の誕生日。今年で満82歳。

 私の実家の近くにある、オープンしてまだ丸2年というイタリア料理店「Daitalia」(ダイタリア)にて、母と妻と私の三人でディナーをいただき、ささやかに誕生日を祝う。

www.daita-lia.com

 

 新型コロナ禍による緊急事態宣言の影響で、外食すること自体が本当に久しぶりだ。

 それにしても、このお店はシェフの力がこもった、気取らないようでいて実はとても本格的なイタリア風の料理の数々が、どれも絶品。トンナレッリとかスパゲットーニとか、日本のありきたりなイタリア料理店ではまずお目にかからないような、マニアック?なパスタが、さらりと出てきたりする。

 ワインも同じで、すごく深い知識と経験に裏付けられ、かつ飲み心地の直感に従ってワインを選んでいる様子が窺える。その上、気さくな上に礼儀正しさも備えた接客も素晴らしく、とても心温まるひと時を過ごすことができた。

 

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 上の写真は、セコンド(メイン料理)で注文した鴨肉のロースト、クスクスサラダ添え。前菜やプリモ(パスタ)と同じく、言うことなしの美味しさでした。ボリュームもたっぷり。矍鑠たる母が嬉しそうによく食べよく飲みしていたので、さらに言うことなしだ。

 私の実家の周辺である井の頭線新代田駅界隈は、下北沢という唯一無二の繁華街があまりに近いために、長いこと環七沿いのラーメン屋以外は本当に何もなかった。それが、こういう嬉しい店が出てくるようになるとは、なんとも喜ばしい限りである。

 ここ数年は、他にもいい感じの店がこの界隈にポツポツと出てきていて、おそらく半年後くらいに実家に戻る予定の私にとっては、けっこう楽しみだったりする。すぐ近くの、小田急世田谷代田駅のあたりもずいぶん盛り上がってきているし。

(2021年3月8日投稿)

【映画記録】街の映画館で雨天の紐育

 半ば彼岸の淵を覗き込むような日々が続く。緊張を強いられて疲弊する一方で、鬱々とした思念ばかりが澱のように降り積もるこの十日ほど。ストレスが体調にも影響してイマイチな状態が続き、余計に鬱陶しい。

 いつ事態が急変するか知れないので翌日以降の予定が立てられず、当日思い立って観るには混みすぎる&時間がかかりすぎる大作映画(例えばすごく観たい『テネット』だとか)を、観に行くことができない日々。

 幸いなことに、私たちが住むところから自転車で気軽に行ける範囲内に「下高井戸シネマ」という街の映画館がある(下の写真)。ここならば思い立ったらすぐに行ける上に、よほどの超話題作でなければ平日は余裕でいい席で鑑賞できるのがありがたい。ラインアップもヴァラエティに富んでいて、見逃したヨーロッパ映画などもよく上映してくれるのも嬉しい。週替わりの上映なので、上映予定をチェックしていないといけないがのアレだが(笑)。もう十年以上お世話になって、この日記にもよく登場する映画館である。

下高井戸シネマ(オフィシャルサイト)

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 この日も、特に事態の変化がなさそうで外出しても大丈夫と分かり、おまけにすっきりと穏やかな青空が私たちを外へと誘う。絶好のお出かけ日和、秋晴れの好日である。今からなら間に合うと思い立ち、妻と自転車でひとっ走りして、下高井戸シネマで映画を観てきた。

 自転車で風をきって住宅街を走り抜けると、街中に溢れる馥郁たる金木犀の香りが追いかけてきて私たちを包み込み、えもいわれぬ幸福感に包まれる。2005年10月4日の日記を始めこの日記では散々書いてきたが、金木犀は私がもっとも好きな花の香りだ。この香りを嗅ぐだけで、幸福感に浸ってしまう。出かけてよかったな。

 観たのは、ウディ・アレンWoody Allen監督作品『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』"A Rainy Day in New York"(2019年)。

longride.jp

 

 今を時めくティモシー・シャラメTimothée Chalametとエル・ファニングElle Fanningが主演とは、さすがに御大、80を越えても慧眼だ。シャラメくんは、まだ無名時代に子役で出演した『インターステラー』を先日改めて観たばかり(2020年9月15日の日記参照)だが、伊達にルックスだけで人気があるわけではなく、本当に演技達者だなとつくづく感じる。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のもとで製作が進行しているという、リメイク版『DUNE/デューン 砂の惑星』の主演を務めているそうだし。

 アレン作品でお馴染みのニューヨークを舞台にした、軽妙な会話で綴るロマンチックな都会のお伽話。晴天のニューヨークは表向きのかりそめの顔で、雨が降り出すのは「魔法」が始まる合図。眠っていたこの街の本当の「顔」、ちょっと危ないけれどもロマンチックで魅惑に満ちた側面が目を覚ます。明らかにシャラメ演じる主人公ギャツビーは、そんなニューヨークの「裏の顔」に魅了され続けるアレン本人の分身だ。それも若かりし頃の本人でなく、童心を芯に抱きつつも老いてますますこの街に魅せられる本人の、若い姿での分身として。何しろ名前からして「グレート・ギャツビー」だし。実に分かりやすい(笑)。他にもさまざまな暗喩やイメージが、物語の中に登場する名前やモチーフに込められているのだろう。

 あくまで軽妙洒脱な、シティ・ジャズに彩られた1時間半のロマンチックなお伽噺を、現実を離れて愉しむ。ほんのひとときでも暗鬱とした気分が晴れて、霧雨の向こうに透かし見ゆる光明のほうへ、顔を向けてみたくなる。映画とは裏腹に、外は秋晴れの爽やかな青空が気持ちよく広がっているのだが(笑)。

