私のスパイスカレー道

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 前日の夕食のメインは、さらにその前日に私が作っておいたスパイスカレー&ライス。「翌日のカレーはとても美味しい」とよく言われるが、やはり一日置くとカレーの旨味が増すように思うので、最近はスパイスカレーに関しては食べる前日に作っておくことが多い。

 今日のスパイスカレー(上の写真)の具材は、豚挽肉と蓮根。蓮根は初めてカレーの具材に使用したが、コリコリ食感が全体のアクセントになって実に良い。スパイスは基本の「タクコ」スパイス(私はクミンシードはパウダーでなくホールを使っている)に加えて、カルダモン・コリアンダーシード・フェヌグリークシード・レッドペッパー・シナモンパウダー・胡椒を使用。今回のトマトは缶詰のホールトマト(豚肉のコクと実に相性がいい)、ベースは牛乳でさっぱりめに仕上げている。

 料理が全然できなかった私が、スパイスカレーだけは作れるようになってほぼ2年が経つ。さっき気になって日記を見返してみたら、私が初めてスパイスカレーを作ったのは今日からちょうど2年前の、2019年8月28日だった。なんという偶然。感慨深い。(なので、コロナ禍の前から作っていますよ〜!)ほぼスパイスカレーしか作っていませんが……笑。

 2年前に初めてスパイスカレーを作ろうと思い立ったのは、ひたすら印度カリー子さんとこいしゆうかさんのおかげです。何度頭を下げても感謝しきれません。

  お二人が作った、この『私でもスパイスカレー作れました!』のおかげで、スパイスカレー作り、ひいては料理への私のハードルがどれだけ大きく下がったことか。

 昨年の10月から今年の春にかけて心身ともに最悪だった時期はさすがにスパイスカレーを作ることができず、かなりのブランクが開いてしまったが、それを除けば初めて作った2年前から作るペースは変わらず、だいたい10日から2週間ごとにスパイスカレーを作ってきた。具材やベースを様々に変えて、料理の先生もやっている妻の助言を聞いて。友人たちを招いて(もちろん新型コロナ禍以前のこと)私の手製のスパイスカレーを振る舞ったこともある。中でも、具材に豚ばら肉のスペアリブを選んで煮込み時間だけぐっと長くして、でも他は基本に忠実に従い、ご馳走のようなスパイスカレーを作ったときは、自分でもちょっとした達成感を感じたものだ。

 スパイスカレーを作り始めて2年近く経つので、どうも『私でもスパイスカレー作れました!』に書かれている基本からは少しずつずれてきて、かなり「私流」のスパイスカレーの作り方になっている。多分それもまた良し、なのだろう。それぞれに、それぞれが合ったやり方で。美味しさへの正解はひとつに在らず。

 先に書いたが、私はだいたい10日から2週間ごとにスパイスカレーを作っている。

 ということは、私たちが今住んでいる家で暮らすのは残り2週間足らずなので、これがこの家で私が作る最後のスパイスカレーということになるか。そう考えると、これまた感慨深い。すっかり慣れているはずの種々のスパイスの香りと味わいが、より一層深いものに思えてくる。

 ところで、私が一度に作るスパイスカレーの量はいつも4人分。夫婦二人で夕食にいただくと、当然翌日の朝ごはんも同じスパイスカレーなのは、もうお約束だ(笑)。今朝も、もちろんスパイスカレーの朝ごはんでした(下の写真)。

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 スパイスカレーは作るほどに、実に奥深いなあとしみじみ思う。まだまだ書きたいことがあるので、また稿を改めて書かないと。

(2021年8月30日投稿)

 

奇跡の夕景

 この日記に書きたいことは山ほどあるというのに、なかなか書くに至らない日が続く。

 昨年の終わり頃から種々の医者に通い続けた成果(?)もあって、昨年後半の最悪の状態からはだいぶ回復したが、まだまだ執筆や作品作りなどで画面を集中して凝視できる時間はかなり限られている。体調次第では全くできない日もある。