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(この写真は2020年9月30日に、iPhone SE(2nd Gen.)にて撮影)

(2020年10月4日投稿)

秋晴れの公園にて

 すっきりと深い青色をした、爽やかな秋晴れの空に誘われて、自転車で砧公園へ。

 公園内でのんびり散策しながら、点景をカメラに落とし込む。

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 芝生に覆われた原っぱが広がり、ヨーロッパの公園や英国の牧草地を彷彿とさせる。

 砧公園はこういうだだっ広い原っぱがあるところが、私は好きだ。

 

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 彼岸花が咲いているのを見つける。

 

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 彼岸の気配を、とても身近に感じているこの数週間。

 例年以上に、鮮やかな赤色が目に染みるような気がする。

 この花々は、あちらの世界でもこのように美しく開くのだろうか。

(全ての写真は、CANON EOS Kiss Mにて撮影)

(2020年9月30日投稿)

【映画記録】「宝石」という名を持つ人

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 これは、現代の私たちが本当に観なければならない映画のひとつではないか。

 とはいいながら、観た翌日に泊まりがけで法事に出席し疲れ果てて帰宅した上に、尚且つ別途に重大な懸念を抱える身としては、この映画についてじっくり書いている時間がないかもしれない。とりあえず「観たよ」とだけ書いておこう。

 ようやく観られたというべきか。ずっと気になっていた映画『リチャード・ジュエル』"Richard Jewell"(2019年)を、封切り公開他数度も観る機会があったにも関わらず機会を逸し続けた末に、レンタルのブルーレイで観ることができた。

wwws.warnerbros.co.jp

 

 見逃さずに済んで、本当に良かった。

 いわゆる「社会派」の作品は正直あまり得意でない。観終わったあとの後味を最重視する私にとって、その傾向の作品は非常に苦い、あるいはなんとも割り切れない後味のものが多いので、作品が制作された意義は分かっててもどうにも敬遠してしまうのだ。クリント・イーストウッドClint Eastwoodの監督作品を観るのも、実はこれが初めて。

 そんな、私の気を惹きそうにない映画の何が引っかかったかというと、実在したリチャード・ジュエルの役をポール・ウォルター・ハウザーPaul Walter Hauserが演じると聞いてから。2018年に『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』"I, Tonya"を観た際に、このぽっちゃり俳優の脇役ながらブキミな「怪演」ぶりが非常に印象に残っていた。なので、いよいよ主役に抜擢されたと聞いて、どんな演技をするのか興味があったのだ。ようやく実際に映画を観ることができて、期待通りの芸達者ぶりだったなと感嘆しきりだ。

 この映画はハウザーの他にも、ジュエルを救う弁護士役のサム・ロックウェルSam Rockwellに、母親役のキャシー・ベイツKathy Bate(この作品でアカデミー助演女優賞ノミネート)や憎たらしい新聞記者の演技が光っていたオリヴィア・ワイルドOlivia Wildeなどなど、俳優陣の演技力の高さを堪能するだけでも一見の価値ありだ。

 それにしても、「正義」を振りかざすマスコミの、先入観と思い込みという「イメージ」を優先した決めつけと取れる報道と、それに煽られた人々すなわち日本でいうところの「世間」が、いかに弱い立場にいる無辜の人とその家族を苛んでゆくものか。さらにおぞましいことには、FBIもマスコミもこの事件では、彼らにとって「都合のいい」無実の人を「生贄」に仕立てようとしていた節さえ見受けられる。

 この作品が突きつける理不尽で醜い、「正義」という名の悪意の危険性は、この事件が起こった1996年当時よりもむしろ、社会にインターネットが蔓延した現代の方がより深刻なのではないか。ネット上であっという間にフェイクニュースが拡散してしまう2020年に生きる私たちにこそ、この重い課題が突きつけられている。私たちは既にあちこちで第2、第3のリチャード・ジュエルを作り出してしまってはいないか。この実話が「今」映画化されたのも、その深刻さに警鐘を鳴らす必要を感じる、多くの人がいるからこそではないだろうか。

 ということで、これは、現代の我々こそが観なければならない映画なのだ。

(写真は2020年9月18日撮影)

(2020年9月29日投稿)

手向けの花

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 叔父の訃報に接する。

 大好きだった叔父への手向けに、久々に花束を買ってダイニングテーブルに飾る。

 気がつけば、彼岸を過ぎてすっかり秋が深まり、菊の花がほんのりと開く季節だ。

 ほんのりと丸い菊の花々が、輪郭を震わせながら暗闇の中に浮かび上がる。

 その花々を見つめながら、故人を想う。

 

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 私の亡き父の、ただひとりのきょうだいだった叔父は、父より6歳年下だった。

 私が幼い頃は、社会人になりたてだった叔父もまだ私の両親と祖母と同居していたので、ずいぶんと可愛がってもらった記憶がうっすらとある。

 幼い頃の記憶といえば、まさについ半日前に書いた日記に、「幼い頃の朧げな記憶が少しずつ呼び覚まされ」などと書いたばかりである。そうした過去の思い出の断片が、さらに多くの意識下の記憶も呼び起こしてしまったのだろうか。などと錯覚してしまう。彼岸と此岸の境界が曖昧になるという、黄昏時のまやかしだろうか。

 ほんの2年と少々前、亡き父を偲ぶ会の席上では家族を代表して、350人以上もの人々の前で元気な挨拶をしていたのに。

 「それ」はいつでも、すぐそばにいるのだ。

 そのことに想いを馳せる。「無常」であることに。

 

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 夕暮れのほんのいっとき、普段は日常に紛れて見えない彼岸の姿を垣間見せようと、菊の花々はふんわりと私たちに誘いかける。

(2020年9月24日投稿)