 さらに、私たちは夫婦二人で20年以上暮らしてきたこの家を、あと2週間足らずで離れることになっている。そのため、引っ越しの準備で、次第に増殖するダンボールの山に圧迫されつつ暮らす始末。そもそも、そのダンボール箱詰めの作業やらその他諸々の雑務、加えて大変に創造的なプラスアルファもあって非常にせわしない。もともとぐうたらでなかなか取り掛からない性分に加えて、こんな状況では気分的にも、とても落ち着いて文章を書ける状態ではないのだ。

 そんなわけで、今はとりあえず、我が家の屋上から眺めた実に美しい夕景の写真を貼って、お茶を濁しておこうと思う(笑)。

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 8月5日に、CANON EOS Kiss Mで撮影した写真である。加工は一切していない。

 何しろ自分の家の屋上からの眺めなので、この場所からの夕焼けはイヤというほど見てきたし写真にも撮ってきたのだが、これほどまでに美しい、彩りに満ちた奇跡のような夕景は記憶にない。

 もうすぐここを離れる私たちに向けての、天からのささやかな贈り物だったのだろうか。だとしたら、天もたまには粋な計らいをするものだ。

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(2021年8月27日投稿)

 

青天を衝き、雲を翔びこせ

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 このテレビドラマについて書こう書こう、と思うだけで一向に手が動かないうちに、どうやら放送が半分を過ぎてしまったようなので、慌てて少し書いておこうと思う。

 現在放送中の、NHK大河ドラマ「青天を衝け」である。

 

 

 「日本の資本主義の父」こと渋沢栄一(演:吉沢亮)と、彼が仕えた徳川慶喜(演:草彅剛)を中心に、幕末・明治維新期の激動の時代を描いた群像劇。

 幕末だし、どちらかというと政治より経済ネタで地味なイメージだし(実際には全然そんなことないのだが)、新しい一万円札の「顔」に決まって知名度がうなぎ上りの今でなかったら「渋沢栄一ってダレ?」なのは確実だっただろう。ある意味で、まことに時宜を得た大河ドラマの主人公ではある。

 実のところ(大河ドラマ以外の)テレビをほとんど観ない身であっても、私にはこのドラマをもっと応援すべきもっともな理由(?)がある。それというのも、3年前に77歳で亡くなった私の父は、23歳で就職して以来68歳で常任参与を引退するまで、一貫して東京商工会議所に奉職した経歴の持ち主だったからだ。もちろん東京商工会議所といえば、渋沢栄一1878年に設立した経済団体(設立当初は「東京商法会議所」)で、彼が設立した数多くの組織の中でも最重要のひとつであることは論を待たない。

 1978年、東京商工会議所が創立百周年を迎える際に、私の父は百周年記念事業のために数年前から異動して広報課長に就任し、事業の準備と遂行の現場指揮に当たった。1978年には小学5年生だった私も、所員の家族として数々の華やかな記念イベントに参加した記憶がある。

 その記念事業の一環として、創立者渋沢栄一の若き日を描いた「雲を翔びこせ」という単発の2時間ドラマがTBS系列で放送されたのだが、私の父はどうも立場上、そのドラマの企画に関与したらしい。父の遺品の中から、書き込みの入ったこのドラマの台本が出てきたからなあ。今年の「青天を衝け」に先立つこと、実に43年前のことである。単発の2時間ドラマでありながら、当時人気絶頂の歌番組「ザ・ベストテン」を休止してまでの放送だから只事ではない。主演の渋沢栄一役は西田敏行氏、いとこの渋沢喜作役には武田鉄矢氏という、当時若い人々に絶大な人気を誇った二人が顔を揃え、尾高長七郎をミュージシャンのチャーが演じるという、なかなか破天荒且つ豪華なキャスティングがかなり話題を呼んだ記憶がある。

雲を翔びこせ - Wikipedia

 ということで、私の父は渋沢栄一とは浅からぬ縁があったのだ。「日曜日の夜8時は、何があっても大河ドラマ」だった我が父がもし今も存命だったら、ついに渋沢栄一大河ドラマの主人公に選ばれたと知って、あああだこうだと論評しながらも大いに喜んだのではないかと想像してしまう。その意味もあって、このドラマは個人的にも実に感慨深い。

 ではあるが、今年2月14日に放送された「青天を衝け」の第1回を観る段階では、正直言って私の期待値はそれほど高くなかった。だって、大河ドラマの前作「麒麟がくる」が実に素晴らしい、これまでの大河ドラマの常識をいい意味で打ち破る、予想外の快作だったんだもん。2月7日にその超クライマックスの最終回が放送されてから、わずか一週間。あの興奮冷めやらぬままの「麒麟ロス」状態では、まあすぐに「はい次」とは切り替えられませんって(笑)。

(とはいいながら「麒麟がくる」が始まった時だって、実は私は期待値メチャ低かった(笑)。2020年1月19日の日記をご覧ください。まだまだ「麒麟」については、特に音楽とか、書きたいことが山のようにあるので、とうの昔に終わったドラマではあるが、今からでもきっと書く! いつかは書く。)

 

 ところが、第1回を観終わって、かなり風向きが変わった。なかなか面白い内容だっただけでなく、「おや、これは次回以降も期待できそうだぞ」と、素直に思えるドラマだったのだ。続きを観るうちにその要因をいろいろと考察してきたが、なんといってもその最大のものは、まさしく「麒麟がくる」と同じで、これまでの幕末ものの大河ドラマの枠に囚われず、図式的な対立構図でなく多様な視点による人物描写を基調とした、斬新なドラマ作りが功を奏していることだと思う。特に、渋沢栄一徳川慶喜をメインに据えることによって、結果的に長州と坂本龍馬を除外して幕末・維新を描くことに成功しているという点は、その「新しさ」を大きく評価すべきポイントではないだろうか。このことはいくら強調しても足りない気がする。別のところでもう少し書きたいと思う。

 いや、もしかすると、本当の意味では「斬新」ではないのかもしれない。「青天を衝け」を観て、私が最も強く連想する幕末ものの大河ドラマは、1980年のあの伝説の作品「獅子の時代」なのだから。二人の架空の人物を主人公に据えたあのドラマもまた、幕末と明治維新を実に多様な視点(少々乱暴に括ってしまうと「敗者の視点」なのかも)で捉えた物語だったと、今にして強く思うのだ。そして、その中でも最も大きいのが「いち庶民」としての視点なのかな、とも。パリ万博を題材に取り上げている唯二つの物語であることも共通点だ。これまた、実に41年の時空を超えて二つのドラマが繋がっていることになるのだが、これについても別の機会に書かねば。

 

 オリンピックの開催による3週もの中断を経て、ようやく再開した「青天を衝け」の本日放送分を観て、早くこのドラマのことを書かないと、と焦ってしまった。それにしてもパリ篇はもう少し長く観たかった気がするぞ。現地ロケができない状況では、そんなに長く続けられないのは分かるのだが。パリでの栄一の体験は、彼の「人生を決めた」大きな転機になったほど、なのだから。

 ようやく少し書けたが、まだまだ書くべきことが多い。音楽のことも。機会を改めて出来るだけ近いうちに書くとしよう。「麒麟がくる」のこともね。

 

 (冒頭の写真は8月6日撮影。このところ真夏らしくもない雨続きで、青空の写真がなかなか見つかりませんでした…笑)

(2021年8月17日投稿)

紡がれた言葉は、永遠に。

 児童文学者・翻訳家の神宮輝夫氏の訃報に接する。

 享年89歳とのこと。

 今はただ、逝きし魂の安らかなる平安を願うのみだ。

www.asahi.com

 

 神宮輝夫さんの代表的な訳業としてよく挙げられるのは、『ツバメ号とアマゾン号』をはじめとするアーサー・ランサムArthur Ransomeの諸作品と、モーリス・センダックMaurice Sendakの『かいじゅうたちのいるところ』だろうか。恐らくこの訃報を受けて、多くのブログやSNSにおいて、神宮さんの訳した「ランサム・サーガ」や『かいじゅうたちのいるところ』について言葉が費やされることだろう。それほどに、神宮さんが長きに渡って日本の子どもたちや大人たちに残した足跡は、大きい。

 私自身も、昨年の夏に『アーサー・ランサム全集』全12巻を手に入れて、子どもの頃に叶わなかった夢を果たそうとしていたところだった(2020年7月26日の日記参照)。現在は事情により一時的に箱に詰めてしまい読めないのだが(涙)、箱から出せるようになったら必ず読もう。

 それはともかく、神宮さんの訳書の中で、私に最も大きな影響を与えた作品は、なんといってもリチャード・アダムズRichard Adamsの『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』"Watership Down"である。

 

   英国の田園を舞台に描かれる、新天地を求めて遍歴するうさぎたちの壮大な叙事詩。まさに「叙事詩」とか「大河のごとき物語」という呼称がこれほど相応しい物語も、そうそうないように思う。

 この物語を読んだことで、壮大で時に苛烈な物語に深く感銘を受けたのはもちろん、生と死についても深く考えさせられ、まことに大きな影響を受けた。子ども時代に、まずこの作品に巡り合ったことが、今の私の一部を形作っているといっても、過言ではないくらいだ。

 『ウォーターシップ・ダウン〜』への私の思い入れの強さは2007年2月8日の日記などをご覧いただくとして、訳した神宮さんご自身もこの物語には強い思い入れがあったようだ。実際、1975年に最初の訳書を評論社より刊行してから(私が最初に読んだのももちろんこのヴァージョン)なんと31年後の2006年に全面改訳をおこない、原典により忠実な新訳版(上記リンク先の商品)を同じ評論社から出したほどだ。

(その際に、「うさぎ」→「ウサギ」と、題名の表記の一部を変更している)

 その後に、神宮さんが今度はランサム諸作品を2010年〜2016年に全面改訳したことはたいへん話題になった。だが、『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』の改訳はそれに先行するもので、おそらく、この改訳の手応えが神宮さんを再びランサム作品に向かわせ、より原典に近づかんと志す原動力となったのではないか。その翻訳者魂たるや、見事というほかない。

  そして、その紡いだ言葉は、生死の時空を超えてなお生き続ける。

 なお読まれ続ける。

 人々に物語の喜びと、感動を与え続ける。

 

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(写真は2021年8月13日に撮影)

(2021年8月14日投稿)

命の極みの刻

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 玄関のドアを開けると、ポーチに瀕死の蝉が横たわっていた。

 

 仰向けに転がって、わずかに弱々しく足を動かしている。

 最期の刻を迎えつつあるようだ。

 

 土の上で終末を迎えられるように、

 そっと脇の植え込みの中に移してやった。

 

 やがて、土に還ることができるように。

 

 しばし、祈るように佇む。

 降りそそぐ真夏の陽射しのもとで、

 命の際に立ち会う厳粛なひと時を噛みしめる。

 それが人間でなくても、どんな生き物でも。

 全ての生き物に、命の重さは、等しい。

 

 折しも昨日は、76年前に広島で多くの命が一瞬で失われた日。

 

 そしてその日の前も、その日の後も、

 今に至るまでの全ての日に。

 

 あなたも、私も、みんな、いつの日にか。

 

 命は閉じ、土に還り、再生の刻を待ちわびる。

 

(写真は8月7日に撮影)

 

(2021年8月8日投稿)

茄子の旨辛ナムル

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 本日の夕食の副菜に私の妻が作った、茄子の旨辛ナムル(上の写真)。

 レンジで加熱してくったりした茄子に絡めた胡麻油とコチュジャンの、えも言われぬ香りとほんのり辛みがよく効いていて、実に旨い。簡単に作れるので、お酒のおつまみとしても秀逸な一品だ。

 実はこのレシピ、我が家から歩いて30秒という超便利な立地で、しかも良いものが安く売られている優れもののスーパーマーケット「サミットストア」の作ったレシピカードに載っていたものだ。

 先週だったか、サミットで二人で買い物をしているときに、レジの近くに置いてあったこのレシピカードを目にした妻が、料理の写真が実に美味しそうというので、持ち帰って作ってみたのだった。我が家の食卓に登場するのは、早くも二度目だ。

www.summitstore.co.jp

 私たちが住んでいる東京都世田谷区を中心に展開するサミットストアは、そのユニークでアイディア溢れる面白い折り込みチラシがたいへん有名なので、その名を耳にしたことのある人も多いだろう。だがサミットはチラシだけでなく、レシピカードやレシピを掲載したリーフレットの発行にも力を入れていて、店内には常時数点置いてあり、頻繁に入れ替えがなされている。

 特に最近の新型コロナ禍の影響で、自宅で料理をする人が増えたことを受けてか、リーフレットの発行がより頻繁になり、初心者でも簡単に作れるレシピが多くなったのは嬉しい。先日も、市販のハンバーグの素を使って簡単にハンバーグを作れるレシピが載っていたので、私も初めてのハンバーグ作りにトライした。私の妻も、やはり別のリーフレットを見て、初めて鶏肉の唐揚げを作ったことがある。

 この「やってみる気にさせる」というのが、料理の場合は実はとても大きい気がする。

 この秀逸なスーパーのすぐそばという超便利な立地での暮らしも、あとひと月少々で終わり。正直、この点だけは少々残念な気がするなあ。

過去の人々にも「違う靴」を。

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 佐藤信編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで』(ちくま新書)を読了。現在第4弾まで出ている、ちくま新書の大人気「古代史講義」シリーズの記念すべき第1集を、ようやく読むことができた。

 

 日本古代史研究の最前線に立つ気鋭の15人が語る、最新の研究成果。これを読むと、数十年前に学校で学んできた教科書の記述が、今やいかに時代遅れになのかを痛感する。あの頃当然のこととされていた「事実」に、現在どれだけ疑問符が突きつけられているか。中には、明らかに誤りと認定されたものも。ましてやそれらの純粋な「歴史的事実」に正邪や善悪の判断が入り込む余地など、本来はあるはずがない。

 もちろん数十年前、つまり私たちが義務教育を受けていた頃の学校の教科書よりは、今まさに学校に行っている子どもたちの、現在の教科書の方がそれらの研究成果を踏まえた新しい記述になっているはずだとは思うのだが、最近の教科書の内容を知らない身としてはなんとも言えず。どうなのでしょうか?

 日本の古代史研究は、特にこの数十年の間の「進化」がめざましい。最新の科学的調査法を積極的に導入して飛躍的に調査の精度や情報のクオリティを上げた発掘調査結果や、木簡などの出土文字資料などの多角的史料、さらに他分野の横断的な研究の調査成果を踏まえた、近年の日本古代史研究。それら「物的証拠」に支えられた成果なのだから、当然のことながら従来の文献史料研究だけで定説とされた学説よりも、格段に精度の高いものばかり。それに従い、歴史を叙述する作業も、思い込みや断定や特定のイデオロギーに依らず、より事実に即して客観的におこなうことが可能になる。この本を読むと、次々と古代史がより実情に近いものに書き換えられていることを、ひしひしと感じるのだ。

 この最新の研究成果を、できるだけ早く学校の教科書に反映させていく必要があるのは、もちろん、当然のことだ。だが、より重要なのは、私たちのように学校をとうの昔に卒業して、もう歴史について学ぶ必要は全くないと思い込んでいる大人たち(もちろんそれは間違い)こそ、この本を読んで自己の歴史認識をアップデートしてゆかねばならないということだ。私たち大人は学校を卒業して世の中に出て、学校で学んだことが全てではないこと、学校で学んだことが絶対ではないことを、既に身を以て知っている。特に高等教育の本質は、「学び方」のスキルを身につけることに尽きる。だから、学校を卒業しても、学びは続く。人にとっての「学び」は一生終わらないものだ。

 さらに、学校の教科書は分かりやすく身につけさせる便宜として、事象の流れをとかく大づかみにしようと単純化・図式化してしまう傾向がある。特に、ものごとを二項対立に持ってゆきがちで、そこに善悪の押し付けが入り込む余地を生む。実際の歴史上の出来事は、そんな単純なものでは到底なく、実に複雑で錯綜しており、かつ多様性をはらんだものであることが圧倒的に多い。我々の現在の暮らしや社会が、まさにそうであるのと同じように。

 いうまでもなく、古代と現在は同じ人間の営みの延長線上に繋がっていて、全く分断していない。飛鳥時代奈良時代に日本で生きた人々が考えたり思ったりしたことは、現代に同じこの日本で暮らす私たちの考えや思いと、さほど大きくは異なってはいないのだ。そして実に複雑で多様なものをその内に抱えているのだ。

 だからこそ、私たちの生活や社会に起こる全ての問題を、学校で学ぶ際に便宜として使用した単純化や二項対立に落とし込んで思考停止するのは、全く「大人のすること」じゃない。過去も現在も同じ。この本を、学校を卒業した大人が読む意義のひとつは、そこにある。特に二項対立は、根拠のない思い込みや特定のイデオロギーに依った正邪・善悪のレッテルを貼られてしまい、そのレッテルが独り歩きしてしまう危険性が非常に高い。西洋史だって、未だに旧態依然とした「中世は暗黒時代で、ルネサンス人間性謳歌する明るい時代」という図式化された、間違った思い込みによる弊害が、実に根深くまかり通っていると聞く(追記:2021年9月5日の日記参照)。正すべきものは正さなければならない。

 私たちが生きている「今」を、この現代の社会を見渡せば、古代や中世にも、現代の私たちと同じように人間たちが喜び、笑い、泣き、悲しみ、怒り、苦しみながら人生を生き、社会の中で居場所を求めてきたことに気づく。そして、それらの時代が、現代と同じく簡単に図式化できないことにも気持ちが及ぶはずなのだ。私たちは過去の人々に対しても、「違う靴」を履いてみる必要があるのだ。

 時の彼方に埋もれた遥かな古代の歴史や人々に想いを馳せ、ロマンを感じること。それは、史料が少ないゆえに我々の想像力を掻き立てる余地が多く残されていることなのだと思う。小説やドラマ、ファンタジーとしての物語、自由な想像力のもとに文芸的な作品にそれらを昇華させること。どれも面白く興味深い(私も大好きだ)が、楽しみつつも、あくまで「これもひとつの視点、あるかもね」と絶対的な史実として信じ込まない客観性や批判精神を持ち続けることも大切だ。そこが、研究成果を踏まえて歴史学者が歴史を「叙述」することとの決定的な相違か。

 だが、アプローチや方法こそ違え、どちらも、いにしえに生きた人々を「今」に甦らせるおこないであることは間違いない。

 

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 最後に、とても重要に思われた文章をひとつ挙げておく。

文化というのはその時代を代表する文学や芸術作品を意味するのではない。その時代の生活の様相そのものである。
(本書第12講 河内春人「国風文化と唐物の世界」p.225より)

  これは非常に大切な指摘だと思う。権力者や体制の注文・収集による「最高級」の美術品でなくても、様々な視点からじっくりと目を凝らせば、日常生活や庶民の暮らしの中にも、その時代の文化の本質は表れている。いやむしろ、そこにこそ、その時代の文化の真髄が見出せるのかもしれない。

(写真は全て2017年5月2日に、京都にて撮影)

(2021年7月17日投稿)